毒親両親に育成された私の本当の志命 2

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著者: 山中 貴代

気持ちが奪われるようになっていった。



私が証券会社に勤めたところで、急に家計が豊かになるはずもなく、

喧嘩をすれば『ここは私の家。気に要らなければ出ていけばいい』と言われていた。

母には、私と一度も面識の無い、ずっと付き合っている宝石商の男がいた。

この男性を頼りに生活費を工面してもらったり、相手の商売を手伝ったり、

共に海外旅行を楽しんでいたのだと思う。

私は毎月家計に生活費を入れ、母名義の狭い賃貸の家に住み、食事や身の回りの

歯ブラシやら石鹸やタオルや細かい物も、自分で購入し生計を立てていた。

こんな生活だから家を出たかったが、仕事柄、渋々母と同居をしていた。

ある時母が私にこう話しかけてきた。

『お母さんの友達に宝石商の人がいるんだけど、あなたの職場は女性が多く

華やかよね?!』

確かにバブル期を経てきている先輩に、その姿を憧れの目で追ってきた同期や

結婚相手探しとハッキリ言ってくる後輩等が多かったから、煌びやかな物には

目がないのは確かだった。

『それで、うんと安く出来るし、物も確かだから、貴女もそろそろしっかりとした本物の宝石を身に着けた方がいいと思うの?誕生日も近いから自分にご褒美で買いなさいよ!それでそれを身に着け

会社で宣伝してきてくれない?なんだったら会社に出向いてもいいし、御休みの日に展示会をやってもいいのよ!』


私は何度も自分の耳を疑った。

私が相手にしているのは、デパートの宝石店のセールスではない。

私と同居し、自分の欲しい物も我慢し慎ましやかに暮らしている娘に対して、

好きな男の為に、真面目な顔をして、平気でこんなセリフを易々と口にするのだ。

彼女(母親)の言い分は、私もちゃんと宝石商でパートとして働いている。

お給料を貰っている。お世話になっているから役に立ちたいと。

母は決して、自分には恋人がいて、誰それさんという宝石商の男性で、

どんな男性で、今後一緒になるかわ分からないが、長い目で見守って欲しいとか

再婚を考えているとか、人生の良きパートナーとして交際しているとか、

そういった類のことは一切私には全く話さず、ただ、知り合いがいるとだけ伝えた。

母の立ち位置は決まっている。私は貴女たち娘の母親であるのが一番。

いつも貴女達の幸せを願っている。お母さんの事は心配いらない。

貴女達姉妹仲が悪いから、いつでも自分のことは自分で出来るようにしていなさい。

他人に迷惑をかけることをしてはいけない。家庭における一身上のこと(父親の

病気が原因の離婚)は恥であるから、決して外に話してはいけないこと。

家訓ともいうべき、絶対ルールを幼い頃から踏み絵替わりに目の前に置かれ、

これを守れなくては、家には一歩も跨がせないし、それを守ることが私の生きる

唯一の手段と思わせられてきたのだった。

習慣とは恐ろしいもので、これを毎日、頭の中から365時間1秒たりとも忘れさせない

利き手右手が当たり前、両腕両指が当たり前に使えるように、この悪夢の呪文を唱えることも

すっかり当たり前となっていた。


私は、母のこの自己中心的な思考回路がどうしても納得できなかった。

ただ、母はこういう物の考え方しか出来ない、子供の気持ちが理解できない、

寂しい大人なのだと思えるからこそ、私は嫌でも母に連れ添ってこれたのだと思う。

当時、毒親などという言葉も発想もなかったが、本当に毒蛇のように私の人生にどこまでも

纏わりつく同性の生き物だということは感じていた。


私は、自分の納得がいかない事や、自分がされて嫌なことはしない主義である。

美辞麗句に聞こえるかもしれないが、自分が心地よくないことに加担する気は

全くなかった。そこは今でもブレナイ生き方である。


私は宝石売りの宣伝は出来ないとハッキリ母に断った。


母は私とは対照的で、一見とても明るく周りにとても優しい。

そして損得勘定にとても鋭いところがあるのだと感じていた。

ある時、若い頼りなさそうなか細い声で、母の名を呼ぶ女の子から電話が入った。

しかも夜中の12時であった。

私は電話の傍にいたこともあり、気付いてとってしまったのだ。

交際相手の娘さんからの電話だったらしい。

何やら相談したいことがあり、母親のいない娘さんは、どうしても相談したいことが

あったようだ。

母は、一目散で身支度をして、待ち合わせ場所を調べることなく、迷わず向かった。


私は、母のこういうところが好きになれなかった。

実の娘の悩みに耳を傾けることがなくても、好きな男性の娘の為なら、

加点稼ぎに奔走する計算高いところが。

本当に彼女のことや、相手の男性を愛しているなら、私達娘の承諾など取らす、

真っ先に交際宣言して、新たな人生を選択すればいいのだ。

なぜそれをすることに躊躇するのだろうか?

実娘の感情を逆撫でするような言葉、宝石を宣伝して頂戴とは、平然と頼めるのに、

メリットばかりを求める余りに、デメリットを受容する覚悟がいつでも無いのだ。

もし母が再婚するのなら、私はその男性の存在そのものというか、母にハッキリした態度を

取らせない存在という意味で、好意を抱けなかったし、再婚するのなら、親子の縁をサッパリ

この際切ろうとさえ考えていた。

私は私で自立すればいいと思っていたし、正直時間の問題だと思っていた。

母が口で言う、私は母親として生きる!ではなく、女性の性、男性を愛することを

選ぶ以上、私は今後一切母とは関わりたくないという気持ちを胸いっぱいに抱えていた。

同時に、父親という存在の大切さも身に染みて感じ、ファザーコンプレックスにもなり、

自らの恋愛にも興味もなく、私は子供は好きだが、こういう母親にだけはなりたくないと

いう決死たる思いも抱いた。






株価の動きに気をやりながら、目の前のお客様の心理も気にし、受発注やお金の扱いを

1円たりとも間違ってはいけないし、伝票起票等事務処理も完璧に把握する必要性もあった。

あまりの緊張やプレッシャーから、先輩の言うことは頭に入るが、自分の中の感情を整理して

冷静に判断し対応する間がないぐらい、時間に追われ、社内の人間関係も複雑であった。

私は基本的には、言われたことはきちんと出来るし、目的意識も強い。

相手の心情を読み取ったり、何を望んでいるかも大抵のことは想像察しがついてしまう。

だからこそ、自制心も強く、完璧主義で、新規開拓や休眠顧客リストを与えられれば、

真面目にア行から順番にきちんと電話を入れ、進捗状況を常にキチンと把握できるように

コメントもいれることを忘れはしなかった。

数名のチーム制の部署であった為、私は常に情報を共有できるようにすることを意識していた。

ノルマは必ずあったが、私はお客様重視の対応を心掛けていたので、毎月ノルマ達成も普通に

こなせていた。

自分が頑張れば頑張るほど、それはチームの数字となり、自己満足度は殆どなかった。

株式相場低迷時は、高利回りの貯蓄商品も多く、紙袋に札束を沢山抱えて、

喫茶店代わりにお喋りを楽しみに来るご高齢のお客様も多かった。

子供の頃はおもちゃのお札を沢山数えはしたが、本物の百万円の札束はなんというか

思ったよりも厚くはなく、カウンターいっぱいに並べても、紙幣という感覚がなくなる

ぐらいに、コピー用紙の箱をドンと置くぐらいの当たり前の光景になった。

目の前の紙幣よりも、株式受発注時の数字を間違えないで入力するほうに寧ろ神経を

奪われる感覚の方が強かった。

大金を扱う仕事を日常的に習慣化されると、その価値や重みというよりも、

数字を把握し、いかに情報転換するかという思考になっていったように感じる。

逆に言えば、情報はお金に転換されるのだから、入り口が変わるだけで、

どちらにも転換されるだけなのだろう。

沢山の情報と、お金と、人間関係と日々動く相場に翻弄され、その荒波に泳がされる

自分の在り方がどんな意味があるのかが分からないまま時間だけがどんどん過ぎていった。

ノルマ達成や、仕事に遣り甲斐を感じるほどに、お客様に寄り添った投資相談ができるように

なりたいと望み、どんどん外に出たいと思うようになった。

仕事が慣れれば、多くの同期は、個々の夢を追うようになっていった。

ある者はノルマがキツくて嫌で、学生の時になりたかった声優を目指すと養成スクールに入ったり、

営業が苦手だからという男性は辞めて家業を継いだり、彼との結婚や幸せな家庭の実現を目指す

寿退職や、出来る上司と不倫する者もいた。

目の前のお金に執着することを手放すということは、その先に手にしたい本当の自分を見つめる

事に繋がることになるのかもしれない。


この時私は純粋に仕事に没頭していた。

お金に纏わる経済の動きや、投資家の欲望や、お金に心奪われ人間関係を失った者や、

貯蓄を増やしたくて投資をして、儲かり更に欲深くなったり、損して人を責めたり、

結局お金をどこまで求めれば人は満足するのだろうと深々と考えるようにもなった。

取り合えず私は、奨学金返済という目的があったので、一年目ですべて返済したことにより、

肩の荷も降ろし、殺伐とした日常から離れたくて、海の中を探検するかのように、スキューバー

ダイビングの資格を取った。
不運にも体質的に水圧に身体が弱く、急性濃化中耳炎にもなり、仕事に支障を来たしもした。

相手の声を聴きとり辛くなり、口パク動作で、何を言っているかを把握するようになった。

これは暫くして治りはしたが、普段いかに雑音の多い生活に身を晒しているのかということにも

気付けたのだった。

海の中は静寂で、酸素ボンベを背負い、レギュレーターからでるブクブクという息の音が

私は今生きていると実感ができた。お金に翻弄されるのではなく、自分の息の音と目の前に

広がる青の世界と私を取り巻く魚達の群れに身を寄せると、海の中の静寂の世界に広がる

自然界のありのままの『生』を体感できた。

私が苦手な感情を露土する必要もなく、煩悩もなく、ただただありのままに海中を泳ぐ

魚の群れに誘われて、深海美を楽しめた。頭の中が空っぽになれた。

人は何を求めて生きるのだろうか?と漠然とした疑問を常に抱くようになっていった。

お金が多くても少なくても、人は常にお金に翻弄され、地上にも海中にも恵まれた自然の

恩恵があり、そのことに気付いても多忙な毎日に流され、人は常に多くの煩悩と悩みを

抱え続ける。この世に生まれた私は、何のために生きているのだろうってこの時から

本気で考えるようになっていった。

私はもっと目的達成したく配置転換を希望したが叶わず、仕事にも生きる目標もぼやけた

ままとなった。

もっと世の中には自分の知らない世界が沢山あるのだと漠然と感じ、人の置かれる環境と

感情の変化を仕事を通してしりたいとも思った。

世の中にあるいろんな仕事を体験体感したいと感じていった。

こんな曖昧な理由と、現職にすっかり遣り甲斐を失い、私はアッサリと退職したのだった。

家族の反対はあったが、働くのは私なのだから、自分に嘘を付いて働くことができないという

点においても、私は馬鹿過ぎて、自分自身が何者なのかをずっと考え、自分自身をコントロール

することができなくなっていった。


正しいお金や愛の使い方など、どこへ行っても教わることもなく、正解もあるのか分からないが、

生きていることを実感できる自然界に身をやることは、生きてる証を体感できて、もっと世の中の

色んな仕事をする色んな人の生き方を知ってみたいと思うようになっていった。

・・・3へ続く













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