

表情さえ気をつければいい。
そう思った。
凛とした表情か、謎めいているか、憂いのある表情か。
どちらかで描こう。
スナップ写真のように笑っていてはダメなのだ。
表情さえ品があれば、絵はうんとエロチックでいいのだ。
秋の展覧会には、2枚まで出品できることが決まっていた。
どんなポーズにするか。
まず、これを決めないといけない。
二人で美術館をたずね歩き、画集で名画と呼ばれる絵の数々を見て、研究しました。
本屋には、モデル写真が掲載された「画家のためのポーズ集」が出ていて、その中にもヒントになるいいポーズがあります。
「一枚はアラビアンナイト風で行きたいと思う。僕、女性のあの衣装がエキゾチックで大好きなんだ」
ハーレムの女性は、人気のある題材で、ドラクロアやルノアール、多くの画家たちが描いています。
もう一枚がなかなか決まりません。
「私はこれがいいと思うわ、どう?」
私が見せたのは、ある有名な画家の画集にあった、油絵の裸婦。
髪を無造作にアップにした女性が後ろ向きに座って、背中と臀部を見せた裸婦像です。
その元絵では、足の下に白い布を流して敷いていました。
裸婦に白い布をどこかに添えるのは、絵の鉄則です。
裸婦の肌が画面になじむのです。
「いいね」
彼も賛成しました。
同じポーズを描いても、同じ絵になる心配はありません。
不思議なことに同じポーズを描いても、画家が違うとまったく違う絵になるんです。
さっそく裸婦の座りポーズから描くことになりました。
腰まで届く長い黒髪を金色のバレッタで簡単にアップ。
白いシーツを敷いたマットの上に、足を横流しにくずして座り、後ろ姿を見せます。
「その手を髪に持っていって」
「もうちょっと顔をこちらに向けてー」
「視線はこの位のところを見て」
「もうちょい下に」
「上向けてー」
彼が次々と指示しながら、色んな角度で24枚とりの写真フイルムを2本撮ります。
30分で出来上がる現像屋さんに持って行き、その間にデパートの食堂で食事。
写真を受け取ってアトリエに帰りポーズを検討します。
「これがいいんじゃない?」
「そうだね、女らしい曲線だね」
二人でポーズを研究するのは、無類に楽しい時間でした…。
「よろしくお願いします」
「お願いします」
互いに礼をしてから、製作開始。
後ろ向きに座って、全裸の座りポーズ。
アップにした髪に、片手をあげて添えています。
岡村はアルシュの紙をとめておいたイーゼルに向かい、デッサンしていきます。
流れているのは、私が持っていったポピュラーCDです。
ポーズは20分描いて、10分休憩くらいが基本。
でも私たちは気ままに描いていました。
体や足を描いているときは、
「髪に添えた手は、どうぞおろして楽にしてください」
と言ってくれます。
「後ろ姿はいいですね」
彼がぽつりと呟きました。
「前は、だめなんですか?」
「向かい合うと、恥ずかしいですから…後ろ姿なら、じっくり見て描けます」
「フフフ…先生はシャイなんですね」
「男はみんなシャイですよ…」
画家さんには、前派と後ろ派があるようです。
戦後似顔絵を描いて修行したと言う彼は、描きながらモデルが退屈しないよう、話しかけてくれます。
「昨日、テレビで長崎の町を放送している番組をみたら、長崎をなつかしく思い出しました」
「岡村先生、長崎に住んでいらっしゃったんですよね」
「そうです。工業高校の学生時代、担任の教師が理解ある先生で、岡村は絵だけ描いていればいいからと、授業を受けなくても、絵だけを描かせてくれたんです。 僕は丘に登って、今で言うガッシュの絵の具で、長崎の町と海をずっと三年間描いていました」
そんな思い出話を描きながらしてくれるんです。
絵を描いてもらっていて一番楽しい時は。なんと言ってもデッサンが出来上がり、いよいよ絵の具で着色する瞬間です!
コンテの粉を羽根で払い、紙に水を霧吹きでかけて湿らせて、それを壁に立てかけたら、ワゴンの上の水差しに水を入れ、筆をそろえ水彩の用意します。
「この時が、一番わくわくするんです…」
彼も楽しそうに、たっぷりの水を使って絵の具を水彩パレットに混合します。
「バーミリオン(朱)と、色がお白いのでアンバー(茶色)はほんの少し。ここにビリジャン(緑)を少し混ぜるのがコツなんです。肌が不思議と輝いてきます」
説明してくれながら、岡村は鼻歌交じりに絵の具を水で混色し、薄い肌色を作って、筆にたっぷりと含ませ、さーっと掛けていきます。
たちまち絵に色彩と命のいぶきが入ります。
ハイライトの部分は塗り残して紙の白を生かす、白抜き画法。
やりなおしができない、むつかしい画法です。
でも彼はそれが得意なのです。
薄い肌色を、何回も何回も、気の遠くなるほど塗り重ねていきます。
赤みを帯びたところにはピンクをたし、影の部分にはビリジャンやアンバーを入れて…。
彼は絶対にモデルを見ながらでないと線や色を入れません。
目と指先の感動がそのまま画紙に伝わります。
ジャズで言うと、生のアドリブセッションのような感じ。
生きた絵になるのです。
そうして描いてもらいながら、ある時アトリエで、
「先生、他にいい人がいたら、どうぞその人を描いてくださいね。ご自由に。私に遠慮しないでいいですから」
何気なく告げました。
すると彼はさっと顔色を変えて、
「本当にいいんですか?」
問い直すんです。
「ええ、いいんですよ、もちろん。先生は自由ですよ」
軽ーく答える私に、
「そうですか。そういうことを言ったのはあなたが初めてです。でも僕は、こうと決めたら、変えないたちなんですよ」
なぜか彼は筆をとめ、思いつめたような表情で答えたんですーー。
※ ※
2枚目のアラビアンナイトの絵の白いハーレムパンツは、ジョーゼットの布地をデパートで彼に買ってもらい、私が手縫いして持っていったんです。
いつものように多摩の駅改札で待ち合わせた彼に、
「先生、家でハーレムパンツ作って来ましたよ!」
と告げると、
「それはいいですね。衣装ようのアクセサリーも買いましょう」
駅に隣接しているデパートで、アクセサリーを選んで買ってくれたんです。
「これなんかいいと思う」
彼が選んだのは、じゃらじゃらっとした色石のたくさんついたネックレスや、銀色の太いブレスレット。
エキゾチックな大ぶりのイヤリングを購入してくれました。
デパートの食堂でランチを食べた後、バスでアトリエに向かいます。
(ハーレムパンツ、彼は気に入ってくれるかしら?)
わくわくしながら別室で着替えます。
上半身は牡丹色のブラジャーだけ。
下に透き通ったジョーゼットの白いハーレムパンツをはき、じゃらじゃらとしたアクセサリーをつけて彼の前に現れると、
「いいですね! 実にいい」
と岡村はたいそう喜んでくれました。
「そうだ先生、メークも先生のイメージに合わせて先生がしてください」
メイク道具を差し出すと、
「えっ、僕がですか?」
そわそわしています。
「ええ、どうぞ。先生本当はメイクアップ・アーチストさんになりたかったんだ、って言っていたでしょう」
「じゃ…」
彼は、頬紅だけは自分が手持ちのものを取り出しました。
母親がつけていたメーカーの物だそうです。
円形の容器に入っていて、刷毛でつけます。
それを、水彩の絵にも入れていたのです。
彼は息をつめて、メークしてくれました。
それはそれは上手に。
彼がチークを入れると、入れる場所がぜんぜん違うんです。
チークを所定の位置に塗りました…じゃなくて、本当に赤らんでいるみたいになるんです。
用意が整うと、さっそく写真撮影開始。
デッサンの時もうきうきしています。
「このシリーズで何枚も描きましょう! 次回は、手に白い鳩を持ったポーズで描きたい。いいと思いますよ」
彼はよほどアラビアンナイトの衣装が好きなようです。
写真も、立ったポーズや寝転んだポーズ、踊っているようなポーズ、何枚もとりました。
実際に描いたのは、足を組み、片手を後ろについた座りポーズです。
表情は遠くを見つめています。
エキゾチックで品があって、セクシー。
それを狙ったのです。
休憩の度に覗き込むアルシュの画紙に、じょじょに裸婦像が浮かび上がって来る。
「だんだん出来てきますね!」
画面を見るのは心躍る、大きな喜びでした。
たまにいやに静かだな、と思ってイーゼルを覗くと、紙の余白に、
(美しき肌の色香に魅せられて、筆とどまりてしばし動かず)
そんな和歌が紙の余白に鉛筆で書き付けられてあって、
「先生、ロマンチックなんですね」
からかうと、
「すいません…つ、つい、いたずら書きしてしまって」
彼は超真っ赤になってうつむくんです。
※ ※
そうして絵を制作していた日のことです。
(彼の車に乗らなきゃいけなくなった。やばい!)
その日は絵を遅くまで描いていて帰りが遅くなってしまいました。
いつも電車で帰るのですが、その日は夜の9時を過ぎ、しかたなく彼の車で送ってもらったんです。
夏休み中で、子供は神戸のおばあちゃんの所に帰っていました。
彼の車がやばい! と思ったのには、理由があります。
彼、運転が超下手だったんです。
最初のころは彼の車に同乗していたんですが、私が話しかけるたびにグッとこちらを大きくふり向くので、ガードレールにぶつかりそうになったり、他の車にぶつかりそうになったり…。
「きゃーっ」
「先生危ないっ! 前を見てくださいっ」
「ぶつかるっ」
何度悲鳴を上げたことか。
怖くて生きた心地がしなかった。
ホテルのレストランに行くために入った駐車場で、停めるのに、切り返し切り返しでなんと20分以上かかったこともあったんです!!
もう、あきれかえってしまって…。
そんなこんなで、彼の運転にはこりごりし、絶対に乗らないようにしていたんです。
所が、その夜。
夜の灯りの町並みを疾走する彼の運転は、すばらしかった!!
発進は絹の上をすすむようになめらかだし、停まる時もすーっと知らないうちに停まっている。
背中にGを感じるほど加速しているのに、スムーズなハンドルさばきで流れるように車が進む。
ええーっ、彼運転上手い!!
思わず、
「先生、運転お上手なんですね。レーサー並の腕をお持ちなんですね!」
と言ってしまった。
彼は苦笑いしながら、
「最初の頃はあがって緊張していたんでしょう…僕、車が好きで、ついこの間まで年甲斐もなくスカイラインGTのマニュアル車に乗っていました。 ギアの入れ方が上手いとよく言われたものです。 スカイラインに乗っていると、若い人が見にきたりするんです…今は、絵を会場に運ぶのでこの車に切り替えてしまったんですが…」
「そうでしたの…」
画家さんだから、運動能力は抜群のはずなのだ。
目で見たことを指先に伝えて動かす。
彼のハンドルやギアを操作する指もセクシーで。
この夜、運転席から見る彼の横顔が、妙にステキにかっこよく見えてしまった…。
「先生、おモテになるんでしょ。恋愛体験は?」
と助手席から聞いてみた。
「僕はモテませんよ」
と言った彼は、
「学生時代の頃は、親父の仕事の関係で長崎の小さな島にいて…その時、親父の会社で働いていた、地元の漁師の娘の事務員と、付き合ったことがあります」
思い出を語った。
「どんな交際ですの? 」
「一緒に船をこいで無人島に行き、泳いだり魚をとって遊びました。彼女は漁師の娘だったので、船を漕ぐのもうまかったんです」
「無人島でキスとか…」
「まさか…僕は奥手だったから、思ってもそんなことはできなかったんです。今は懐かしい思い出です」
「その方とはどうなったんですか?」
「お袋の反対もあり、僕が長崎市内の工業高校に入学して島を出たので、それっきり別れてしまいました」
そっか、それで彼は彼女を思いながら、高校時代は海の絵ばかり描いていたのかも知れない、きっと。
「東京に来てからはどうですの?」
私の問いに、彼は黙って答えなかった。
そして20分以上走ってから、きっぱりと言ったのだ。
「東京に来てから、ロマンスは一件もありません」
とーー。
※ ※
やっぱり、彼は女にコンプレックスがあって付き合えないか、童貞?
そう思った。
だが、そんな私の考えをくつがえすようなことが起こったのだ。

