お尻物語

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著者: Natsumi Fukada

私のお尻物語(痔ろうとわかるまでの道のり)~重度身体障がい者が痔ろうの手術を受けることとは~家族とヘルパーとの完治までの笑いと毒舌と涙の記録2017.04~2018.05

 私は、脳性麻痺による四肢機能障がいで、立つことも歩くこともできません。一種一級の重度身体障がい者です。このことを皆様に伝えたく、1年に渡る痔ろうとわかるまでの道のりと、2度の入院手術を体験してきた中で、訴えたいこと、改正していきたいこと、辛かったこと、後悔したこと等たくさん書き綴りました。一人でも多くの方に読んでいただき、皆様と一緒に気持ちを分け合えたらと思っています。長い文章ですが、最後までお付き合いしていただけたら幸いです。

【第一章・お尻の出来物は一体なに?知らないって怖い!編】

 事の発端は、3年半前(2014年)に突然、お尻の左下肛門近くにどす黒いピンポン玉の出来物ができ、母が「これは皮膚がんかな、見たことがない」と私に言い、近所の総合病院の皮膚科に受診したところ「これは、おできに菌が入り、黒くなっている」と説明がありました。飲み薬の抗生物質と塗り薬を処方されました。抗生物質が体に合わず、1日でやめてしまいました。塗り薬を塗っていたら、徐々に小さくなり、治るかなと思っていました。出来物は小さくなりましたが、出血する事があり、痛いなと思いながらも出血がおさまると痛みがなくなるので、「ま、いいか」と思い、そのまま処方されていた塗り薬を塗り続けて、出来物が50円玉くらいの大きさまで小さくなりました。私は、「たかが出来物。いつか消えてなくなるもの」と楽観的に考え、そのまま放置していました。これが、やがておおごとに発展していくとは考えてもいませんでした。

 7年位前(2010年)にY病院に3年位(2013年まで)通い、症状に合った薬を貰っていました。薬をしばらく注入していると、下痢に近い便が出てしまうことがありました。強い薬だなと思っていました。症状が改善した為、自己判断で通院をやめてしまいました。それが後になって、Y病院を繋いでおけば良かったなと後悔しています。

2017年3月頃から出来物から出血があり、飛び上がるくらい痛く、ヘルパーさんから「病院変えてみたらいかがですか」と言われ、4月になりやっと重たい腰を上げてネットで皮膚科を検索し、近所に女医がいる皮膚科を見つけました。この時は、部位がお尻だけに「恥ずかしいな」という思いがあり、遠ざかっていたのもひとつの理由です。もう一つの理由は、面倒くさいというのがありました。きっと受診したら軟膏をもらい、すぐに治るだろうと甘く考えていました。病院に行くと部位を見せるなり、『リンパ腫』と言われ、股関節あたりを触られ、ふくらみがあるかどうかを確かめられました。お尻の出来物を院長先生に見せたいと言う事で、ヘルパーさんが私の足を持ち上げて、デジカメでお尻丸出しの写真を撮られてしまい恥ずかしい思いをしました。次に「血管腫かもしれない。今日は院長先生が居ないので、また来てください」と言われてしまいました。早速、帰宅後ネットで血管腫を検索しました。文字の通りに血管が集まった腫瘍で、手術で取り除くと書いてありました。なんだかいやな予感がしてきました。

 院長先生がいる時に受診をしたところ「これは粉瘤と言って、血のポケットができていて、手術で取り除くしかありません。ここは個人病院なので、あなたみたいな脳性麻痺という病気の方はここでは手術はできません。紹介状を書きますが、T病院でしたら、アフターケアをします。もう一度ここにT病院の形成外科のT先生が来た時に来てください。」と言われ、選択肢がなく、自分の中で何が起きているのかわかりませんでした。 『粉瘤』を検索しました。院長先生の言った通り、手術で取り除く方法しかありませんでした。でも簡単な手術なので、2泊3日と言われて安心していました。

 4月下旬に再度T先生がいる日に受診してみると「これは粉瘤ではない。肛門とつながっている。痔ろうではないか?」と言われ、6月にT病院の大腸肛門科に行くことになりました。痔ろうという病気はどんなものなのか全く知りませんでした。ネットで調べていくと、痔ろうは痔の中でも最高級の痔で、ほっとくと痔ろう癌になる場合があるそうです。この事を知ってから、何だか恐ろしくなり親子共々落ち着かない日々を過ごしていました。痔ろうは100%手術をしなくてはなりません。その手術方法を調べてみました。1番、くり抜き法は一部分をくり抜き、再発率が高い。2番、自然開放術で、肉をえぐり取って汁を出す、最も軽い痔ろうの場合この手術が多いそうです。再発率は比較的に低い。3番、シートン法。痔ろうが悪化している場合、この手術方法が選ばれるとの事です。肉をえぐり取り周りにゴムを入れて、徐々に縮めていく方法です。再発率は3%で痔ろう期間は半年から1年と書いてありました。やがてこれが我が身に降りかかってくるとは考えていませんでした。調べた時は「2番かな~」と思っていました。

 6月になりT病院の大腸肛門科を受診すると、M先生に「出来物の穴がふさがっていて診断が出来ない」と言われてしまいました。そこでMRIを撮る事になりました。体が動いてしまうので、軽く麻酔をかけられてしまいました。「撮ってみると肛門に繋がっていない」とM先生から説明がありました。それが誤診の始まりです。初めてMRIを撮って分かった事は、子宮が斜めになっていて大腸の一部分が子宮に押されて細くなっており、そこで便が出にくくなっている可能性があると言われました。この時点では「肛門周囲膿瘍」と病名がつきました。M先生から、「出来物の箇所から穴が開いたら来てください」と言われましたが、穴が開いてると思ったらすぐに閉じてしまい、またいつ穴が開くかわからない。すぐに来てと言われても行かれない。私はこのまま放っておいてはいけないと思い、再び近所の皮膚科に連絡して、T病院のT先生のいる日に受診しました。「絶対肛門と繋がっている。手術で取り除くしかない、やってみないと分からない」とまたまた言われてしまいました。脳性麻痺以外に持病を持っていないか、手術に耐えられるか、年齢の事も聞かれ、まだ30代という事もあり、何とか耐えられるだろうと判断し、結果的に病名がつかないまま、7月19日に入院し、20日に手術を行うと言われました。生活は一変し、母は動揺し、私も初めて入院、手術という運びになり、なにがなんだかわからない状態となりました。

 私は小学校低学年から痔を患っていました。でもたかが痔と思い、排便の時にちょっと痛いかなと思っていました。車椅子生活の中で、座っている事は当たり前、今回長年の積み重ねがあだとなって返ってきました。7月になり入院前の検査で心電図、採血、採尿、レントゲン、心臓のエコーを撮りました。私は何もできないので医療相談室に行き、食事介助、体勢交換、オムツ交換など、一般的な介助をお願いし「ナースステーションの近くに置いて下さい」と依頼しました。相談室の方に優しくしっかりと話を聞いていただく事ができました。やって欲しい内容の紙を持って行かなかったので、後日プリントをFAXで送ると、「はいわかりました、全部書いてある事は当たり前なので心配しなくて大丈夫です」と言ってくれたので安心しました。「とにかくお尻を治す事を考えて下さい」と相談室の方から言われたことが印象に残っています。そして入院をするための準備と、目まぐるしい毎日でした。

 ここで大きな問題が発生しました。手術日に生理にぶつかり、手術に影響が出てくると思い、産婦人科に受診し、ピルを貰いに行くと、医師からとんでもない発言をされました。「あなたは39歳という年齢なので、ピルは血栓が出来やすい為、なるべくピルを飲まないで手術を受けた方が体に良い。どうしても手術に生理が影響するのであれば、飲んでください」と言われましたが、その言い方が39歳はもう女性ではなく今さらピルを飲んで耐えられる年齢ではないとハッキリ言われたようでカチンときました。一緒に付き添ってくれたヘルパーさんが同年代で「何あの言い方」と怒っていました。T病院に連絡をして手術の日に生理にあたる事を伝えて、それでも手術が可能だと言われ、結局ピルは飲まなく自然のままに任せることにしました。一つ勉強になった事は、ピルは長期間服用すると血栓が出来やすくなってしまい、短期間服用して生理を早めるには、年齢が上になっても多少影響するが、長期間より影響が少ないという事がわかりました。そしてネットで、必要になってくるオムツやペットシートを探したり、足りない物を買い足したり、関係者にメールを送ったり挨拶をしたりと、入院するってこんなにも大変なんだなと思いました。お恥ずかしいですが、オムツのあて方を知りませんでした。オムツの中に中くらいのパットを入れる事も知りませんでした。今まで長く身体障害者をやってきて、人生の中でオムツをあてるという事は数少なく、時代もあったのでオムツ自体が進化している事が驚きでした。昔は大きいオムツをあてるだけで中にパットを入れる事はなかったので、どうやってこのパットを使うのか看護師さんに聞きました。入院する3日前まで、車椅子で出掛けていました。私は今まで健康優良児で育ってきて、この歳で初めての入院・手術と言う事になり、覚悟はしていました。ネットで調べてみると、本当に簡単な手術で、日帰り可能という位のものでしたので、手術が終わったら即自宅に帰り、元の生活に戻れるイメージで予定を組んでいました。当初先生からは、出来物のみの手術で2泊3日と言われていたので、そのつもりでいました。何でも調べて、先生にこの手術をしたら後はどうなるのか良く聞いて、返答するべきだと思いました。入院前夜はやっぱり不安で寝不足。病院でゆっくりすればいいやと考えていましたが、それは大きな間違いでした。

 7月19日(水)いよいよ入院当日になりました。初めての入院なので、何を揃えるべきなのか親子で考えていました。オムツは毎日取り換えると思い、山ほど揃えて、オムツだけでも紙袋2つ分で、水やお茶などを買い出し、持ちきれない程の量で身の周りの物を揃えて、登山用のリュックいっぱいに詰め込み、まるで家出の荷物のようになってしまいました。でも介護タクシーなので、車に荷物を詰め込む事はできるので、運転手さんに手伝ってもらい、車に乗せてもらいました。ベッドに寝るなり看護師さんと麻酔科の先生、薬剤師、形成外科が入れ替わり立ち代わり来て、同じ事を何度も聞かれ大変でした。当初はうつ伏せになり手術を行う予定でしたが、麻酔科の先生から「気道が確保出来ない」と言われ、横向きと仰向けに変更されました。出来物だけの手術の予定でしたが、「肛門の出ている箇所もついでに取りましょう」と夕方決まりました。これが後々大変なことになるなんて思ってもみませんでした。トイレは看護師さん2人がかりで介助をしてもらいました。夏だったのでトイレの中はサウナ状態で、その上慣れない看護師さんが介助をするので手際が悪く、用をたすのに一苦労でした。またトイレに行きたくなったので連れて行ってもらおうと思いましたが、看護師さんにまた大変な思いをさせてはいけないなと思い、オムツに用をたしましたが、量が多すぎて吸収が出来ずベットシートまで汚してしまいました。そこで本来なら手術日に尿道カテーテルを付ける予定でしたが、早めてもらい尿道カテーテルを付けました。最初は違和感がありましたが時間が経つにつれて違和感もなくなってお小水の心配が減りました。ベッドに横になっている時に体勢交換をしなければなりません。私は横向きになる時は家で抱き枕を使っていました。入院する事になってその枕をどうするか悩みました。自宅の抱き枕は持ち込みたくない、でもなければ足が痛いという問題にぶつかって、新しい枕を買おうか悩みましたが、昔使っていた枕を持ち込む事にしました。T病院はその事を伝えると、看護師さんが枕をいろんな所から持って来てくださり、枕をたくさん詰め込んで快適な体勢で寝る事ができました。「明日からしばらくお風呂に入れないからシャワーを浴びましょう」と言われ、ベッドで裸にされてしまいました。シャワー用の車椅子に乗って、バスタオルで隠しながらシャワー室に連れて行かれました。せっかく母が昔作ってくれた浴衣に着替えたのに、体をうまく拭いてもらわなかったので、浴衣が濡れてしまい、母が嫌な顔をしていました。「これではまた明日着替えを持って来ないといけないわね」と言っていました。その後、ほぼ裸状態でエレベーターに乗せられ、体重測定に行きました。通行人がいたので恥ずかしかったです。

 私が入院中、 家ではこんなことがありました。ぽっちゃりしたヘルパーさんが入るようになって、床を歩いていたら、バリっという音がして、帰った後に母が床を歩いていると、ある部分だけ床が凹むようになり、いつ床がいつ抜けてもおかしくない状況になっていました。また壁は、部屋で座位保持椅子に乗って食事を摂った後、降りる時に壁に座位保持椅子が当たり、穴が開き、ガムテープで補強していました。築30年以上経つ我が家は、あちこちボロボロで、私が入院している間に床と壁の補強の工事をする事になり、大工さんが入る事になっていました。その事で入院1週間前、母は私の荷物作りと工事の事で頭がいっぱいになり、何か話すとケンカをする感じでした。床は板を入れてその上に柔らかいコルク製の板を貼り付ける事にしました。壁は手をついても皮が剥けない柔らかい壁紙に直しました。2泊3日と言う短期間の入院予定だったので、大工さんに無理難題を押し付ける事になってしまいましたが、最終的には10日間入院という形になってしまい、初めから入院期間が長いとわかっていたら1階全ての床の貼り替えをする事も可能でした。後から母が「玄関だけだったらいつでも工事が出来るけど、あんたの部屋はあんたがいないうちにやらないと出来ないからね」と言っていました。「また機会があったらやるわ」と言っていました。が、この時は1回の入院手術で済む予定でした。やがて次の機会が早く来るとは誰も予想しなかったと思います。

 7月20日(木)手術当日、朝6時頃に起こされ、全身麻酔をするので便が出てくると困るという事で浣腸をしましたが小指1本ぐらいしか出てきませんでした。昨日浴衣を濡らしてしまったので、母が手術の前に新しい浴衣を持って来てくれました。浴衣を着て膝から下はストッキングをはかされました。手術中、同じ体勢が続き、エコノミー症候群になるそうで、防止のために履くそうです。いよいよベッドからストレッチャーに乗せられ、9時に手術室に運ばれました。病棟の看護師さんから手術担当の看護師さんに引き継がれました。「ご家族の方はここまでです。控室でお待ちください」と説明がありました。私は奥に連れて行かれストレッチャーから手術台に移されました。T先生がパソコンを打ちながら「頑張って!大丈夫!」と声をかけてくれました。その光景は医療ドラマそのものでした。心の中で(私は寝てるだけ。どうやって頑張るの)と思いながら、T先生に「よろしくお願いします」と言っていました。頭に白い帽子をかぶされ、左手の甲に点滴を刺され、胸には心電図、ピコピコという音を聞きながら麻酔は3回目で意識を失いました。その後は気道に機械を入れられ、ジャックナイフ法で行いました。まず横向きにされ、左陰部の所に穴を開けられ、色が着いた液体を流し込み、どこまで繋がっているか確かめながら切ったそうです。出来物の箇所は深さが10センチあり、奥に膿が溜まってたそうです。肛門に繋がっていたので、断裂して縫って、ついでに肛門の出ている箇所を切り取り、溶ける糸で縫ったそうです。出来物の箇所は内側と外側を合計で5~6箇所縫ったそうです。これは退院1日前に話を聞きました。手術が終わったのは10時25分。肩を叩かれ起こされました。T先生から、「肛門をいじったから、痛いかもしれない」と言われた時点で、とてつもない痛みが襲ってきました。それからが地獄の始まりでした。病室に運ばれベットに移る時に、皆で抱えて貰いましたが、とにかく動くと物凄い痛み。刃物で切られると言う事はこういう痛みになるんだと思いました。完全に麻酔から覚めきってない状態で、襲ってきた症状は吐き気でした。看護師さんに吐きたいと訴え、洗面器に吐こうと思いましたが、意識が朦朧としているので吸引機を用意されました。まさか私が吸引機を使うなんて思ってもいませんでした。お腹の中には物が入っていなかったので、嘔吐はありませんでした。鼻と口には酸素マスク、尿道カテーテルと、出来物からどれだけ出血するか管を付けられ、手には点滴。ぐったりとしている娘の姿に母は驚き、ただ横に座っているだけでした。心配になった母は、看護師さんに「まだ起きない、酸素マスクはいつ取れるのか、本当に大丈夫ですか」と聞いたそうです。「酸素マスクは、麻酔が本当に切れて自発呼吸が整ってから取ります。まだこの時点では取れません。いつになったら起きるのかと言われても、ご本人の体力や術後の回復によります」と言われたそうです。そんな娘を見ていたくないと、母は帰りました。私はうわごとのように「喉が痛いお尻が痛い」と言っていたそうです。看護師さんは熱を計り、容態が安定しているかどうか頻繁に見に来てくれました。足元にはエコノミー症候群防止の為のマッサージ機をつけられ、なんだかおかしい感じでした。夕方近くになり、T先生が2回来てくれました。なんとなく麻酔から覚めて、反応が出来る頃に「大丈夫か」と言われ、首を縦に振ることしか出来ませんでした。容態と出血量が気になるようでした。前日にT先生から「麻酔は半身麻酔で出来るんだったらその方がいい」と話していましたが、私は体が勝手に動いてしまうので、全身麻酔をお願いしました。実際にやってみると、体力は使うし、副作用も激しい。これでは命がなくなってもおかしくないと思いました。その夜は夕食が出ましたが、全然食べられなかったです。

 7月21日(金)2日目の朝、看護師さんがベッドを30度起こしましたが、私はお尻が痛いので横向きになり、腰骨で座るという技を体が自然に身につけました。お尻は清潔を保たなければいけないので、毎朝回診が終わった後に必ず看護師さんが来てお尻を洗う事をしていました。石鹸を泡立てて洗い流すという簡単なものでした。まだこの時は手術が終わって1日目なので消毒も必要で毎日が激痛との闘いでした。物凄い痛みの場合、腫れ上がった肛門から痛み止めの座薬を入れる事もありましたが、私は入れるのが痛かったので、1回経験して後は点滴とロキソニンを飲んでいました。手術1日目の時は点滴から痛み止めを入れてくれましたが、2日目になると点滴は外されて口からロキソニンを飲む形になりました。それが効かなかったのです。金曜日はシーツ交換の日、動くにも激痛なのに、「シーツを取り替えるから横を向いて下さい」と言われ、左右に寝返りを打ちました。その後に清拭と着替えで、また左右に動かされました。消毒の時は激痛の激痛で地獄でした。お尻に何か挟まっているような違和感、肛門がキュッと締まっている感じは、例えようのない痛みでした。母が、来るなり「具合は、どう?」と聞いてきました。私は、前日の麻酔の影響で頭が、ボーッとしていました。予定は、2泊3日でしたが、お尻の出来物に管が入っており、出血していました。まだ、点滴も刺さっていました。午後になり、40℃近くの熱が出て、おでこと首と脇の下を冷やしました。夕方になって、T先生が駆けつけてくれて「3日様子を見たい」と言われ、退院が先送りになりました。3日目を迎え、相変わらずお尻は激痛で出血もまだしていました。T先生から朝一で、「熱が下がったか」と電話があったそうですが、この時点では下がっていました。母が面会に来て「熱は下がった?大丈夫?」と心配そうに聞いてきました。母は、ヘルパー事業所の方から、「病名は何だったの?」と聞かれたそうです。前日に、T先生から皮膚良性腫瘍と説明がありました。念のため細胞を取り、検査にまわしたところ、一部が肛門と繋がっていたそうです。前歴がないことを母に伝えました。一ヶ月とちょっと経った今、母との会話は、「肛門と繋がっていたということは痔ろうだったんじゃない?良性腫瘍だったからいいようなものの、良性が悪性に変わる事だってあるのよ、今度はできたらすぐに病院に行って治らなかったらすぐに病院を変えて取ってもらいなさい」と言われてしまいました。確かに、放置していた私が悪い、甘く考えていました。考えてみれば、母方の叔父や叔母、いとこが癌にかかり、叔父と叔母は亡くなりました。現在もいとこは癌と闘っています。私も母から血を受け継いでおり、癌になる確率は十分にあるんだなあと最近実感しています。母が心配になっていることは多分こういう経緯があるため娘を気遣う思いがわかりました。今年40歳を迎え、身体には本当に気を付けようと思ったり、たかが腫瘍されど腫瘍と甘く考えることをやめました。

 7月22日(土)4日目頃になると、母が涙目で「早く自宅に帰ってきて」と言ってきました。私は「とても帰れる状態じゃない。車椅子にも痛くて乗れない。第一、管が取れないと話にならない」と話しました。私は体がへとへとで、母の話も聞く余裕もない。とにかく痛いしだるいし辛い。困り果てて、看護師さんに相談しました。「自宅に帰ったら、親ではなくヘルパーさんに介助をしてもらう。今のままだと帰っても話にならない。せめて車椅子に乗り、座位が取れるようになりたい。それに消毒やお尻を洗う事は無理だと思う」と看護師さんからT先生に伝えて欲しいと話しました。

 7月23日(日)5日目、やっと出血が治まってきたので、管を取る事が出来ました。看護婦さんから「管が取れてよかったね、これで一歩前進、痛みは落ちる一方だよ」と話しかけられました。私の感覚からは「まだまだ激痛なんですけど、本当に痛みが取れるんですか?」と聞きたくなりました。手術当初の痛みから比べればまだマシという感じです。思うようにオムツをつけたまま排便が出来なかったので、腫れ上がった肛門に浣腸をして出す時の痛さは例えようがない激痛で、排便が地獄でした。管が取れたので、座位をとっていいと言われましたが、ベッドの角度を30度に上げるのがやっと。便が4日出てなく、下剤を飲み続けて、夕方オムツの中に大量に出ました。肛門は赤く腫れあがり、例えようのない痛みに襲われました。まさに、産みの苦しみでした。母が差し入れてくれたコーヒーも、嘔吐してしまいました。この頃からベッドの上で女の子座りで食事を摂る練習をしていました。痛みに耐えながら看護婦さんに食事介助をしてもらいましたが、冷や汗がたらたらと流れ、「横になりましょう」と寝かせてもらいました。

 7月24日(月)6日目、「今日は、車椅子に乗れるように練習しよう」と看護師さん達に言われ、乗せてもらいました。「本当に大丈夫?」と言われ、「今日はこのくらいにしておきましょう」と降ろされました。かなり痛みがありましたが自宅に帰るには耐えるしかないと思っていました。またベッドで女の子座りをして、脂汗をかきながら食事をして、看護師さんから「もう横になりましょう」と止められました。痛みはかなりありました。これで1時間タクシーに乗れるのかと不安でたまりませんでした。T先生から「タクシーの手配がつき次第退院していいよ」と言われました。まだまだお尻が痛い中、本当に帰って大丈夫なのか心配でした。熱は上がったり下がったり。おまけに、隣人が昼夜逆転してた為、睡眠妨害されながら私は痛みに耐えていました。看護師さんに、「夜、隣の方が騒ぐので眠れない」と言うと、看護師さんがベッドの位置を取り替えてくれました。そして「巡回です」と言って、真夜中に体勢交換と、薬を飲まされ、体がフラフラになっていました。

 7月25日(火)7日目、回診の時に、「昨日車椅子に乗れたんだって?でも無理するなよ」と言われてしまいました。T先生から「2~3日様子を見たい」と言われ、また退院が延びました。前日に、看護師さんに言った事が先生に伝わり、慎重になったのだと思います。親もやっと理解をし始めました。激痛でお尻に圧がかかると飛び上がってしまうくらいすさまじい痛さ、自分の体重がかかると悶絶するくらいの痛さであることは、先生にもわかっています。

 7月27日(木)今日で1週間経過し、当初抜糸は退院後に外来で行う予定でしたが、体調も戻らず、傷口も痛いので、入院中に抜糸を行うという事になりました。結果的に9日間入院という形をとり、退院の日に抜糸を行う流れになりました。睡眠妨害があったため、看護師さんに話し、部屋を移動しました。私は、人より何倍も先生の手をわずらせてしまいました。毎朝回診で傷口の消毒をする度に、「イテェ!」と一人で言っていました。看護師さんから「痛いのによく笑うね」と言われてしまいましたが、私の性格上、泣く事は嫌いなので、笑いながら「痛ぇ!!」と言うたびにみんなが大爆笑していました。痛いのでおたけびに近い叫び声をあげて、「なんだか俺が虐待しているようで困る」と冗談混じりの話も出来るようになり、信頼関係が出来ました。また看護師さんも、私が何をして欲しいのかを読み取ることまで出来るようになりました。日数を重ねるうちに、次第に仲良くなっていく。これは良いのか悪いのかと考える毎日でした。退院前夜、T先生から「痛いうちは動いてはいけない」と助言されました。看護婦さんからも「あなたは頑張ってしまうけど、それが心配」と言われてしまいました。

 7月28日(金)8日目、待ちに待った退院の日。

朝早く起こされ、腫れている肛門に浣腸され、3日間の溜まっていた便を出しました。またまた激痛。浣腸はうまい看護師さんとそうでない看護師さんがいました。出なくて困って何回か浣腸をしてもらいましたが、腫れあがっている肛門に浣腸を差し込むのは難しいみたいで、的を外れると激痛で1回だけ浣腸拒否して自然に出るのを待つことにしました。尿道カテーテルも取れました。自分でお小水が出せるかオムツの中でやってみて無事にお小水が出たので良かったです。出来物の箇所の抜糸も無事終わりましたが、激痛でした いよいよ入院生活も終わろうとしています。痛く辛かった事が多かったのですが、看護師さんは忙しくても朝と晩に食事介助をしてくれて、日中は座る練習をベッドの上でやってくれました。母が毎日面会に来た時も、看護師さんが「私達がやりますよ」と介助のやり方を覚えて体を起こしてくれたり、食事もなるべく座って食べられるように練習させてくれました。比較的、初めての入院生活は至れり尽くせりだったので、病院というものはこういうものだと思っていました。退院後のケアについて先生と看護師さんから話がありました。薬の飲み方や種類、時間の間隔、お尻の洗い方などを自分自身が把握し、帰宅後に紙に書き、親とヘルパーさんにゆっくり説明をしました。いよいよ介護タクシーが迎えにきてくれました。車に揺られている時、お尻はもう激痛。自宅に着くなり、ロキソニンを飲みました。肛門は腫れ上がり、手術箇所は抜糸したてなので物凄く痛い。それなのに円座を敷かないで車椅子に座って、角度が90度という中で車の振動がもろに伝わってもう限界を越えていました。初めての事ばかりで、お尻を手術した場合どうなるかを考えていなかったのはバカだなと思います。看護師さんに「この車椅子はリクライニングできないの?」と聞かれしたが、想定外の事を考えていなかったのでシンプルな車椅子を作ってしまいました。円座が必要になることも考えていませんでした。いろんなヘルパーさんから「どうやって帰って来たの?」と聞かれましたが「普通に車椅子に乗って帰って来た」と答えるとビックリしていました。「座って帰れそうもなかった場合、病院でリクライニングやストレッチャーを貸してくれる場合があるよ」と教えてくれましたが後の祭りでした。仮に貸してくれたリクライニングやストレッチャーはどうやって返すのでしょうか?久しぶりの我が家に帰って来ると、体力が落ちていてフラフラ状態で、床を膝立ちで支えてもらって歩き、貼り替えホヤホヤの床と壁を見てビックリしました。カーペットもこの際だから新しいものと取り換えたそうです。今まで病院で何もない所から急に自宅に帰って来て、部屋の中を見ると物新しく感じました。床をコルク製に貼り替えたことで今までサポーターを付けていましたが、痛くなったのでつけるのをやめてしまいました。身体はフラフラで座ってなんかいられなく、横になって食事を摂りました。母が私のお尻を初めて見て、「こんな状態でよく帰って来たね」と、ヘルパーさんと二人で言っていました。私は手術2日目におならがしたくても出せない程の腫れがあったと感じました。それから比べれば良くなったと思います。帰宅後初日は母もヘルパーさんも何をどうしていいのか分からず大パニックでした。冷静になり「ああしてこうして」と指示を出し、実際にやってみて覚えてもらい安心しました。その夜は、10日ぶりにシャワーを浴び、ぐっすりよく眠りました。自宅に帰ってきたものの、体力は落ち食欲もない。お尻は痛くて動けない。想像していた生活とは程遠いものがありました。本当に病院から家に帰ってきただけで何も出来ない。麻酔の影響かお尻の炎症のせいで熱は37度台微熱が続きました。37.5度以上だったら病院に逆戻りしなくてはいけない条件でした。危なかったです。とにかく、1ヶ月を迎えるまでは熱は出るし、具合が悪くなるし、それはもう大変でした。1日1日の体温、薬の時間、お尻の痛みに健康状態、排便状況などを記入する毎日を過ごしました。これほど大変だとは思わなく、またまた考え方が甘かったです。退院から1ヶ月以上経った今でもほんの短時間座ることがやっと。車椅子に乗るのはまだ先かなと思います。自分でもこんなにかかるのかとビックリしています。体力面は少しづつ元には戻ってきていますが、程遠いです。帰宅して1~2週間くらいは本当に動けなかったし、食欲もなかった。ヴィダーインゼリーをヘルパーさんに買って来てもらってご飯代わりとして食べていました。退院後、私は元の生活にすぐに戻れるのかと思っていたら、「寝てなきゃダメ!」と母とヘルパーさんから怒られてしまいました。今回はお尻が完治するまでおとなしくしようと思いました。1日1日お尻は確実に治っていき、人間の体はすごいなと思うこの頃です。

 8月7日(月)1回目の定期検診では順調に回復していると言われ安心していました。始めての経験なのでこんなもんかなと思っていました。退院から1ヶ月が経過し9月になっても鈍痛が続いていましたが、てっきりそのうちに治るだろうと、楽観的に考えていました。出来物が出来て、入院や手術・退院後のケアが、家族や周りで支えてくれるサポーターにどれほどの苦労をかけているのか、そして、家族も肉体的にも精神的にも参っています。私はいつまでこの痛みが続くだろうか。便をする度に激痛に襲われていた為、排便前に痛み止めを服用してからトイレに行くという習慣が、退院してから2~3週間続きました。その痛みは、肛門を手術したので出口は腫れ上がりどこから便が出ているのかわからない状態だったので毎日産みの苦しみを味わっていました。そして毎晩リフトを使ってお風呂に入るのですが、福祉用具を体に装着しなくてはなりません。太ももの裏を通して吊り上げるのですが、たまに太ももではなく行き過ぎになってしまい、お尻に福祉用具が当たる時があり、悲鳴をあげながらお風呂に入っていました。最初の頃はリフトで吊り上げたまま頭と体を洗って、お尻が痛いので床に付かないようにしていました。その度に母とケンカをしていました。また、激痛に襲われるのではないかと不安に駆られる日々。こんなにも時間がかかるなんて考えてもみなかったです。ネットで同じ仲間を検索してみると、手術後1ヶ月は安静に過ごし、2~3ヶ月すれば治ると書いてあり、そのうち治るだろうと簡単に考えていました。のちにこのことが長い戦いになるとは夢にも思わず、平凡な毎日を過ごせると思っていました。そして誰もが悪夢の始まりになるとはつゆ知らず…。普通の生活に戻るには時間がかかり、傷口の回復もゆっくりで体力を回復するにはかなり大変で、日常生活のありがたさをつくづく感じます。長時間座らない、便通の良い食生活、長時間トイレで頑張らない事を心がけます。忘れそうになった時に、入院中、歯を食いしばって痛みをこらえて便を出したことや、消毒や陰洗ケアの度にすごい痛みに襲われて、気を失いそうになった事を忘れないようにします。今振り返ってみると排便は、手術してから約3週間がヤマでした。本当に激痛です。例えるなら、手術直後は、頭から何かが出て来るぐらいの狂った痛み。5日ぐらいになると、少しマシになりましたが、口の両端を刃物で裂くような痛み。家に帰ってからは、目が飛び出るような激しい痛み。とにかく痛い!!つい最近になって、排便痛はマックスよりは落ち着きました。例えるなら、ある時は、両手で口を裂くような痛み、ある時は、ピリッとした痛み、そしてある時は、痛みがない時がありました。大きなくしゃみをしたり、咳込んだり、笑ったりすると、時々痛む時がありました。家に帰ってから、沢山のヘルパーさんに陰洗ケアをお願いし、良くなっていると言われ、本当に良くなっているか知りたくて、携帯のカメラで撮影してもらいました。だって自分で見えないので、これしか方法はありません。私っておかしいですか?いろんな人に、お尻をたくさん見られるうちに、全く恥ずかしくなくなりました。男でも女でも見てください!と言う感じです。これは、ヘルパーさんだけではなく、医療関係者に毎回オムツを外され、消毒です、陰洗ですと、お尻ばかり見せているうちに、羞恥心と言うものがなくなってしまいました。冷静に今考えると、準備期間がもう少し欲しかったと感じています。緊急の手術ではないので、時期を選んだりもっとネットで調べたりする時間がもう1ヶ月くらい欲しかったです。入院期間がこんなに延びるんだったら、もっといろいろと対策も考えられたと思います。また、高齢の母に買い物などお願いし心苦しかったです。はっきり言えば準備不足だったし、入院や手術を甘く考えていたところがあります。今回全身麻酔で手術を受けて思うことは、この先年齢を重ねていく体にメスを入れるときは、かなりのハンディとリスクを背負わなければならないということがしみじみとわかりました。いくら私が体力があっても今回結構堪えました。再発しないようにこれからは努めていきます。今後は入院が長引いてもいいような対策を練ってから、入院をしたいと思っています。これで完治をすると思って皆で信じていましたが、お尻はいつまでも縫い目が固い状態が続き、痛みが取れず、便をすると縫い目に響き、本当に治るのか半信半疑になっていました。このお話は続きがありますので、まだお付き合いしていただけると幸いです。


【第二章・痔ろうと判明し再入院・再手術編】

 2017年9月2日(土)夕方から、手術箇所が赤みを帯びて腫れてきたので、病院に電話をしましたが、「様子を見てください」と言われました。

 9月4日(月)に、手術箇所が富士山のように膨らんできたので、病院に電話をした所「そのままいつものようにしてください」と言われました。

 9月5日(火)には血や膿が出て、激痛に襲われたので、再度、病院に電話をしましたが、先生が手術中だった為、対応が出来ないと言われました。

この日は痛くて痛くて、1日転げまくっていました。翌日の検診に車椅子に乗って行かれるだろうか、ストレッチャーで行ったらどうだろうか、と親子で悩んでいました。こんな話は聞いていない。私も母も次第に不信感を抱き始めました。排便時に、何かが溜まっているような感じで響き、違和感があり、おかしいと思いました。

 9月6日(水)の定期検診では、何とか無事に車椅子に乗る事ができ、介護タクシーに乗って、病院に着きました。まだ膿や出血がおさまらなく、車椅子に乗っていられない程の痛みがあった為、ストレッチャーを貸してもらい、形成外科まで運んでもらいました。お尻にはガーゼとパッドを当てていて、心の中で、「このまま入院という形になったらどうしよう」と思っていました。前日、母が「再入院しても、私は絶対に行かない。あなた一人で入院してなさい」と言っていたことが頭に渦巻いていました。ヘルパーさんと2人で行ったので、「再入院が決まったら、その場で対応をしてください」と、前日に事業所に事情をメールで送っていました。先生から、「何らかの形で表面に菌が入っただけ。全部出れば大丈夫。1週間様子を見て下さい」と言われ、本当に大丈夫なのか聞いたが、多くを語ってはくれませんでした。陰洗を続けて、シャワーだけ浴びて下さいとの事。説明不足ではないかと思いました。薬を貰って帰宅後、家族に説明をしたら、「本当に大丈夫なの?帰ってきて良いの?藪医者じゃないの?」と家族も不信感に襲われていました。

 9月13日(水)にT病院に行き、診てもらったところ、手術したところがお尻で圧がかかり、一般の人より治りが遅い。あくまでもT先生は痔ろうとは認めませんでした。

 9月15日(金)夜、母と2人で入浴をしていたら、「死ぬまで肛門は使うのよ。お尻を大事にしなきゃだめよ。あんたも若くないんだから、生活スタイルを考えなさい」と言われました。「言われなくっても考えている。お尻はひとつしかないし、便を出すのは肛門しかない。大事にしなきゃと思っているし、生活スタイルを今後どうしてくかを私なりに考えているよ」と話しました。

 9月18日(月)に大きな穴がまた開き、パットに少量の膿や出血があり、ヘルパーさんが「これはおかしいよ」と助言してくれて、再び悩みました。確かに3週間経って、穴が開いたり閉じたりの繰り返しで、回復の兆しが無く、親子共々諦めムードになっていました。これ以上この病院に通っていても良くならないと判断して、9月20日(水)に以前受診した事がある大腸肛門科の有名なY病院に行きました。最初に受診したは2010年でしたが、まだ当時の担当の先生が居たので話しやすかったです。今までの経緯を簡単にまとめて伝えたところ、「出来物があった場所がどうなっているのか分からないし、もしかしたら取り残しも考えられるので、後日一度MRIを撮りましょう」という事になりました。私は先生に、「T病院で手術前にMRIを撮った時は、痔ろうと確定が出来ませんでした。手術した先生によると「全て取った」と言っていました。あくまでも痔ろうとは言わなかったし、皮膚良性腫瘍としか言ってくれません。深さは指1本分あったそうです。なので今回もおそらく、取っても中がどうなっているのか判定出来るのか不安です」と伝え帰宅しました。入院中の4日間、今穴が開いている所に管が刺さっていて、膿や血を出し切ったはずなのに、その所からまた膿と出血を繰り返すなんて、処理の仕方がおかしかったのではと考えてしまいます。最初から痔ろうであれば、Y病院で手術をしたいと考えていました。今思えばT病院だけではなく、いくつか病院を周り、色んな医師の意見を聞いてから、手術をどこで受けるかじっくり考える時間があるべきだったのかなと考えてしまいます。Y病院には3年通っていて、良くなったと思い込んで、通院や薬を自己判断で止めてしまいました。

 9月21日(木)Y病院に移ってから、親子共々精神的に落ち着き、これでお尻に何かあっても大丈夫と思えるようになって、気持ちが明るく前向きになれたような気がします。もっと早くY病院に受診していれば良かったと思っています。母は、「夢にT病院が出てきて嫌だった」と言っていました。よっぽど精神的にやられていたんだなぁと思い、この出来物の病院をもっともっと時間をかけて選んで、準備を整える期間を長くして、納得いく説明と手術方法と、その後のケアを聞けば、こんな思いをする事はなかったのかなと後悔ばかりが先に立ち、悔やむ事が多いです。MRIの結果は少し怖いけれど、自分でY病院を選んだ限り、後悔はしないと思います。

 9月27日(水)朝からMRIを撮るために、朝食抜きで気合いを入れて起きました。MRIを撮れば全てが分かると考えていて、でも心のどこかで良くない事も考え、覚悟はしていました。そしてY病院にMRIを撮りに行きましたが、麻酔が打てないという事で、中止になってしまいました。私は納得がいかなかったので、「どうしても午後から先生と話したいし、診察を受けたい」と伝えて、受診しました。先生から、「MRIが撮れなかったら、一度手術台に乗って、穴が開いている箇所から管を入れて、肛門に繋がっているかを確かめたい。その為には入院という形になります。その前に採血やいろいろな検査をしていきましょう」と言われ、頭が大パニックに陥って奈落の底に突き落とされました。帰宅後、母に今日の経緯を話した所、「何でMRIを撮る時に麻酔が打てないの?障害者の手術はやっているのかしら?」と心配になっていました。そして、今後の方針を話すと、「やっぱり再入院・再手術という流れになったのね」とガッカリした顔をしていたのが忘れらません。私だってこんな報告をしたくなかったし、今までの流れ的には、良くないなとずっと思っていました。もしかしたら最悪の結果が待っているのではないかと思っていましたが、実際に言われてみると、グサッときて、朝から何も食べていないのに、お腹が空かない、喉も乾かない。その位気が動転していました。隣でヘルパーさんに、「お腹が空いたので、ごはんを食べていいですか」と言われ、「ああ、そうだった、配慮が出来なかった」と思いました。母と、「入院するんだったら早い方がいい」と話をして、次回の受診日である10月4日(水)に向けて検査入院の日取りや、検査の日を考えて、気が休まりません。私達家族は7月から、お尻を治すためにT病院まで行き、T先生に全てを託し、痛い思いをしましたが、それは完治するためだと信じていました。2ヶ月経っても穴が開き、縫い目が裂け、穴が大きくなり、血や膿が出て、全く前と同じことを繰り返しています。あの手術は何だったのと考えると、すごく頭にくる。今もお尻が痛くて痛み止めを飲んでいます。本当にT先生の事を恨んでいるし、この2ヶ月、3ヶ月を戻して欲しい。医療ミスだと認めて欲しいと思っています。仮に痔ろうのの手術の場合、縫ってはいけない。でも縫ってあり手術方法が違っていました。こうして患者の気持ちをちっとも考えていないT病院の先生に対して、怒り心頭です。またY病院で痛い思いをするのではないかと思うと、暗い気持ちになります。どれだけ家族に迷惑をかけているのかわかっていますが、これだけはどうにもならない。今度こそ託そうと思っているこの頃です。

 10月4日(水)前日から緊張して眠れない。今日全てが決まる、いや、決めなくてはいけないと思っていました。この1週間、パソコンでお尻の状態を打ち込んだり、検査入院の話をまとめたり、何だか忙しく心が休まりませんでした。親子でソワソワとして、病院に向かいました。先生とお尻の状態を話して、今後の治療方法を話しました。前回、2泊3日という入院期間で日程を組まれ、車椅子生活なのである程度長い期間入院したいと希望し、10月29日(日)に入院し、10月31日(火)に手術、11月7日(火)に退院、という日程で10日間入院する事になりました。もう一つは、退院後のケアについて話をし、訪問看護を入れたいと希望したが、「内部の病気ではないので、入れる必要はない、お尻は専門家が診ないとわからない」と言われてしまいました。私は1回目で失敗しているので、訪問看護が入る事で気持ち的に落ち着くのに、先生に今の状況を話しても理解してもらえませんでした。午後15時半の受診でいきなり「今日は入院前に備えて、血液・心電図・レントゲンを撮ってくださいね。検査結果が、1週間後に出るから、電話を14時~15時半の間にかけて下さい。もし検査結果で引っかかった場合、追加で検査を受けて下さい。手術方法は手術前日に説明します」と言われ、看護師さんから痔ろうの手術を全身麻酔で行うための説明を受け、書類と手術の承諾書にサインをしました。その後に看護師さんから手術前の検査室の順番を言われてその通りに動きましたが、15時半から先生と話し、看護師さんから説明を受けた後に検査に行くと17時で病院が閉まってしまうし、ヘルパーさんの終了時間が迫ってくるし、頭の中はパニック状態でした。看護師さんから渡された紙を見ながら検査に行きましたが、何だか器具が古めかしいし、周りのスタッフの障害者に対する対応が慣れていないなと言う事がわかってしまいました。レントゲンは車椅子で撮れなく、背もたれのない丸い椅子に座らされて、不安定の中撮ることになりました。こんなことは、T病院ではありませんでした。私は手術に向けての検査があった為、母が代理で相談室に行き、私は入院期間中にやって欲しい事を書いた紙を渡して現状を伝えましたが、「どこまでできるかわかりません」と言われたそうです。本当にこれで大丈夫なのかと不安でたまらない。入院手続きに行き、手続きをした後に係の方から「病室が決まるのは、入院3日前にならないとわからないので3日前にご自宅に電話をかけます。」と言われて、びっくりしました。封筒を渡され開けたらパンフレットは1枚だけの案内で、これで何を揃えるのかわからない。検査は時間が遅かったため時間がかかることがなく早く終わり、受付は人はいなく、待つ時間もありませんでした。介護タクシーが迎えに来てくれて乗り込み、薬局に母が薬を取りに行っている間に入院の日のタクシーを予約しました。帰宅時間は18時頃になり、ヘルパーさんが終了時間で帰られた後、母は父の食事の用意をしながら私に「本当に大丈夫なの?」と聞いてきましたが、私も今日の説明を聞いて不安でたまらなかったです。この日は入院に向けての書類やパンフレットを軽く見て終わってしまいました。オムツやパジャマの事が載っていなく、母と2人で絶望感でいっぱいでした。入院が決まってから母は被害妄想を抱く様になりました。詳しい説明もないまま、入院当日を迎えることになります。これじゃあ1回目より悪いじゃないかと正直思っています。こちらから入院前の検査結果を聞くことや、入院3日前にならないと部屋がどこになるのかわからないという病院ってあるのかなぁ?不安で不安でたまらない。手術の痛みや、その後どうなるかはわかっている。それより病院の設備と態度が私は引っ掛かっています。親子で、今回の入院・手術をする事は、大きな不安を抱えて挑むことになってしまいました。これで良かったのか訳が分からなくなって、いくら考えても答えが出てこなく、また失敗したらという事を考えてしまい涙が出ることもありました。しかし障害者に対する対応があまり良くなく、私も母もとにかく心配で心配で、毎日心が揺れてしまい、何から手をつけていいのかわかりません。甥っ子と姉が遊びに来た時に、姉に再手術をすることになったと伝えると、姉は私に「私はね、子供二人、帝王切開して、子宮筋腫が出来て3回同じ場所を切っているのよ」と言ってきました。私は心の中で(あのぉ~…回数関係あるの?私も同じ場所を2回やるんだけど…。)と思いながら聞いていました。次に言った言葉は「もう手順わかってるでしょ?心配ないでしょ?」とあっけらかんという姉。私は「わかっているからこそ怖いものがあるのになぁ」と思いながら話を聞いていました。姉は励ましの言葉だと思って言ったつもりなのだろうが、今から再手術と言う事で親子で揺れていました。夜に母が手術箇所の穴を見て、わずかだが穴の周りに肉が盛り上がっているのを確認して、今までで見たことのない変化があったと言うので、良い兆しが見え始めたなと思いました。「肉が盛り上がり穴を包み込むのではないか」と母が言い出しました。

 10月29日(日)台風で雨がザーザー。私は2回目の入院で何となく気が立っていました。介護タクシーが迎えに来て、家出のような荷物を車に詰め込み病院に向かい、ベッドに移り横になりました。生活状況や、障害名やヘルパーさんが入っている時間帯や、重度訪問介護の障害区分認定度、持病があるか、手術歴、入院歴を聞かれました。看護師さんから10日間のスケジュールを渡されました。それには、31日の手術が終わってからは普通の生活をして下さいと記入されていました。痔ろうは病気ではあるが、手術をした後は自分の免疫力で回復していくしかない。医学的に切ったらおしまいと言う事をハッキリ言われました。私は家にいるときは横になってもクッションは使いません。でも病院のベッドの中は横を向いたり上を向いたりするときにクッションを使います。7月にT病院に入院した時に枕をたくさん貸してくれたので今回も貸して頂けるのかなあと思っていたら、「ご自分でお持ちください」と言われ目が点になってしまいました。結局病院の小さいクッションを2つ貸してもらって、後日自宅から枕を持って来てもらいました。病院によってこんなにも差があるんだなあと思いました。私が一番驚いたのは、ベッドが手動式で全体が昭和な病院で、ベッドを上げるのに一苦労をしたり、せっかく買った時計が置く所がなく、ガムテープで貼り付けたら時計のボタンがあたり、狂ってしまって、母といざこざを起こしてしまいました。翌日に時計を母がセットして持ってきてもらって、ガムテープでうまく貼り付けてもらいました。病院では何月何日なのか何時なのか分からないので、日付と時間がわかる時計を買いました。せめて人間らしい生活を送りたいと思っていました。午後から看護師さんが尿道に管を通し、肛門の付近にある毛を剃ってもらいましたが、看護師さん曰く、毛が生えていなく綺麗と言われました。こんなことはT病院ではやらなかったので、びっくりしました。今回もトイレに行かれないので、あらかじめ先生と相談して尿道カテーテルを付けて欲しいと申し出をしました。先生は私が全く動けない事を把握していないので、こちらからやって欲しい事を伝えました。一度経験しているので前回の教訓を今回に生かそうと思いました。早速、尿道カテーテルを付けました。前回は母が昔作ってくれた浴衣を寝間着代わりとして着ましたが、今回は冬になるので洗濯物が乾かないという事なので、病院の物を借りて着る事にしました。後から母が「最初から病院で借りた方が洗濯が楽だわ」と言っていました。一つ気になったのが、看護師さんの態度です。それがやがて、地獄の始まりになろうとは考えていなかったです。初日は、昼食と夕食介助を看護師さんがしてくれました。ただ、親が台風の中、自宅に帰ったあと、看護師さんはなかなか見守りに来てくれませんでした。なんとなくここの病院おかしいなと感じ始めていました。看護師さんがワゴンを引きながら各部屋に巡回に来た時に、血の付いたガーゼを透明の袋に入れて、何気ない顔でガーゼ交換をしているのを見て恐ろしくなりました。山のように血のガーゼが入っているのに、平常心でいられる精神が私には理解出来ませんでした。普通、血が付いているのを見るのは嫌だと思います。私だったらひっくり返ってしまい、看護師には向かないと思います。

 10月30日(月)台風が過ぎ去り良いお天気になった。「昨日は大雨の中帰るのが大変だった」と母から聞きました。母が面会に来てくれた時に、病棟の婦長が母を呼び出し、話したそうです。「17時以降は看護師がいなくなるので、人が足りない。18時の夕食介助は出来ないので、ご家族で介助をしてくれませんか」と言われたそうです。結局夕方は母か父が食事介助をする事になりました。私は入院する前に、障害の状態を紙に書き、やって欲しいことを伝えていたのに、出来ないんだったら先に言ってくれればそれなりに手立てがあったと思います。そもそも入院の3日前に部屋が決まり、私が書いた紙は3日前に看護師さんが読んだそうです。一抹の不安を抱えながらの入院が予感的中。夜間の巡回は2回しか来ません。1回目は体温と血圧、2回目が体勢交換1回だけ。こんなの聞いたことがない。見回りにも来ない。私はナースコールが押せない。他の患者さんがナースコールを押したときに、体勢交換をお願いしたり、水分補給を頼んだり、まるでサバイバルでした。手術前日なのに、肝心な先生が来ない。月曜日は外で働いていて、18時頃に戻ってくる感じだと言われました。午後から麻酔科の先生と手術を手伝ってくれる先生と話をしました。手術歴、入院歴、アレルギーがあるかどうか、身長体重を聞かれましたが、体重測定をしてもらえなく、不安で仕方がなかったです。T病院は問診の後に麻酔の量を決める為、体重測定をしてもらったので安心が出来ました。そこでも不安を抱えていました。日勤の看護師さんも2回しか来ません。1回目は午前の着替えと清拭とお尻を洗う介助、2回目が体温と血圧測定。またここでも誰かが呼んだら水分補給と体勢交換をお願いしました。母が「手術前日なのに執刀医と話が出来ない」と怒り始め、呆れて帰ってしまいました。結局私ひとりで先生に、翌日の手術方法や完治までの日数を聞きました。手術方法はシートン法。穴の開いている箇所にゴムを入れる方法で、通院の度に肉が盛り上がってくるのを見て縮めていく。浅ければ1,2ヶ月、深ければ3,4ヶ月と言う話を聞いて、以前ネットで痔ろうの手術方法を調べた時に、シートン法は時間がかかるが、再発率は低いと書いてありました。その事を考え、完治まで時間は少しかかりますが、再発のリスクを考えると開放術よりシートン法の方が良いのかなと考えていました。T病院でMRIを撮ったのを先生が取り寄せてみたところ、肉眼では判断付かない細い腺が肛門と穴に繋がっているトンネルがあると確認され、腹が立ちました。そのMRIは6月のものであり、「T病院で1度手術を受けて状況が変わっているかもしれない。ここでも切ってみないと分からない」と言われ不安でした。「症状からいくと痔ろうしか考えられない」と先生が言いました。私はT病院で肛門の手術を受けましたが、中々引っ込まず悩んでいました。「手術をするんだったら肛門の出ている箇所を切ってください」と伝え、「あれは皮が弛んでいるだけだと思いますよ」と言われました。でも「綺麗にして欲しい」と言ったら「やりましょう」と了承してくれました。夕食介助をする予定だった母は怒って帰ってしまい、父が夕食の時間に合わせて来てくれました。私は生まれてから父に食事介助をしてもらったことがありませんでした。それに、父がかって出てくれた事にビックリし、何か起きそうな感じで怖かったです。40歳になり、初めて父が食事介助をしてくれたことで感動しました。食事と一緒に栄養剤が支給され、今夜と明日の朝2回飲むように言われました。手術前夜は肛門に入っている便を出さなければ手術が受けられない為、看護師さんが肛門に座薬の下剤を入れて、「20分経ってから便をして下さい」と言いました。しばらくするとお腹が痛くなってきて排便を促し、オムツの中で排便をしました。そして、お尻を綺麗に洗い、オムツをあてました。こんな感じだったら私は手術2日前から入院した意味がよく分かりませんでした。ただベッドの上に横になり、ぼけーっとしているだけ。これだったら前日に入院でも構わなかったと思い、腹立たしくなっていました。

 10月31日(火)いよいよ手術当日を迎えました。2回目という事で手順が頭の中に入っていたので眠れて良かったです。今回は生理が2日前に終わって、さっぱりとしたお尻で手術を受けられる事になって安心していました。前回生理とぶつかって手術をするにあたり、万全ではない体調の中で手術をしました。いろいろと弊害があったので今回こそ生理にぶつからないことを願っていました。朝6時頃に起こされ、肛門に座薬を入れて、肛門に入っている便を全て出し切らなくてはいけません。前日の夜にも座薬を肛門に入れて便を出し、辛かったです。看護師さんが肛門に便が入っていないか確認のため指を肛門に入れて確かめられました。前日と当日の朝は、栄養価が高いちょっとした栄養剤と薬を飲まされました。朝8時半までに全て用意を終えて待っていなくてはなりませんでした。7時頃に手術着を着せられ、前は普通の布があって後ろはがばっと開いている洋服でした。エコノミー症候群にならないようにきつい膝までのストッキングを履かされました。母が8時半頃に来てくれて、昨夜、先生がなかなか来ないので怒って帰った為、手術方法の説明を聞かなかったので、私から説明をしました。シートン法でお尻にゴムが入ると言いましたが、ピンとこなかったみたいで、「とにかく無事に手術を終わらせて、お尻を治して自宅に帰って来て」と言っていました。やがて手術が終わり、娘のお尻の傷口を見てびっくり仰天するとは夢にも思わなかったでしょう。そして8時半頃にベッドからストレッチャーに乗せられ、手術室に運ばれました。手術室に運ばれる途中に窓があり、そこから青空が見えて「出かけたら気持ちよさそうだな」と思いながら看護婦さん達にストレッチャーを押されていた。この光景はいまでも覚えています。手術は9時スタート。左手に点滴、胸には心電図、病棟の看護師さんから手術担当の看護師さんに申し送りがありました。3ヶ月前に手術をした時とまったく同じ状況で、まるでタイムスリップをしたような感じがありました。先生から「今から手術をしますね~」とおっとりしたゆっくりな口調で言われて何だか気が抜けてしまいました。手術を決める時に母が「あの先生で大丈夫かしら~?」と言っていました。先生は女医さんでゆっくりとしたおっとりな優しい感じで患者さんを和ませるタイプです。でも手術は出来るのかなという感じです。そんなおっとりな先生で命を預けていいのかと母は言いたかったのでしょう。やがて先生と信頼関係ができ頼もしく思えるようになりました。話は手術へと戻ります。頭に柔らかい紙の帽子を被り、鼻と口に麻酔のマスクを付けられ、ゆっくり吸って吐いていくうちに気を失っていました。ストレッチャーから手術台に乗せられ、うつ伏せになり気道に管が入りました。お尻を丸出しにして、T病院で縫った縫い目を剥がして、穴が開いている箇所を広げ、肛門と穴が開いている箇所にゴムを周りに入れ、直径5㎝の穴になって、1㎝位肉をえぐり取り(アイスクリームディッシャーで肉を取り、そこに丸くゴムを入れてある感じで、肛門まで続いていたのでそこも肉をえぐり取りました。)手術は終了。約2時間で終わったそうです。目覚めたのは、手術後のベッドの上で頭がボーっとしている中、先生達に囲まれて先生が「やっぱり痔ろうでしたよ、肛門はいぼを取っておきました」と言われましたが、気道に管が入っていたせいで声が出ないガラガラ声で「痛い~」と言ったのを覚えています。布団が3,4枚掛けられて、お尻は丸出し状態でオムツをつけていませんでした。 病室に帰ってから布団を1枚にしてくれて、オムツをつけてくれました。先生が「お母様に説明に行って来ます」と去って行きました。違う洋服を着せられていて、マジックテープですぐに胸がはだけるようにする洋服でした。ストレッチャーでエレベーターに乗った時に、振動でお尻が激痛に襲われていました。病室で母と再会し「今回の手術は前回と比べると楽だったよ。そんなに痛くない」と伝えると「良かったね」と言われましたが、手術をしたばかりなので痛い事は痛いです。痛いと言っても看護師さんは「はいはい」という感じで、もっと優しく扱ってもらいたかったです。手に点滴が付いているので、痛み止めを流し込んでもらいました。心電図は一晩付けっぱなしでした。なのに母はとっくに帰ってしまいました。看護師さんがなかなか来てくれなく酸素吸入の管が外れ、シューっと漏れていました。看護師さんが回ってくると、「あら外れているね」と言い、付け直してもらってまた数分後にシューっと機械が外れ、こんなのでいいのかと思って怖くなっていました。麻酔から覚める頃に吐き気と頭痛に襲われていました。痛み止めは強いもので副作用が出ると聞きました。眩暈、吐き気が起こり始めて、痛み止めの点滴は取り外されてしまい激痛に襲われていました。足はきついストッキングを履かされたままで、エコノミー症候群にならないようにマッサージ機をつけられて鬱陶しかったです。先生は麻酔が切れる頃にやって来て、「ご気分はいかがですか?今夜は無理せず食べられる範囲で食事を摂ってくださいね」とやさしく話し掛けられました。とにかく何であれ治してもらはなくてはいけない状況でした。その日の夜は夕食は1口2口で終わってしまいました。気持ち悪くて仕方がなかったです。

 11月1日(水)術後1日目。昨日は痛みと副作用でまったく眠れなかったです。自分の心電図もうるさく早く取って欲しいと願っていました。朝はお粥が出て少し食べられました。日勤の看護師さんが来て、「シャワーを浴びに行きましょう」と言われ、またストレッチャーで運ばれてシャワー室に行きました。痔ろうは手術後1日目から日常生活に戻れます。お尻さえ綺麗に保てば問題がありません。と言っても、昨日手術を終えたばかりで、シャワーを浴びることは激痛で地獄でした。看護師さんが「とにかくお尻は綺麗にしましょうね」とゴシゴシと容赦なく洗い、私は悲鳴に近い声を上げながらシャワーを浴びていました。こんな経験は初めてです。術後2日目からは湯船に入っても問題がないと言われてびっくりしました。喉は相変わらずガラガラしていて、声があまり出なかったです。看護師さんからも退院に向けての話が出て、訪問看護を入れるかどうかの話し合いが始まりました。私の担当をしてくれている看護師さんと先生が、区のケースワーカーと話し合ったところ、特別な処置がないということで、前回と同様訪問看護は入れずに家族とヘルパーさんとでケアにあたることになりました。内心では前回の失敗の事がありとても心配でした。「また途中でなにかあったらどうしよう」という気持ちと「何とかなるだろう」という思いとで複雑でした。手術箇所に異常があった時には病院に連絡し、運んでもらうことで話が決まりました。この日も食事が思うように摂れませんでした。術後1日目なのに、傷口があまり痛まない。チクチクという違和感はありました。横を向いたりすると痛いし、咳やくしゃみをすると痛い。でもそんなに気になる痛みではなかったです。T病院で手術を受けた時に、のたうち回り、食事が摂れなかった時に比べると、雲泥の差でした。全部縫っている方が痛い。逃げ道がなくなり縫い目から自然と穴が開き爆発したような感じです。痔ろうは開放した方が痛くないんだなと感じました。本来なら手術後、手動式のベッドに移らなければなりませんでしたが、看護師さんが電動ベッドの方がケアがやりやすいため電動ベッドのままでした。看護師さんから、シャワーを浴びた後に「お母さんに今日から傷口の状態を見てもらってください」と言われ、「はい」と言い、母が夕食前に来た時に、「看護師さんから、今日から傷口の状態を見て下さいと言われたよ」と報告しました。母は「まだいいよ」と言いながらも、オムツをはがし、私を横向きにして傷口を見た途端、「あんたあれで痛くないの?バックリ開いているわよ、手術これでしたの?」と言い、私に傷口の報告をし始めました。「T先生が縫ったところを全部ほどいて、肉が丸見えになっている。その周りにゴムが入って2つあるわよ」と母は動揺しながら話していました。「これではうちに帰ってからヘルパーさんがひっくり返るわよ」と言っていました。私はあまりにも痛みがないので、え?と言う感じでした。お尻を触られるとなんとなく痛いです。母が言う通りに傷口が痛ましい状態でヘルパーさんが嫌だと言ったらどうしようと思っていました。

 11月2日(木)向かいに人工肛門の手術を受けたおばあちゃんがいて「痛いよ~」と叫んでいました。私は今回痛い事は痛いがそれほどでもありません。痛み止めを服用していますが1週間前後で卒業しなくてはいけないと聞いています。これなら自宅に帰ってから動けるだろうなとベッドの中で考えていました。1日ベッドで横になっていると、腸の働きが悪くなり排便がしづらいです。今日で便秘になって2日目。先生からは「痔ろうは下痢と便秘が最大の敵」だと言われていました。でもオムツの中で便をする事は耐え難い苦痛です。先生から下剤を夜服用し排便を促すように言われました。私は肛門のいぼ痔を手術して取ったので、そこも痛い。排便自体が苦痛になっていました。でも出さなければいけないと思い、下剤を飲んで頑張って2日分、オムツの中で排便を3回しました。少しお腹が楽になりましたが、傷口は痛い。便をすると菌が傷口に当たりひりひりとした痛みがやってきます。看護師さんに伝えてお尻を綺麗に洗い流しオムツを取り替えてもらいました。夕方母が面会に来た時に、カーテンを全部閉めて、「昨日横向きだったので、じっくり見たい」と言われ、仰向けになり、自宅に帰ってからお尻を洗うような恰好をして、私の足を持ち上げ、しげしげと見て、卒倒しそうになっていました。母がおむつ交換をした時におむつを捨てる所がわからなく自宅に持って帰った時に、痔ろうの独特の匂いがゴミの中にあって臭いと言っていました。先生の説明によると、直径5~6cmで、肉をえぐり取ったのが5mm~1cm。例としてあげるなら、アイスクリームディッシャーでえぐったような穴の周りに、ゴムが付いている感じ。母が倒れそうになるのも無理はない。でも本人である私は、本当にそれほどの痛みが無く、楽でした。これは強がりではない。先生の腕がいいのだと思います。その後、思い切り水分を摂りまくりました。何故なら、喉が渇いても看護師さんが巡回に来ません。地獄です。そのくせ、術後1日目は600ccしか排尿がなく、「もっと水分を摂ってください」と言われ頭にきました。入院前に飲みたいジュースを買いまくり、食べたいお菓子をヘルパーさんと選んだことを懐かしく思っていました。術後2日目からお菓子をバリバリと食べ始め、何となく食欲が戻りつつありました。母が毎日面会に来た時に飲み物を飲みたいだけ飲み、お菓子をバリバリ食べ、そのごみをごみ箱に捨てて翌日の朝7時にごみ回収の方に見られて、何だか気が引けました。外国人の方に「おはようございます、ごみ回収です」と言われて、半分寝ぼけ眼でいる顔を見られてしまいました。病院ではお菓子やジュースはあまり食べてはいけない事になっていますが、痔ろうの場合は食事制限がないので、カーテンを引いてバリバリと食べていました。その事を考えれば、ごみ箱に山のようにペットボトルが捨てられ、中にお菓子の袋も入っているので、罪悪感がありました。でも1度目の手術の時に何も食べられない事があったので、2回目は最低限お菓子を食べて生き延びようと考えて色々と自分で選んで買いました。ここの病院は看護師さんが少なく、患者さんはお年寄りばかりで認知症が入っていて、食事の時はナースステーションに連れて行き1対2で食事介助をしているらしいです。えらい病院を選んでしまったと思っていました。

 11月3日(金)今日も傷口の経過を3回診てもらい、「順調です」と言われ、一安心しましたが、お尻を見られるたびにめくられて傷口が痛いです。お尻を1日1回ゴシゴシと洗われ、痛い。でも耐えられる痛みになっています。本当に今回は痛みに関しては楽というしかないです。向かいのおばあちゃんは相変わらず「痛い!!」と言っており、気の毒だなぁと感じました。看護師さんから「傷口の痛みはどうですか」と言われ、「まだ痛いです」と言うと、「あと2日ぐらい経てば痛みは徐々に落ち着いてくる」と話していました。私は半信半疑になっていましたが、それがやがて現実のものになるとは思っていなかったです。術後3日目からお粥からごはんに変わり、食欲も徐々に回復して来ましたが、全身麻酔の影響でお昼近くになると熱が37度台に突入し、頭の下にアイスノンを敷くことが約5日間ありました。でも体的にはあまり麻酔の影響がなく、普通に手術が終わって目が覚めた位、自然に近い状態になってくれたことに感謝しています。今日も母が見舞いに来てくれて、思い切り水分を摂りお菓子を食べました。体の回復力はすごいなぁと思いました。しかし夜勤の看護師さんは、夕方挨拶に来る時は顔も声も元気ですが、朝来ると疲れた様子で髪も乱れて顔も寝不足という感じで、夕方に会った看護師さんと朝来る看護師さんはまるで別人でした。日勤の看護師さんは夜勤の看護師さんより元気で病院中走っていました。看護師さんの仕事は忙しくバタバタしていました。だからといって高齢の母の手助けを待つのは話が違います。見回りに来なく水も飲めない、寝返りもうてない術後の体なのに、この扱いはあっていいのだろうかと思いました。我ながら術後の体なのに、他の患者さんがナースコールを呼ぶのを待ち、ついでに水分補給や体制交換などをお願いするという知恵を絞っていました。ちょっとのことではへこたれない私です。病院の中は暖房が入っていて寝間着一つでバスタオル1枚をかけて過ごしていました。まるで裸族のようでした。

 11月4日(土)今日で術後4日目を迎えました。傷口はまだ痛いですが食欲は何となく出てきて、病院食もやっと口に入るようになりました。今日も3回傷口をチェックされて、「順調ですね」と言われ一安心。でも少し痛いです。あと2日後には退院なので、少し心配になっていました。喉も何となく痛く、このままでいいのかと自問自答を繰り返していました。

11月5日(日)3連休なので、病院は静かだし、看護師さんが不足しています。でも傷口のチェックは欠かせません。いつものように看護師さんが朝と晩チェックし、先生が朝食後、チェックをします。「今日も順調ですね、でもまだじゅくじゅくしたのが取れませんね。退院後は外来で経過を見ましょう」と言われました。でも少し痛いです。もう便秘になって2日目に突入していました。母が見舞いに来て、「何でもいいから食べて便を出さなければいけない」と言われましたが、お腹が便でパンパン状態でした。肛門の所で便が固まり、痛くて痛くて出て来ない。看護師さんと相談して、また下剤を服用しましたが、出ませんでした。看護師さんから「少し気分が変わるように」と、隣には誰もいないのでカーテンを開けてもらい、窓から外の景色を眺めていました。隣の隣のおばあちゃんの家族が大勢お見舞いに来ていました。静まり返っていた病室が一気に明るくなりました。いつもそのおばあちゃんはわがまま放題で看護師さんを困らせていたのですが、その時ばかりは素直に看護師さんの指示を聞いていました。私は土日辺りから急激に元気を取り戻し、自分で狭いベッドの中で右左上を向いていました。母が今回元気なのでビックリしていました。おやつも水分も摂れるようになっていましたが、喉がまだ痛くてガラガラしていました。今回、お尻より喉を傷めている感の方が長いです。帰ったら内科に受診しようか考えていました。Y病院の食事は意外と美味しかったですが、魚と野菜たまに卵が出てくるだけで、少し飽きていました。私はもともと炭水化物を摂らないので、お腹が空いていました。少しはお米も食べていましたが、太りたくないのでほとんど食べない生活を送っていました。だから便が思うように出ない。この夜も夕食は1口2口で終わってしまいました。便が出ないと食べられない。母とけんかになりました。夜中に急患で運ばれて来た患者さんがいました。お尻から大量出血を起こし、病院に来たそうです。眠たい目をこすりながら、バタバタと看護師さんたちが走るのを聞いていました。こういう事もあるんだなと思い、退院後は気を付けようと思いました。部屋の人たちは今回おばあちゃんばかり。少し認知症が入っていて、夜になると寝言なのか起きているのかわからないが声が聞こえてきます。おばあちゃんがトイレに行くたびにナースコールが鳴り、看護師さんが来るので、おちおち眠っていられない。5時ごろになるとお小水の回収に来て、ベッドの横でモゾモゾしています。6時になると起床時間で体温と血圧で起こされて、10日間寝不足の日々が続いていました。退院間近になって母が先生から渡された注意事項の紙に蛍光ペンで”やってはいけない事”に線が引かれてありました。長時間座ってはいけない。動いてはいけない。運動は1ヶ月してはいけない。母は私が家に帰ると動いてしまうので、今のうちに紙を読んで釘をさしたかったのだと思います。「家に帰ってからもおとなしくしなさいよ」と口を酸っぱくして言われてしまいました。

 11月6日(月)いよいよ明日退院。気持ちは明るい。相変わらず便秘です。看護師さんから「明日は退院なので、シャワーを浴びに行きましょう」と言われ、ストレッチャーに移動し、シャワー室で5日ぶりの垢を洗い流しました。お尻をまたゴシゴシと洗われ、「痛い」と言っても「治る為だから我慢して下さい」と言われました。気持ちの中では今日退院でもいいくらいの状態だった。でもお尻は相変わらず痛かったです。明日車椅子に乗り、家に帰れるかが不安になりましたが、何か行けそうな感じがしていました。母は今回荷物を先にある程度持って帰り、「1秒でも早くここの病院から出たい」と二人で言っていました。その位待遇が悪い。ナースコールを押しても駆けつけてはくれません。看護師さんから母が何時に来るのかと聞いてきました。母をアテにしています。早く来いとばかりに聞く方が間違っているのに、それすらわからない看護師。一体この病院はどうなっているのだと怒りは最高潮でした。喉が渇いても定期的に水分補給をしてくれない。体勢交換もしてくれない。これで激痛だったら訴えてやると思っていました。そのくらい地獄の日々を送っていました。看護師さんと先生と仲良くはなれませんでした。ただ本当に手術を受けただけと言う感じでした。早く自宅に帰り、日常生活に戻りたかったです。いよいよ明日自宅に帰れると喜んでいました。最後の夕食も便秘で食事が喉を通りませんでした。一緒に入院していた方も2日後に退院する事になりました。その方は高齢で家族の方が見舞いに来ていました。看護師さんに「私はお昼を食べたら退院するのでよろしくお願いします」と言っているのを聞いて、何だか切なかったです。何故なら自宅に帰って好きなものを食べた方がいいのではないかと思いましたが、その方は何らかの事情で帰っても食べられないのかなぁと思いました。その方とまた違う方が、「ここはいいわよね、ただベッドで横になっているだけで3食出てくるのだから有り難いわね~」と言う会話が聞こえてきました。私はその会話を聞いて、違うと感じました。ここは病院で寝ているだけの生活でやりたい事もしたい事も出来ない。食べたいものだって食べられない。自宅に帰ってゆっくり過ごしながら食べたいものを食べて眠りたいときに眠る生活を望んでいるのに何で病院がいいのかわかりませんでした。母に聞くと、「高齢になるという事は欲もなければしたい事もなくなって食べたいものも作れなくなってくるから、病院で自動的に出てくるのが助かるんじゃないかな」と言っていました。それを聞いて悲しくなってしまいました。

 11月7日(火)待ちに待った退院の日。お天気も良く母が9時に来てくれ、荷物をまとめていた時に先生が病室に来て「肛門に固まっている便を機械で掘り出しましょう」と言ってくれました。それが痛いのなんのって。ここ1番の激痛に襲われました。先生が「痛がるので浣腸をしましょう」と言い、浣腸をしてくれました。しばらくベッドの上で座っていると、出るわ出るわ、オムツの中は便で山盛り。ベッドの上は便まみれ。パジャマも便まみれ。えらい騒ぎになってしまいました。4日分の便はたとえようのない量でベットシートまで到達して、処置にあたった看護師さんに申し訳ない気持ちでした。今回は病院のレンタルのパジャマだったので家で洗濯する事はなかったので良かったと思いますが、前回のように家から浴衣を持ち込んでいたら母に怒られてしまうところでした。前回の浴衣は母が昔作ってくれたものだったので、それを今回みたいに便まみれにしたら、母に半殺しにされてしまうところです。元気になった今でも、母が「私が作った浴衣じゃなくレンタルのパジャマで本当に良かったわ。」と言っています。殺されなくて良かったと思います。4日分の排便はすごかった。全部出し切るとオムツを取り替えてくれて、着替えをして、車椅子に移ると、玄関に行きヘルパーさんを待っていました。今回の入院は、前回看護師さんが「全てやります」と言っていたのと対応が雲泥の差でした。看護師さんが不足してるので、面会に来る母に介助を押し付けようとして、今か今かと待ち構えていました。私は前回看護師さんに気持ち良く介助をしていただいたので、そのイメージで入院をしました。ところが巡回もあまり来ないし、水分補給も出来ない状態が多く、干上がってしまうのではないかという危機感もありました。こんなに病院によって対応が全く違うという事が勉強になりました。母と2人で「今回の入院は最悪だったね」と話していました。入院をする前に区役所に行き、コミュニケーション支援でヘルパーさんに入ってもらう事も検討しましたが、母が「家が近いし大丈夫よ」と言ったので、コミュニケーション支援を使わなかったのです。入院してみて「夕食の介助は出来ません」と言う時点で、これでは高齢の両親に負担がかかってしまうと思いました。次回はコミュニケーション支援を使ってみたいと思います。30分待っていると、ヘルパーさんが現れ「おかえりなさい。お尻はどうですか」と言われました。「少し痛いですが元気です」と言い、介護タクシーに乗り込みました。今回は前回の教訓を生かして、手術が終わった時点で退院支援の看護師さんと話し合って、「車椅子に乗って帰る事は出来るでしょうか?」という相談をしました。看護師さんは「円座を敷いて車椅子に座っても大丈夫ですよ」と話してくれました。ただし「長い時間座ってはいけないので30分に1回お尻の圧抜きをして下さい」と説明がありました。その話を聞いて母に円座を持って来てもらいました。車の振動もあまり感じることなく痛みもなく帰宅する事ができました。10日ぶりに我が家に帰ってくると、落ち着き、トイレに行くとまた排便がありました。どれだけお腹にたまっているのかわからない。まだお腹がゴロゴロして出てきそうで苦しかったです。トイレ後、陰洗ケアをしたときにヘルパーさんがビックリしていました。肉はえぐれて周りにゴムが入っている。こんなの誰も見たことがない。中はじゅくじゅくしている。陰洗ケアは仰向けになってペットシートをお尻の下に敷いて、母が私の両足を持ち上げてヘルパーさんがお湯が入ったボトルでお湯で洗い流すという方法です。午後からヘルパーさんが来て「どうだった?」と聞かれ「意外と痛くないの」と言うとビックリしていました。帰宅してから仰向けから普通に起きられない事を発見しました。何とかしなければならないと思い、うつ伏せから脇の下に手を入れて、抱きかかえることを考えました。まだこの時は退院したてで、傷口が痛むので横になって食事を摂りました。夕方になるとまた排便でトイレに駆け込みました。この日はいつ便が出てくるかわからなく、穴が開いていてえぐれているため、中から溜まっていた汁が毎回出て来ます。大きいパッドをあてて大人用オムツで生活を送っていますが、こんな経験は初めです。冬だから暖かいですが、夏のオムツは地獄だと思います。早く肉が盛り上がって普通の下着を付けたいです。久しぶりに母の手作りの夕食を摂った後お風呂に入りましたが、5~6cm穴が開いて肉がえぐれているので、お尻で洗い場に座るのは私にとってレベルが高すぎます。試行錯誤しながらいかにお尻を触らないように洗うのかを二人で考えながら入浴していたら、親子喧嘩が始まりました。しばらく慣れるまでは大変そうです。具体的にいうと我が家には入浴用のリフトがあり、体に福祉器具を装着しなくてはなりません。お尻を床に付けないようにするには円座に座り、前かがみになって上半身を脱ぎ、リフトで吊り上げてから下半身を脱ぎ、オムツを外すという流れを作りました。これが私も母も慣れるまでが一苦労。体と頭を洗うにはリフトで吊り上げたまま洗うという事を考えました。ふと考えた事があります。痔ろうは1日1回お風呂に入って綺麗にお尻を洗わなくてはなりません。それに毎回トイレ後、陰洗ケアをしなくてはなりません。今は親と同居してお風呂に毎日入れる環境で、陰洗も家族の協力のもとできていました。もし独居だったら、毎日お風呂に入る事は難しく、毎回トイレ後にヘルパーさん一人で陰洗ケアをする事は出来ないだろうと思います。この先、痔ろうや他の病気にかかった時に、果たして在宅でヘルパーさんと訪問看護で暮らしていけるのかを考えてしまいました。こうして1日が終わりました。やっぱり我が家は1番いいと感じました。

 11月8日(水)退院したてで1日目を迎えました。8時にヘルパーさんが来ても起きられなかったです。うつ伏せに起き上がり、トイレに行きオムツを外して用を足した後の陰洗の時に、ヘルパーさんがキャーと声を上げましたが、仕方がないと思います。母がオムツをあてた事が無かったので、うまくあてるには結構時間がかかりました。慣れるまでに10日ぐらいの時間が流れました。オムツは傷口が小さくなるにつれて、大きいオムツから中くらいのパッドだけになったり、また小さくなったら尿取りパッドに変更する事になり、術後1ヶ月の間にオムツの変化がありました。前日の浣腸の影響で便がパットについていました。そのせいで傷口がとても痛く、起き上がる事は出来なく、この日も一日、横になって食事を摂りました。ヘルパーさんに携帯で傷口の写真を撮ってもらい、自分で見て衝撃を覚えました。これはキャーと言われても仕方がない、痛くない訳がないと再確認が出来ました。この日も無事に終えたことが嬉しかったです。

 11月9日(木)病院で尿道カテーテルを付けていたせいで膀胱がおかしくなって、我慢出来なくなっていました。ヘルパーさんが朝来る前に排尿がしたくなり目が覚めました。トイレの中でヘルパーさんを待っていました。「あらこれは痛いわね」と言われました。この日は朝が痛く、寝て食事を摂りましたが、午後からは円座を敷いて食事が摂られるまでに痛さが急激に落ち着いていました。左側のお尻の肉がえぐれているため、右側のお尻に重心をかけているので、しばらくの間、右側のお尻と腰が痛かったです。朝の着替えもお尻をつく事が出来ないので、布団から腹ばいの状態にして起こしてもらい、お尻がつかないようにトイレに座り、便器の蓋を開けたままお尻を出した状態で上半身を着替え、下半身はトイレ後に横になってから着替える事をしばらくの間していました。これは、自分で考えたケアのやり方です。

 11月10日(金)ヘルパーさんが陰洗ケアの時に「これ本当に大丈夫ですか?」と言い、私は心の中で(これはこういう手術なんです、失敗ではありません)と笑っていました。この日は1日朝晩円座を敷き、座って食事を摂りました。ヘルパーさんが陰洗の時に傷口を見て、「褥瘡の悪化している状態、紫とピンクだよ」と教えてくれました。この頃は傷口直径5~6センチで肉が1~2センチえぐれていました。まだまだ油断ができない状況でした。

 11月11日(土)痛みは徐々に下降線になってきたが、でも痛い。陰洗ケアの時にキャーーと大声で言われ「怖いお化け屋敷みたいでグロテスクよ、本当に大丈夫?」と皆が心配しています。この頃から傷口のじゅくじゅくが取れてきて乾いた感じになりましたが、まだ汁がたっぷりと出ていました。でも痔ろうは傷口を縫ってはいけない。開放して全部汚いものを出さなければ治らない。肉をえぐり取り、肉が盛り上がってくるのを待つしかない。この状況を体験できるのは今だけなので、携帯で撮って写真をFacebookに上げた。みんなドン引きだろう。みんなから「びっくりした!」「大丈夫?」「お大事に」とあたたかいメッセージをもらいました。大人用のオムツが離せなく、この年になって赤ちゃんみたいな生活をしていました。長くは座れず起きたり横になったりの繰り返しで、思うように動けませんでした。

 11月12日(日)今日から訪問マッサージを再開しました。先生に痔ろうの手術の件を伝えたら、ドン引きをされ、「痛い?」と聞かれましたが、肉が無いのだから痛いに決まっているって思います。先生も面白いな。周りの方々が色んな反応を示し面白く、日常生活を送っています。まだ痛みはあるものの、普通に暮らしていることに感謝。次の検診まで何事も起きずに、生活を出来たらと切に願っています。

 11月13日(月)今日は朝から傷口がそれほど痛くない。でも座ったり動いたりするとチクチクと痛む。少し硬い便をすると肛門から少し出血します。久しぶりに姉と甥っ子に我が家で会いました。「おばちゃんお尻に穴が開いているんだよ」と教えるとそっけない態度で「知ってる」と言われてしまいました。おばちゃん的には2度の手術をしてやっとここまできたのだから感動的に「良かったねおめでとうー」と言って欲しかったです。それどころかクリスマスが近いので,甥っ子におねだりをされておいおいと思いました。現金なやつ。家族と言うのはこんなものなのかと感じました。姉に「具合はどう?」と聞かれ「穴が開いててえぐれている状態なの」と伝えると「痛くないの?今からその年で肛門を悪くしていたら年取った時に人工肛門になっちゃうよ」と言われてしまいました。肛門を悪くしたのは6歳の頃から。ずーと今まで排便の時に何となく痛く、高校生の時に口から便を出したい時がありました。それから近所の総合病院で診てもらい、薬をもらっていたが改善しませんでした。それから10年位経って、便をすると肛門が切れイボが出来、その繰り返し悪化の一途を辿っていました。なんとかしなければと思いつつ、たかが痔と思い受診することを避けていました。小学校低学年からおならが出にくく、腹痛に襲われて痛くてたまらなく、転がり回った事があります。また、胃の下の小腸辺りが痛くなり、突然座った格好から寝転んでお腹を伸ばすと突っ張り感があり、痛みに襲われることがありました。これは大人になってもたまにこういう事があります。4~5年前から食あたりでもないのに冷や汗をかいて、トイレに行くとたまに下痢便が出ることがありました。最近はこういう事はありませんが、いつこういう事が起きるかわかりません。何せ幼い頃から大腸に関しては様々な症状に悩まされていました。30代になってY病院に出会い、診察を受け、薬をもらい症状は改善しましたが痔は治らず、母は私の肛門を見るたびに「花びらが何枚も付いていてこれでいいのかしら」といつも言っていました。通院の時に「手術をしましょう」と言われた事は1度もなく、私も先生に言われなかったのでほっといてしまいました。それから4,5年後に痔ろうという病に侵されるとは夢にも思ってもいませんでした。痔主になって34年。もっと早く真面目に通院して手術を受けていたらこんな事にはならなかったなと後悔しています。痔ろうは免疫力が低下している時になんらかの形で肛門に入ってはいけない菌が入り、トンネルを作ってしまうそうです。原因は下痢が多いそうですが心当たりがありません。車椅子に座っている事が多く肛門を人一倍痛め付けたのは事実で、考えるとしたら性格的な問題と体に優しくない生活を送り続けてきた流れの蓄積がこの結果になったと思います。10代、20代と車椅子に乗っては朝から晩まで遊びに出かけて夜中に帰ってくる事が多かったです。今考えればこのことがお尻に大きな影響を与えていると思っています。富士登山、スカイダイビング、スキューバダイビング、ボランティアさんと夜中まで飲み歩いて恵比寿から渋谷まで酔っぱらって歩いたこともありました。そこから電車に乗って、自宅に帰ってきたのが午前様という並外れた遊び方をしていたので、人よりお尻を酷使した為、すっかり痔が悪化してしまいました。皆さんも気を付けて下さい。このままの生活態度をしていたらいけないと神様が試練を与えて、もうそろそろおとなしく生活をしていきなさいということなのかなと思いました。若い時は何でもやってみたい気持ちの方が多く、歳を取り何十年後に病を抱えることなんてこれっぽっちも考えてみませんでした。もし、タイムスリップができたら若い自分に会って、「数十年後にこうなるよ。健康の事を考えなさい」と伝えたいです。これは障害あるなしに関わらず、誰もが病に侵された時に思うはずです。母が私の傷口をしげしげ見たら「肛門まで裂けている」と今さら言っています。手術が終わって先生から説明を受けたはずなのに理解ができていない事が多いです。

 11月15日(水)この頃からヘルパーさんから「あら、少し良くなってきたんじゃない?」と言われ始めてきました。母に聞くと「いつも覗いているけど変わりが分からないよ。なぜならまだ肉が丸見えでえぐれている状態が続いているよ。」と言われました。たまに見るヘルパーさんの方が変化を見つけやすいと思います。傷口は乾きつつあって、少し小さくなってきたとの事。喜ばしい事です。最近の悩みは、排便時の痛み。これは1回目の手術で肛門の痔の手術を受けた時に出ている箇所を切り取ってもらいましたが、その手術がうまくいかず、へこみませんでした。それで2回目も出ている箇所を切り取りました。そのせいで肛門は2回手術を受けました。先が赤く排便ではない時さえ痛い。これが私の今の悩みです。じきに治るだろうと考えていますが、その間が痛く、傷口よりか肛門の方が悩みが深いです。「肛門だって2回手術をされて毎日便を出さなくてはいけない役割でいい迷惑よ。肛門の気持ちになりなさい」と母に言われ、思わず笑ってしまいましたが、肛門の気持ちになると「本当にごめんよ」と言いたくなります。いぼを取ったせいで排便に関わらず痛い時があります。下剤を服用し、更に固い便が出た時には出血をするので下剤を足していますが、痔ろうは下痢が大敵なので、毎日便の硬さを見て下剤の量を考えます。これが一番難しい作業です。お尻を拭く時も左側に穴が開いてるので右側から拭くしかありません。トイレに行くたびに苦労をしています。

 11月17日(金)今日もヘルパーさんから「穴が小さくなっていますね」と言われ、母が「小さくなっていますか?」と聞き、喜んでいます。どれくらいの大きさなのか私にはわかりません。母に聞くと、人差し指と親指で丸を作り、「これくらいの大きさよ」と教えてくれましたが、母の親指は外側に変形しているので、丸い穴が楕円形をしています。「そんなに小さいの?」と聞くと、絵に描いて説明をしてくれて、納得しました。ネットで調べてみると、直径が小さくなっていても肉が盛り上がってこない限り、ゴムが取れないので、完治とはいかないとのこと。少しガッカリしました。まだ術後17日目。「治るわけないでしょ」と親とヘルパーさんから言われ、凹みました。「だって痛くないんだも~ん!」とのんきな私。早く治って出かけてみたい。早く完治しないかなぁと待ちに待っています。

 11月20日(月)痛みも落ち着き、朝方に打ち身みたいな痛みがありましたが、すぐに痛みが落ち着きいつものように生活をしていました。汁が今まで大量に毎回出ていて、大人用のオムツまで汚れるくらいの量でしたが、先週の半ばあたりから汁がパットに付くくらいに変わってきました。汁は分泌物なので何とも言えない匂いがあります。なんだこの匂いはと思うくらい自分で感じていました。赤茶色や黄緑やオレンジ色、毎回違って出ていました。3週目に突入して、だんだんと汁が出てこなくなってきました。穴の大きさも小さくなり、紙オムツはそろそろ卒業。下着にパットをあてるだけに変えて行こうかなと思い始めました。母が大人用のオムツを大量に買ったばかりに「使わなかった分のオムツ、どうするのあんた」と言われてしまいましたが、お尻の回復は誰にもわからないので何かで使えばいいと思います。母が「そのうち私が使うわ」と言い出し、笑ってしまいました。今の穴の大きさは計量スプーンの大さじ1杯の深さと母が教えてくれました。夕方からお尻の痛みが違ってきて、もしかしたら円座なしで座れるかもしれないと思いチャレンジしたところ座れました。「これだったら入浴の際に下に座って体を洗えるかもしれない」と母に報告したらビックリして「無理しないで」と言われました。強がりでもなんでもない、なんだか座れそうな気がしました。ものは試しで手術前のお風呂の入り方をしてみたところ、今までの事が嘘のように、本当に穴が開いていてえぐれているのかと思うくらい普通に座れました。実際に母が見て納得してくれました。いくら身近にいて傷口をいつも見ていても痛さは本人しかわからない。パックリと開いていて、傍から見れば痛そうだと思う事は仕方がないと思います。初めて姉に傷口を見せたら「これは痛そう。クレイターみたいだね。これが痔ろうの手術なのね」としげしげと見られなんだか恥ずかしかったです。「身近に痔ろうになった人なんて居ない、私は天然記念物ではない」と言い、二人で笑いました。母に「これなら明日座位保持椅子に乗って食事が摂れるかもしれない」と伝えたらまたまたビックリして首をかしげていました。「まだ術後3週間で大丈夫なの?」と言われましたが、根拠のない自信がありました。

 11月21日(火)昨夜「座位保持椅子に座ってみたい」と伝えたら、起きたら座位保持椅子がありました。いつものように起き上がる事ができ、着替えをしていよいよ座位保持椅子に乗りました。痛みは若干ありましたが、気にする程でもなく、そのまま食事をし始めました。リハビリもほとんど出来たので、「これだったら病院でリハビリができるかもしれない」と思い、さっそく電話をかけましたが、半年過ぎたので予約が出来ませんでした。折を見て、整形外科の先生に診てもらい、リハビリに通えるように許可を取らなくてはならなくなりました。考えてみれば、1回目の手術から3ヶ月。もう大丈夫だろうと予約を入れると、お尻が腫れてきて膿が出て動けなくなっての繰り返しで、キャンセルをしてばかりでした。やっと回復に向かって「よし、行かれるぞ」と思った時には有効期限が切れていました。物事は順調に行かない事が多い。しょうがないと思い1からやり直す気持ちで整形外科に受診しようかと思います。いよいよ明日1回目の検診です。合格点がもらえるといいなと思うばかり。

 11月22日(水)Y病院に1回目の検診に行きました。先生から「傷のケアは良くできている」と合格点がもらえました。もう出血の心配はないとのことです。安心しました。2、3日前から、どこまで日常生活やリハビリができるかを恐る恐る試していました。先生から「少しでも痛みがあった場合はそこで中断してください」と言われてしまい、1週間に1回のリハビリに通うか考えなきゃいけないなあと思いました。まだトイレ後のケアがあるため、遠出の外出はできないとのこと。あと3,4ヶ月は無理、穴が小さくなっても肉が上がってこないと話にはならないそうです。そう簡単に治らないとの話を聞いてがっかりして帰ってきました。肛門に注入する薬を貰い、これで少し排便が楽になるといいなあと感じました。次回の検診は12月20日(水)、それまで何事もなく順調に回復していることを願うばかりです。まさかこの時点で2日後に緊急受診をする事になるとは夢にも思っていませんでした。

 11月23日(木)今日は雨が降り、寒いせいか何だかお尻がいつもと違う痛みになって、そのうちに落ち着くだろうと思い、普段通りにリハビリを休憩しながらやっていました。痛くなったら横になり、お尻を温かくして圧を抜くことに専念していました。午後から雨が上がり、お尻の痛みも落ち着いたので、自宅から15分程度のホームセンターに買い物に行きました。自宅で1時間半横になっていたので、大丈夫かなと思っていましたが、往復1時間の買い物から帰宅した後に、突然の激痛に襲われてしまいました。まだ、ピンポン玉程の大きさの穴が開いているのに、車椅子に円座を敷かないで乗ってしまったことは大きな間違いだったと思います。気になったのは、前日検診に行った時に傷口に薬を塗られたことでした。今まで薬を塗ったことがなく、毎回お湯でよく洗いパットを付けるだけの生活だったので、いいのかなと思っていました。でも先生がやったことなので大丈夫だろうと思っていました。それが原因なのかはわかりませんが、今まで塗った事がない薬を使用したり、座位保持椅子に乗っての食事、リハビリ、前日の受診のいろんな疲れが重なっていたことは事実です。痔ろうの手術後の注意点の中にも、疲れや寝不足、便秘、下痢は大敵で極力避けて下さいと記入してありました。自分の中で、傷口が小さくなって痛みが落ち着き、少しずつ元の生活に戻そうと頑張っていました。それが午後になり、どんどん痛みが強くなって行き、少し疲れてるのかなと思っていました。ところが、寒気と頭痛に襲われて、これはただごとではないと思い、痛み止めを服用しました。1回目の受診をした際に「少しでも痛みがあったら休みなさい」と先生から言われた事を、母が真に受けているのでないかと疑問に思っていました。お風呂の洗い場で、お尻が痛くて座っていられず、お風呂上がりに傷口を見たら、直径10センチ位腫れあがり、穴が見えなくなってしまいました。気が動転した母は、翌日病院に行く為に介護タクシーに連絡しましたが、受診する時間が決まっていなく、介護タクシーの予約は取れませんでした。予約を取り、病院に行く時間が決まり次第連絡をする事になりました。この日の夜は、お尻の痛みと翌日の病院に行く段取りの事や、このお尻の症状の不安で親子共々眠れない夜を過ごしました。

 11月24日(金)朝起きると、パッド3分の1が汁だらけになっていました。昨日の転げまわるほどの痛みではなくなっていましたが、座るとお尻にしこりみたいなものが当たって、円座を敷いて朝食を摂りました。熱を計ると35度台に下がっていました。膿が出たせいで熱が下がりましたが、まだ出そうな気がしてたまりません。朝食を食べ終わると、病院に連絡し、昨夜と今日現在のお尻の状況を説明すると、先生に「1日で穴が塞がる事は絶対にありません、信じられません、事例がありません。」と言われました。とにかく「今日は受診して下さい」と言われ、昨日母が介護タクシーに連絡をしていたので、正式な時間を伝え、ヘルパーさんに30分早く来てもらえるよう依頼し、大忙しの朝を終えました。赤みが引いたが腫れが残って痛い。痛み止めを時間を見ながら服用して、ほとんど座位が取れませんでした。介護タクシーが迎えに来て、Y病院に到着し、待ち時間は30分程度で呼ばれました。先生に診てもらうと、「どこが腫れているのですか」と言う感じで、話になりませんでした。横向きだとわからないみたいです。上向きだと、腫れている事はわかるとの事です。これはいつも陰洗ケアの時に、上を向いて足を持ち上げている母が見ている角度です。先生曰く、「表面の回復が早く、中が追い付かないので、穴の奥まで洗ってください。1週間抗生物質を飲んで下さい」と言って、抗生物質を処方されました。母に「とにかく洗う事しかない」と伝えると、ほっとした様子でいつも通りの母に戻りました。穴が小さくなったとはいえ、まだまだ何が起こるか分からない、落とし穴がたくさんあるんだなと感じ、身を引き締めて日常生活を送って行こうと新たに誓いました。この日は痛み止めを4回服用しました。抗生物質も服用し、まだお尻が腫れて痛いですが、よく眠れました。

 11月26日(日)一昨日昨日とお尻の腫れは引かず、痛かったのですが、今日は腫れが引き、傷口の周りの肉が少し硬く痛いです。傷口は、「また少し小さくなった」と言われましたが、緊急受診をした時に「穴が小さくなっても肉があがってこないと話にならない。表面ばかりの再生が早く、中が追い付かない」と助言を受けたばかりなので、あまり喜べません。少しお尻が良くなったら、座位保持椅子に乗って食事を摂りたいと思っていましたが、母に昨日強制撤去されてしまいました。「しばらくは、おとなしくしていなさい」との事でした。事業所の管理者からメールが届き「一歩ずつですね」と書かれていました。その通りだと思って今までの3日間を反省しているところです。痛くないとついつい動きたくなってしまうところがあり、大丈夫だと思ってしまうので、緊急事態を引き起こすことになります。一つ一つ無理なく日常生活を取り戻せるように、慎重に事を進めたいと考えています。

 11月28日(火)やっと腫れと痛みが引き、痛み止めを服用しなくなりました。かろうじて傷口が開いている状態が続き、いつ穴がなくなってしまうかわからないので油断が出来ません。この事を事業所に連絡しました。とにかく何が起こるか分からない状況で、いつ病院に運ばれるかわからない。こんなの絶対嫌だ。肛門と傷口が繋がっている縫い目が固いので、それが軟らかくなって肉が上がってくればいいなと願うばかりです。ネットで調べてみると、原因は肛門にあるらしいです。難治創といって、肛門の締まりが悪い人や、便通の悪い人がなるらしいです。改善策は、排便コントロールを良くすれば大抵の人は治るらしいですが、まれにどうしても表面だけが治りが早く肉が上がってこない方がいるそうです。その場合、追加手術を行うと記載されていました。それを読んで、もともと便秘症の私にとって心当たりがあり、非常に難しい問題だなあと感じました。ただ、人間は口から食べて肛門から便を出す生き物です。これがかなり難しいと最近感じています。健康な皆さんはお腹が空いたら食事を摂り、便を出したくなったらトイレに行くという簡単な行為ですが、痔ろうの手術を受けてから、便秘や下痢にならない柔らかい便を毎日出す事はすごく難しいことです。食事量と毎日大腸の環境が違うので、それを踏まえて下剤の量をどのくらいにしようかいつも悩んでいます。現在服用している抗生剤は便を柔らかくする作用があります。それを飲むと下痢になってしまうことがしばしばあり、悩みがひとつ増えてしまいました。急にお腹が痛くなってトイレに駆け込むとピーッと出てしまいます。その時に「ああ今日もやってしまった」と頭を抱えてしまいます。この気持ちわかりますか?私は難治創ということを知って良かったなあと思っています。原因がわかっただけでも救いがあります。なんとかいい便を毎日出して、最悪な事態が起こらないように努めていくと決めました。そんな中、両親が、「治りが良くない、もう治らないのではないか」と大騒ぎし、私は「自分の免疫力と体質と排便コントロールの問題だ」と言っても話を聞いてくれないのでイライラしました。これじゃあ治るものも治らなくなってしまう。まだ1ヶ月経っていない。シートン法は早くて2,3ヶ月かかると説明しても話にならない。中からゆっくり肉が上がってくることを待つしかなく、汁が出きって綺麗なお尻になるのには時間がかかります。誰か私の精神的な薬になってくれないかなあと思っているところです。

 12月1日(金)今日で術後1ヶ月を迎えました。傷口は退院してきた時の1/4の大きさになりました。そして今日で抗生剤が終わるという事で、体調も良くなってきたのでまた座位保持椅子に乗って食事を摂る事にしました。家の中で行っているリハビリも増やして、体力をつけているところです。久しぶりに近所の図書館に行き、外の空気を吸いました。やっぱり外はいいなぁと思いました。私なりにどうやったら回復が早いかと考えたところ、好きなことをたくさんして、食べたいものを食べ、ぐっすり眠る、ストレスをためない事だということにたどり着きました。どんな病気になっても、この事は大事だと思います。周囲はあれやっては駄目、これやっては駄目と言って気遣ってくれるのはありがたいのですが、当事者にとってはそれが裏目に出て、精神的にストレスを感じます。それが良くないのです。母は私の顔を見るなり、「早く肉が上がってこないかしら」と言います。そのたびに私は「またかよ~」と言う気持ちになり、これでは治る物も治らないと思い、思い切り自分が今やりたい事をやる、でも体調と相談して、無理をしない、と決めました。この事を母が理解してくれるかはわかりません。今までお風呂上がりにいつも傷口のチェックをしていましたが、私は「それはやめて」と言い、普段通りにパッドをあてるだけと言う行為に変えました。いつかは肉が上がり、治って行くものです。それが早いか遅いかの差だけです。それなのに、早く早くと言われると、ウンザリしてきます。何事も当事者の気持ちを考えて、言葉を選んで欲しいと思っています。私は今まで病気をしてこなかった為、病気を持っている人の気持ちがわかりませんでした。でも、いざ自分が病気になった時に、こういう事は言ってはいけないという事を知り、生活をして行く中でどれだけ自然に振る舞っていくかだなぁと思いました。今まで病気の方に「早く治るといいね」と悪気がなく言ってしまったことに罪悪感がありませんでした。今だったら、他の言葉を選んでその方にお話をすると思います。私が学んだことは、大きい事だなと思い、これも勉強で悪くなかったなと思いました。朗報があります。今日は排便コントロールがうまくいき、水気のない柔らかい便が出たこと。もう一つは、傷口の浅い所に肉が少し乗っかってきた事です。小さい事が大きな喜びになります。生活をしていて当たり前の事が嬉しいんだなとつくづく感じました。

 12月2日(土)今日起きたら傷口がまた小さくなりました。肉は少しだけ上がってきたかなと言う感じで、どんどん上辺だけが再生していきます。これでいいのかと思い、ネットでシートン法を調べていくと、ゴム締めという行為があるそうですが、まだ私はありません。これっていいのか悪いのかと考えてしまいます。これでゴム締めをしたら、穴が完全になくなってしまいます。完治で喜んでよいのでしょうか?多分違います。肉が上がり、ゴム締めを行って、穴がどんどん小さくなって行き、やがてゴムが取れて、完治と言う運びなのかなと頭の中で想像をしています。それを考えると、まだまだなのかなと思います。昨日、ヘルパーさんから、「車椅子だからこそ痔ろうになり、手術を受け、不便を感じている事を書いたら?」と言われ、「ああそうか!」と思い、書いてみようと思います。私は車椅子生活なので、座る事が多いです。傷口があるので体重がかかると傷口や肛門に直接圧がかかり、負担になります。振動が伝わってくると、輪をかけて傷口が擦れ、摩擦が起き、痛くなってきます。私の場合、表面が早い再生なので、小さくなって当たる面積が少なくなり、負担や摩擦が起きにくくなってきました。でもたまに無理をするとチクッと痛みがあり、穴があるんだなぁと実感します。更にゴムが入っているので、座ると何か当たる違和感はあります。困っている事は、傷口から汁が出ており、トイレに行くたびに陰洗行為をしなければならない事です。その事でトイレに行かない範囲の外出だけと言う事になります。また傷口に負担がかかるので、短時間という制限が出てきて、どこかに行きたいなと思いますが、それが出来ない今日この頃です。痔ろうになる前は、続けて6~7時間座りっぱなしで外出をしていて、どんどん痔が悪化をしていったのは事実です。まず、交通機関を使う場合、電車の駅員さんにスロープを頼み、降りたい駅に連絡が取れるまでの時間は約10分~15分程度で、乗車をし、そして駅で降りて目的地に行きます。ベッド付きの車椅子トイレを探すという事は容易な事ではありません。トイレの大きさによって、車椅子が入れなかったり、ベッドの位置が悪かったり、ベッドがなかったりする事が多いので、そんな事をしていたら、傷口や肛門に負担がかかり、痛くなってくるのが目に見えてきます。なので、傷口が治るまでは近場でトイレに行かない時間しか出掛けられないのです。この事は健常者の皆さんにはわからないと思います。でもこれが現実問題です。それに座る事が出来ないのであれば、車椅子に乗る事すら出来ないので、自宅に引きこもるしかありません。これが大きな違いだと思います。でも傷口が小さくなってきた今は、少し車椅子に乗り、短時間外出できるようになりました。しかし半年間、入院手術を繰り返し、思うように動けなかった時間が長かった為、体力が落ちてしまった事は本当です。今は少しずつ自宅でリハビリをして体力を取り戻しています。人間は病気をして社会復帰をするまでに体力をつけたり元のペースに戻すことは大変なんだなと思っています。本当に健康が何よりの宝です。話は変わりますが、術後10日で撮った傷口の写真を先輩に送って、1ヶ月くらいメールの返事がなかったので、気分を害したのかなと思って心配していました。そしてメールが届き、「爆笑しました、ただ忙しかっただけで気分を害したわけではありません」という内容でした。ホッと胸を撫で下ろしました。私は一生のうちにあるかないかの体験をしているので、皆さんにも共有できたらと思い、バックり開いている傷口を見せたかっただけなのです。変わり者でしょうか?何事も楽しく乗り越えていくのがモットーです。母が傷口にお湯をかける時に、まるで神社でお地蔵さまに水をかけるみたいに「早く肉が上がるように」と祈って陰洗をしているそうです。今日も笑いで締めくくりました。私のお尻は地蔵じゃねぇ。

 12月5日(火)朝からお腹が痛く目が覚めました。昨日と引き続き、キュッと締め付ける痛みがあり思わずロキソニンを1回服用しました。左足を動かすと痛い。どうも締め付けるものが無くなり皮膚を引っ張られているようで、下手をするとゴムが取れてしまいそうな感じがする。パットにいつもより濃い汁が付いていました。傷口はゴムとゴムが重なり穴が確認出来ません。痛いのでトイレ以外で起きあがることが出来ません。原因はわからなかったです。慌てて病院に問い合わせましたが、先生が手術のため話すことが出来ませんでした。看護師さんに簡単に事情を説明すると「1度受診をした方が良いと思います、午後、もう1度電話を下さい、先生と話して受診するかどうかを決めて下さい」との事でした。横から母が「もうあんたのお尻は治らない」と怒りまくり、3日の日に短時間外出した事をとても怒っている。1日で皮が再生しゴムが締め付けるものがなくなってしまって、皮を引っ張る痛さが半端ではない。こんなにも痛いものかと思っている。誰か助けてくれと叫びたい。先生から「ゴムが取れても慌てなくてもいいです」とあらかじめ聞いていますが、なんだか取れてしまいそうな感じがします。母は「もう1回手術は嫌だ」と私の顔を見るなり怒鳴る。私だってまっぴらゴメンだ。これは本当に順調なのか首をかしげてしまいます。あっちこっち固くなり膨らんでしまう。ネットで検索しても似た症状が出てこない。やっぱり異常なのか順調なのか判断出来ない。先生によれば「こんなことは起きない」との事で、不安です。先生に問い合わせしたら、言葉ではわからないので、後日受診する事になりました。介護タクシーに連絡や事業所に報告、慌ただしい1日でした。

 12月6日(水)今日は、お尻が痛くなかったので、病院に行きたくない。でも2日間続けてお尻が固く腫れて心配なので、受診する事になりました。母は、もう一度入院するのではないかと不安そうにしていました。病院に行きベッドに移ると、先生がいつものように「どうなさいましたか?」と優しく聞いてくれて、「固くなったり腫れたりするんです、診て下さい」「そうですか。それはちょっとわかりませんね~。でも黒くなっているのは良くなっている証拠ですよ。少し塞がっている部分があるので、そこを切り開きますね。傷口は痔ろうの堀が浅くなっているので、ゴム締めをやります。処置しますね」とゆっくりと優しく言うので、安心をしていました。ところが、ベッドの上でいきなり看護師さん達に体を押さえられて、「少し切りますね」と言われ、肛門近くに入っているゴムの所の縫い目をメスで切り開き、ゴムを引くという事をしました。これが麻酔がないので、激痛に襲われ半泣き状態でギャ~~~!!!と悲鳴を上げてしまう程の物凄い痛さが襲ってきました。本当に涙がポロポロと出てきました。40歳の私が泣くなんて・・・。考えていませんでした。きっと隣の患者さんはビックリしているだろうなぁと思いながら、それどころではない。先生と看護師さんは「はい、終わりました。」と明るい声で言う。(あの~…まだ痛くて車椅子に乗れる状況ではないんですけど~)と心の中で叫んでいました。でもお尻にガーゼを当てて、車椅子にいちにのさんで乗っけられ、痛ってぇのなんの…今日に限って円座がない。そしてこれからタクシーに揺られて帰るって考えただけでぞっとした。もう少し横になっていたいのに、さっさと乗っけられる私の身にもなってくれと心の中で叫んだ。先生はいつもおっとりしていて、言葉もゆっくりで優しい先生。なのになぜあんな痛い事ができるの?そして何事もなかったような顔をして私に、「痔ろうが浅くなっていましたね、良くなっている証拠ですよ。でもね、ゴムが取れないうちは駄目だからね。患部に当たらないように今後は円座を敷いて座ってください。面積は小さくなったから患部に当たる確率は狭くなってきたけど、それでもまだ治っていませんからね。今日は痛み止めを出しておきますね。それでは2週間後の20日にまた来てくださいね」と言われ、診察室から出る私。その間も「痛いよ~~痛いよ~」と叫びまくる。ヘルパーさんはそれを無視して淡々と会計の方に行き、「はい、肛門科だけですね」、と受付の方が言い、処方箋を出してくれました。その間も「痛い~~!!」しか言わない私。ヘルパーさんが「私、薬局へ行って来ます」と言ってくれて、薬を取りに行ってもらい、早速痛み止めを服用しました。でもカバンの中にはお茶が入っていなく、ヘルパーさんが水を探しに行ってくれて、事なきを得ました。良く考えたら、今日は緊急受診で病院に来ました。私はただ異常があるかないか診てもらうだけだと思っていました。ところがどっこい、まさかのゴム締めをやり、今日こんなに痛くなるとは考えていませんでした。世の中は予想外の事が多いですね。今度は病院に行く時はあらかじめ痛み止めを服用してから行くことを決めました。ネットでゴム締めは激痛だと書いてあり、そんなに痛いのかなぁと甘く考えていましたが、本当に激痛でした。これを何度も繰り返すと思うと気が重くなってきました。「何で私はお尻にゴムが入っているのだろう」と考えてしまいます。あの先生、優しいけど怖いと思うようになりました。しばらくこの闘いは続きます。誰か私の代わりになってくれませんか?ゴムを引っ張る時にお尻から何かが出ていく感触と、あの刃物で肉を切られる痛さを考えたら、頭が痛いです。ゴム締めは激痛で涙々の辛い作業になる。でも、ゴムを縮めるという事は、それだけ良くなっているということになります。私は頭の中で、もっと楽しくゴム締めができたらと考えました。例えば、手術前にゴムをなに色がいいのかを聞く。私だったら、カラフルで、1cmずつ色が違うゴムを選んで、ゴム締めの時に、なに色が出てきて、どれだけ縮まったかわかるようにして欲しいなと考えました。例えば、赤・緑・黄色という順番で色がついていれば、今日はなに色かなぁと楽しんでまるでどこかの国の国旗みたいに出てくるといくらか楽しいのではないかと思いました。次に考えたのがBGM。ただ単に切開する、ゴムを引くという事はあまりにも残酷で私にとって厳しいので、手品で流れる音楽を流し、先生や看護師さん達がピエロの格好や着ぐるみで出てきて、引っ張るという事はできないだろうか?と思いました。少しでも恐怖を和らげる工夫を考えた方が良いのではないかと思っています。要は痛みを感じないように軽く皮膚に麻酔を打てば楽だろうなと思います。でも麻酔が使えないのであれば、こういった工夫があってもいいのではないかと考えていました。皆さんどうですか?こんな事を考えるのは私だけでしょうか?でも病院では痛い怖いというのが付きまといます。少しでも患者の立場になってもらいたいし、いかに辛い治療でもやりようによっては気持ちが明るくなります。こういう事を取り入れてもらえたら嬉しいです。と言う事を考えながら、何とか介護タクシーに早く来てくれる様に連絡し、自宅に帰りました。帰宅後、すぐにトイレに行きたかったのですが、行かれる状況ではありません。しばらく横になっていました。トイレに行き、病院であてられていたガーゼを取ると、血が出ていました。私はその血を見てまた悲鳴を上げてしまいました。ヘルパーさんが「だから切ったのを私は見たんです。血が出ていたんです」と説明してくれました。ヘルパーさんも立ち会った中で「痛いだろうな」と考えていたらしいです。「今日は無理しないで下さい」と言う言葉に甘える事にしました。私は痛みに強い方ですが、今回ばかりは根を上げました。母は「あら、帰っていたの?どうだった?」と言い、先生の説明通りに話し、ゴム締めをしたことを伝えると、「あら良かったじゃない」と明るい声で言い、「良かったわ~入院じゃなくて。もう1回入院かと思ったのよ」とのんきに言っていました。私は切られたお尻がまだ痛くてたまらない。「そんなに痛いの?」と聞いてくる。「麻酔がない中で肉を切りゴムを引っ張り出すんだよ」と伝えると、「ふーん、そうなの。」母はまったく私の身になって考えていない。「入院じゃなくて本当に良かった」と胸を撫で下ろしていました。「黒くなっているのは良くなっている証拠だからね」と伝えると、「私は肉が腐ってきているのかと思って心配だったのよ」と母が言っていました。夜に排便をすると、肛門近くを切開したので、固い便が出た時は再び涙。私何か悪い事しました?と言いたくなりました。その光景を見て、母が「なに泣いてるの?」と再びのんきな言い方でした。切ったばかりなので、傷口が痛くてたまらない。でもどのくらい痛いのかは誰にも理解が出来ない。辛い。この日は出血があった為、湯船には浸かる事ができず、シャワーだけにしました。お尻が痛くて座る事ができなかったので、リフトで吊り上げてもらい、シャワーを浴びました。痛い1日でした。1回目のゴム締めは約3センチ位、全部で5センチ出ていて、今後はもっと長くなって行きます。母が「このゴム長いから切りましょう」とまたとんちんかんな事を言っている。「切ったらもう1回手術を受けなくてはいけない」と伝えると、「どうにかならないのかしら~」といつもの母。私は呆れかえる。

 12月7日(木)ゴム締めをやってから1日目の朝を迎えました。汁に血が混じり、良く出るようになりました。今までお尻に違和感があり、ゴムが緩んでいないか母に数日前から聞いていましたが、「ゴムはピンピン張っているから大丈夫よ」と言っていました。しかし自分の中ではあれ?という感覚がありました。便を出す時に今にも取れそうな感じでしたが、今ではそれがない。やっぱりゴム締めは必要だと感じました。午後から母が陰洗ケアで下に敷くペットシートを買いに行った。ホームセンターでペットシートを買ってエレベーターに乗ったら、隣にいたおばあさんが、「あら、お宅ペットを飼っているのね」と話しかけてきたそうです。「ペットはね、世話が大変だし、お金もかかるし、病気したらもっとお金がかかるのよ~、今ね、ペットを飼っていて、捨てちゃう人が多いから、お宅は捨てちゃだめよ」と母に言ったそうです。母は「本当に世話は大変だし病気したらお金がかかるし大変です。私が死ぬまで捨てません」と答えたらしい。そのおばあさんはまさかこのペットシートを人間で障害者の痔ろうの陰洗ケアで使うとは思ってもみないだろう。その話を母から聞いて私はお腹を抱えながら久しぶりに大笑いをし、痛いお尻を揺らしながら笑いが止まりませんでした。私はペットじゃない!母の答えは抜群だと思いました。確かに病気をし、どれだけ世話をかけ、お金をかけているかわかりません。「捨てはしないから大丈夫」と冗談交じりに私に言い、二人大笑いをした1日でした。この日はゴム締めをした翌日だったので、痛み止めを時間時間で飲んで、横になって過ごしていました。感じたことは、痛くないのでいつも通りに座ったら、ゴムの面積が小さくなって当たる確率が低くなり、違和感がなくなり、汁が良く出るようになりました。シートン法は簡単に説明すると、濡れタオルを絞る感じだと思ってください。最初は思い切り絞るとたくさん水が出てきます。それがだんだんきつくなるほど水が少なくなってやがて水分が出なくなります。それと同じ状況なのです。今は中くらいの絞り方で汁が少量出てくる状態です。もっと絞ると汁が徐々に出る量が少なくなってきます。それで肉が上がって勝手にゴムが取れて完治と言う流れです。今の状況は山を越えて小さい谷を越えているところです。少しでも多くの方にこの痔ろうを知ってもらいたく、また携帯で写真を撮ってもらい、Facebookに投稿したり、友達に「こんな状況なの~」と傷口の写真を送っています。そんな事を考える私はバカですか?メールを見た人はビックリすると思います。でも、期間限定なのでこの貴重な体験をみんなにも知ってもらいたいのです。もうすぐ暮れなので、忘年会シーズンに入ります。今の私はかくし芸ができます。アキラ100%の逆バージョンで、傷口のゴムをみんなに見てもらい、笑って欲しいのです。「傷口からこれだけゴムが出てきました~!」とお盆を取って見せて歩きたい気持ちです。傷口をネタにしたら怒られそう…。車椅子で頭は金髪で耳にピアスでお尻にゴムという面白ネタが山ほどあります。天然記念物です。皆さん大いに笑っていただけると嬉しいです。ゴム締めの翌日に先輩からメールが届き「良くなってよかったねえ」と書いてありました。先輩は下半身麻痺なので感覚がないとのこと。私がゴム締めの際にベッドの上で激痛に襲われ、半泣き状態で悲鳴を上げたとメールを前回送ったら、どんな痛みなのか分からないと書いてありました。私はそれを読んで、ゴム締めの時だけ下半身麻痺になってあの激痛の感じから逃れたいと考えました。できることなら、先輩の下半身を借りてゴム締めを行っていきたいなあと思いました。羨ましいです。「どんな痛み?」と書いてあったが、例えようがない程の痛み。いきなりお尻を掴まれて、肉を刃物でスパっと切って、ゴムを勢いよくギュ~~~~~~ッと引っ張る感じはここぞとない痛み。なおかつゴムを引くということは輪をかけてものすごい痛さがやってくる。引っ張る時にお尻から何かが出ていく感じがして、絞るということはこういう感じなんだあ、思いっきりぎゅうううという感じとしか言いようがない。脂汗は出てくるし涙は出てくるし、これから何度も続くと思うと気が遠くなる。よくなっていく過程なので仕方がないのはわかっていますが、せめてゴムが入っているところだけ軽く麻酔を打って欲しい。そうでないとあのゴム締めという作業に耐えられない。ゴムはどんどん外に出てくる。まるでカタツムリの頭みたいになってきている。ヘルパーさんに、「下半身麻痺だと痛みを感じないわけだから、痔ろうになっても気が付かないよね」と言われ、そうだな~と思いました。先輩からの何気ない言葉でしたが、万が一、下半身麻痺の方が痔ろうの手術を受けた場合、その後痛みをどう感じるかを考えさせられました。自立生活センターに行かれなくなったので、四季折々の景色や空気に触れられなくなり、その大事さが分かりました。今まで車椅子でいつも交通機関が大変だなあと思っていました。でも、その交通機関を使う機会がなくなり、あの大変さを味わうこともできません。トイレを探すこともなくなってしまいました。やっぱり外に出て社会に触れ合い関わっていくことの大事さがしみじみと身に染みて実感できました。夜、ドキュメンタリーで救急病院24時という番組を観ていました。いつもだったら、「大変だな、こんな事が起きないと良いな」と思いながら観ているのですが、今年は半年で入院手術を2回経験したので、人ごとではないなとテレビに首ったけになっていました。内容的には、本当に大変なものでしたが、私は痔ろうの手術をしたので、手術場面が出てくると、フラッシュバックしてしまい、なかなか辛いものがありました。今でもたまに1回目の手術と2回目の手術の光景が夢の中に出てきます。「今から手術を始めます」と先生が手術着を着てマスクをして、何とも言えない雰囲気の中で行われるあの様子が忘れられません。自分の心電図がピコピコと動き出し、手には点滴、口と鼻には麻酔をかけるマスクをつけられる。ある意味もう手術は慣れてしまいましたが、やはり怖いものがあります。あの光景は自分の中で忘れられないと思います。それが突然事故に巻き込まれ、入院手術となったら、気が動転してしまう患者さんの気持ちやご家族の気持ちが痛いほどわかりました。私は生死に関係ない痔ろうの手術で、1回目は痔ろうと診断されないまま手術を行われ、治らない苛立ちと先の見えない不安を抱えて、3ヶ月後に痔ろうと診断されて、痛い思いを経験しました。その中でやっぱり今回もうまくいかなかったらどうしようという思いが正直ありました。今でも順調とは言え、1度目の失敗を経験しているので、不安はあります。小さな体の異変にもこれからは気を付けようと思います。でも事故は気を付けていてもいつ何時巻き込まれるかわかりません。テレビをこんなに真剣に見たのは初めてでした。人間、何が起こるか分かりません。2017年は病気の方や病院に密着して関わっていく中で、色んな事が分かりました。テレビを観ながら生と死で闘う患者さんや、医療関係者の姿を見て、様々な感情がうずまいていました。病院から退院していく患者さんの姿は良かったのですが、命を落とされる患者さんの姿はとてもつらかったです。毎日健康が当たり前のように暮らしてきました。でも、それは毎日の、自分の健康管理が出来ていないと健康には暮らせません。いつ事故に遭うのかもわかりません。私達は毎日奇跡が起きて命を繋いでいるのです。そういう事を考えさせられました。

 12月11日(月)ここで、面白い不思議な話を書こうと思います。穴が開いていていつも汁が出ています。パットをあてて対応しています。その汁が便の臭いがします。特に便意を感じた時に穴から便と同じ色の汁が出てきます。排便後、便が良く出た日は汁も良く出ます。まだ肛門と繋がっているため大腸や便に敏感に穴が反応して、その日の排便状況によって汁の状況が変わってきます。こういう事は痔ろうになってみないとわかりません。毎日便を出すという事はとても大事になってきます。便秘になると傷口にも良くない事が分かってきました。今の状況を説明すると肛門が二つあるのと変わりないかなと思います。私的にそろそろ体力を付けて行きたいので、近所の病院のリハビリを受けたいと考えていますが、母は傷口を見て「まだ早い」と言っています。先生からは許可が出ており、生活に制限がないと説明しても首を縦に振らない。完治まで待っていたら体力が落ち、身体機能も低下し生活に支障が出てきます。だいたい2月位にならないとゴムが取れない。それまで待っていたら動けなくなってしまう。私は強行突破を考えました。整形外科の先生に事情を説明すれば納得してくれるだろうと思っています。少しずつ元の生活に戻していく事が大事な時期に入ってきています。なのに分かってくれない。とにかく体力作りに励むしかない。

12月13日(木)久しぶりに近所の病院まで外出をしました。私の頭の中では2時間程度の外出を予定していました。ところが張り紙を見て14日までは激混みとのことでびっくりしました。年末だからみんな駆け込み受診をしているんだなあと思いました。半年ぶりにリハビリの先生にお会いし、いきさつを簡単に説明すると、お尻にまだゴムが入っている状態といってもピンと来ない感じでした。年明けから少しづつ体力づくりにリハビリに通おうと思っていることを受付に話しに行くと、お世話になっていた先生が私の顔を見てにっこりとしてくださり、うれしかったです。この半年通えなかったけど、しっかり私のことを覚えていてくださり、すごいなあと思いました。眼科の先生や助手さんが出てきて「お尻のほうはどうですか?」と聞かれ、「まだ穴が開いている状態です」と話してもなんだかピンとこない感じでした。心の中で「そりゃそうだよね、自分が痔ろうじゃなかったらシートン法でゴムがお尻に入っていると説明をされてもピンとこない」これが当たり前の反応だと思いました。予定時間を大幅に超え、3時間半くらいになってしまい、あらら~と思いながら帰宅しました。半年ぶりに事業所のサービス提供責任者の方が様子を見に来てくださり、短い時間でしたが自分の今の状況とこれからのしていきたいことを簡単に説明しました。お尻にゴムが入っているのを間近で見て、「まだ時間がかかりそうだね」と言っていました。最低でもあと1、2ヶ月はかかると先生から言われ、覚悟を決めています。「でもこれでも良くなったんだ」と伝えると、「焦らず無理せずゆっくりやっていけば大丈夫だよ」と声をかけられました。今日は久しぶりに元気だった頃にお世話になっていた先生方にお会いでき、今の状況を理解してくださり、とてもいい時間でした。病院が混んでいたのは予定外でしたが、自分を理解してくれる方がいると励みになります。昨日の入浴で湯船に浸かっていた時に、傷口がサンゴかワカメのように泳いでいる感覚がありました。たぶん肉が上がってきているのだと思います。これは私しか感じない嬉しい情報です。さて明日は1月からリハビリを受けるにあたって、整形外科の先生に許可を取る日です。うまくいくといいなあ。最初から欲張らず、調子がいい時に外出をしていって体力をつけていくことが今の私にできることです。それがなかなか難しいんだなあ。でも頑張ります。

 12月14日(木)昨日と引き続き、お尻が痛くないので、近所の病院に行き、1月からリハビリに通う為に整形外科の先生の許可が必要と言う事で、受診しました。診察室に入って行くと、T先生に「何だか大変だったみたいだね」と言われ、私はあらかじめ言いたい事をパソコンで打ってもらった紙を、先生に読んでもらいました。その紙を見て、うっすら笑っていました。私は心の中で、「この半年、3ヶ月ごとに入院し、手術をしたんだ。そのうっすら笑っている事はなんだ」と思っていました。たかが痔ろう、と考えたのだろうか。どれほど私が苦しんできたかわかってんのかぁ~?と思いました。「またリハビリに通いたいんだって~」と先生から言ってきて、「これからリハビリ室に行き、予約を取ってください」との事。待ちに待ったことが出来た!「それではいつから通えますか」と受付の方に聞かれ、「2018年の1月4日から始めたいと思いますので、よろしくお願いします」と言い、急いで会計に行きました。今日は4時間、病院で待っていた時に、ストレッチャーに乗って酸素マスクをつけて通って行く患者さんの姿を見ていると、まるで1ヶ月半前の自分の姿に重なり、何とも言えない気持ちになりました。元気だった頃はストレッチャーに乗っている患者さんが目の前を通っても、「かわいそうだわ、苦しそうね」と思っていたのですが、いざ自分が経験をすると、そんな気持ちになっていられない。自分の事のように思えてしょうがない。恐怖と不安と先の見えない闘い、こうして病気の人は病と闘っているのだと思っていました。4時間は長かったですが、整形外科の先生の許可を得て、2018年1月からリハビリに通う事にこぎつける事ができました。まだまだお尻は治っていませんが、社会復帰の第一歩としてお尻の調子と自分の体力と相談しながら、やって行きたいと思います。

 12月16日(土)2日続けての外出の疲れがまだ尾を引いています。昨日のお風呂の時に、洗い場で座っている事が出来ず、転びそうになりました。今朝も座っている事が出来ず、身体がフラフラしています。ヘルパーさんから、「体力や筋肉を取り戻すには、1年かかるわよ」と言われ、「えー!うそー!」と思い、訪問マッサージさんにもう1回聞くと、「体力や筋肉を戻すには、寝込んでいた倍かかる。1年はかかる」と同じ事を言っていました。半年入退院を繰り返した分、取り戻すには1年と言う大きい年月が必要になるとは思ってもみませんでした。現在の体重は計っておらず、推測で45~6kgという感じです。私が理想としている体重ですが、病で痩せるという事は想定外です。健康的で45~6kgという体重は理想的ですが、抵抗力も落ち、体力も落ち、今外から何か病気を持ってこられたら、すぐに病院送りか、下手をすればあの世行きという感じです。私をご存知の方はこれを読んでさぞ驚かれると思いますが、大げさではありません。本当に台風の風に吹かれたら飛ばされそうでなかなか座位や動きが取れません。このまま行くと寝たきり状態になります。

 12月17日(日)今日は家で毎日続けているリハビリをこなして、午後から美容院に行く姿を母が心配そうに送ってくれました。日曜日と言う事でお客さんが多く、私の髪の毛を切りながらもう一人のお客さんの髪の毛を切るという状況でした。私は長い時間背もたれなしで座る事はかなりエネルギーを使います。でもなんとしても髪を切りたいと思う気持ちが強く、1時間頑張って座っている事ができました。お尻の事で美容院をどうするか考えていました。1度目の手術を終えた時に髪が長くなってしまったのですが、とても車椅子に乗って美容院に行ける状況ではありませんでした。自宅に来てくれる訪問美容院も検討しましたが、やっぱり美容院に行って切ってもらうことが一番いいなと思い、いつでも何時でもやっている美容院をネットで探しました。なんとかカットを無事に終え帰宅し、元気な顔を見て母は安心してニコニコして迎えてくれました。案ずるより産むがやすし。美容院で髪をカットして貰い、家で金髪に染めることが恒例になっています。今回は少し変わった現象がありました。それはおでこの生え際が赤くなってしまい、肌荒れを起こしてしまったのです。今まで髪を染めても肌荒れを起こすことはなかったので、ビックリしました。術後1ヶ月半の体ではまだ免疫力がなく、染め粉に対して肌が負けてしまったのだと思いました。それを見て母が「まだ体が弱っている証拠だ」と言って、心配していました。治らなかったら皮膚科に受診を考えていかなくてはなりませんでした。肌荒れは1日2日で治り、安心しました。髪を染めることも影響してくるなんて考えてもいませんでした。

 12月19日(火)明日は2回目の検診で、今日はいつも行っている陰洗ケアを一時的にやめて、ウエットティッシュで拭いています。何故かというと、痔ろうが浅くなり、傷口の穴が少し開いているくらいでお湯をかけても意味がなくなってきたからです。今は表面ができて菌が入る事はなく、入浴の際に洗えればいいんじゃないかと思いやめました。回復が遅ければ大腸の病気を疑われます。どうやら大腸と痔ろうは密接な関係をしています。平均3,4ヶ月かかる。それ以上かかるとどこかに問題があるとの事で、ネットで調べて行くと次々と色んな事がわかり、先生がシートン法を選んだ事が納得行きます。

 12月20日(水)いよいよ今日は、2回目の検診で朝からゴム締めの事ばかり考えていました。昨夜父に「お尻のゴムは入ったままなのか?」と聞かれ、母が「私も分からない」と言っていました。手術後に先生から説明があったのにも関わらず、高齢の両親は理解が難しいらしいです。ゴムが入ったままだと、一生私は痔ろう人間と言う事になるのに、とんちんかんな事ばかり言って困らせています。自分だけわかっていればと説明を諦めました。ゴム締めは本当に激痛になるので、出かける前に失禁をしないようにトイレに行き、お小水を出し切り、痛み止めを飲みました。そして車椅子に円座を敷いて、準備万端で気合いを入れて病院に向かいました。待合室で待っていると、いつもは流れていないBGMがテンポよく流れて、まるでリングに上がるレスラーの気分だった。名前を呼ばれて看護師さんが毎回ベッドに移乗するのを手伝ってくれます。受診の度に、看護師さんと関わって行く中で、次第に顔見知りになって、手際良く移乗が出来るようになり、お尻の位置を手前に引っ張り、先生が診やすいように介助をしてくれるようになりました。ベッドに移乗すると、あのゴム締めの事を思い出して体がガタガタ震え出しました。ヘルパーさんが、優しく背中を撫でてくれました。ベッドの上で独り言のように「怖いよ~怖いよ~」と言って、先生を待っていました。先生に、「どうですか?」と聞かれ、「痛くないです」と答え、経過報告を読んで傷口を診て、「今日は、ゴム締めから2週間しか経っていないので、ゴム締めはしません」と言われて力が抜けてしまいました。どうやらゴム締めは月1回やって行くことがわかりました。母に通院の様子を伝えると、「ゴム締めをしなくて良かったね」と喜んでいましたが、私はゴム締めをやらなくては一歩前進とはいかず、痛い思いをしなくて良かったのですが、複雑な気持ちでいました。でも、1つ嬉しい事がありました。陰洗ケアが解除になってウェットティッシュで拭くだけでよくなったのです。ゴムを付けたまま年越しになります。何もないお尻になるのはまだまだ先の事です。長い戦いになりますが頑張ろうと思います。

 12月22日(金)相変わらず傷口は小さくなり、凸凹凸凹している。母曰く「人様に見せられるお尻じゃない」と言っています。元々、お尻は人様にさらすものではないと考えています。それは当たり前だろう~と思って笑ってしまいました。母がトイレに行って大をした後に「私は73年肛門を使って来て、一度もリフォームしなくて良かったわ。あんたは40年経って2度もリフォームして大変ね。まだ工事中なのね~」といつもの調子で話していました。私は「しょうがないんだよ。元々肛門と大腸は弱いから」と話をしていると、二人で大笑いして「あんたみたいに痔ろうになりたくないから、肛門は大事にしなくてはね」と言い、最近では反面教師になっています。う~ん・・・悲しい・・・。我が家では最近、「あんたは痔ろうが完治しても、また痔になり、痔ろうという結果になり兼ねない。10年20年経った頃にあんたはストーマ人工肛門になり兼ねない」と母に言われ、話に花が咲く。

私はめんどくさがりやで病院に行く時間があったら他の事に時間を使いたいタイプです。そのせいで、この結果になりました。家族はこの性格を見抜いて「この子すぐに良くなると飛び回ってまた同じことを繰り返す」と言い放っています。自分でも、少々お尻やお腹や体が痛くなっても、病院には行きません。だからまた痔を悪くして、再発をするのではないかと思われてもしょうがないと思っています。よっぽど痛くない限り、病院に行かない性格は治らないと思って、そんな自分が怖いです。「誰か私の性格を変えてくれ~!」と頼みたいです。私も若くない…とわかっているが、つい若いままで「大丈夫だろう」と甘く考え、大事になってしまう事が多いです。みなさんは大丈夫ですか?自分から初期症状で病院に行きますか?痔ろう君は、いつも汁を出しながら、独特の匂いを出します。段々と汁は薄くなって来ました。でも、匂いは取れません。いつも母に「痔ろうの匂いは独特ね~」と言われてしまいます。私も時々、「この匂い何だろう?」と思います。痔ろう君が流した汁は、いつも色が違います。オレンジだったり、薄い緑だったり、赤茶色だったり、不思議です。みなさんもどうですか?と言われてもなりたくありませんよね~。でも貴重な経験ですよ!と言われてもやだよなぁ…。ゴムは1回目のゴム締めで長くなり、いつも母がお尻を拭く度に「このゴムが邪魔なのよ。切りたい」と言ってヒヤヒヤしています。「勝手に切っては駄目だからね!」といつも言って止めていますが、そのうちにやりそうで怖いです。まるでしっぽのようになって動物のようになっています。この経験も意外と楽しいですよ~。しっぽがあるってなかなか味わう事が出来ません。いかがでしょうか?

 12月24日(日)今日はクリスマスイヴ。家にじっとしている事が多く、1月からリハビリに通うので、その前にお尻と体調の良い日に外出して、少しずつ体を慣らして行こうと思いました。そして近所の商店街に外出してクリスマス気分を味わい、美味しい物を食べようと思いました。街の中はクリスマスとお正月に向けて年末という雰囲気だろうなぁと思い、1年はあっという間と感じました。テレビで2017年を振り返るとどんな年でしたかと言う企画があり、とうとうそんな時期になってしまったんだなあと思いました。2017年も清水寺で漢字一文字が選ばれました。「北」という漢字が酉年の2017年の漢字だそうです。私の漢字1文字で表すと「痛」。今年はとにかく痛い思いを沢山しました。2018年こそは痛い思いをせずに健康で暮らしたいとつくづく思っています。

 12月27日(水)ふと入院していた方たちは今頃どうしているのかと時々思い出します。私が便秘で苦しんでいた時おばあちゃんが「大丈夫?」と心配してくれて、励みになったことが忘れられません。共に病と闘った仲なので、戦士のような気持ちがあります。何事もなければいいなと思います。

 12月29日(金)2017年もあと3日になってしまいました。2ヶ月前は台風で、雨の中入院していました。それから2ヶ月が経って、家族で年末を過ごせる事に嬉しさを感じ、2017年はいつもと違う年越しを迎える事に嬉しさが倍増です。何も変わらない事なんですが、病院のベッドの上で年越しする可能性も考えられていたので、それを考えると言葉になりません。2017年を振り返ってみると半年間入院、手術を繰り返し、ベッドの上で過ごすことが多く、窓から外の景色を見たり目の前にマンションがあり「何階まであるんだろう…」と階数を数えたり、太陽が沈むのをぼーっと見たり、2回目の手術の時にストレッチャーで手術室に運ばれる時、窓から秋の青々とした空を見ながら向かった事が忘れられません。1回目の手術の時は全部縫ってあるのに激痛で大変でした。2回目の手術は傷口の肉がえぐれているのにもかかわらずそんなに痛みを感じませんでした。手術方法でこんなにも痛みが違うのかとビックリしました。病院によって様々に環境が違うのにも驚きました。患者さんも人それぞれで、病気は違うけれども部屋が同じということで話しかけられたりした事で段々とお互いに分かってくるものがあったりと、日常生活では味わえない経験を沢山したことがとても勉強になりました。まだ体力や筋力が戻らなくて座っていても倒れてしまったりする事が多く、介助が大変な部分がありますが、徐々に筋力を付けて元の生活が送れるように努力します。前日に外出をしたせいでお疲れ気味です。でも心地がいいです。

 12月31日(日)今日は、術後2ヶ月を迎え大晦日になってしまいました。家族でこの1年頑張って来ました。何気ない事が幸せに感じました。嫌な年はもうケッコー、2018年は、健康に気をつけて楽しく1年を過ごしたいと思います。

 2018年1月1日(月)目が覚めたら朝になって、新しい年が始まりました。痔ろうくんは昨日はおとなしく穏やかでしたが、今日は少し腫れて痛いので痛み止めを服用しました。今日はご機嫌斜めみたいです。お尻にゴムが入ったまま新年を迎えました。お笑い番組を見ながら、お雑煮とお節を食べて年賀状を読んでいます。昨年は入退院を繰り返し、年賀状を作るどころではなかったので年賀メールを送りました。Facebookに新年のご挨拶を書き込みました。いつもと変わりないお正月です。なんとなくゆっくり過ごしています。1日でも早くお尻からゴムが取れて完治となり、何事もなく穏やかでワンダフルな1年を過ごしたいと思っています。今年が良い年でありますように。明日は箱根駅伝です。私は駅伝が好きなので楽しみです。

 1月3日(水)年賀メールを送ってから友達から返事が届き「大丈夫?痔ろう体験記書いているの?普通だったら書く気になれない、すごいね!完成を楽しみにしています。」と書いてあり勇気が出ました。ただで起きない私である。病気をした事がなかったので、みんながまさかと言う感じで驚いている様子が分かりました。みなさんの暖かい気持ちが嬉しく、とても励みになりました。健康に気を付けたいと思います。明日からリハビリが始まります。体力が落ちているので、どこまでできるか不安がありますが、先生と相談をしながらぼちぼちやっていきたいと思っています。

 1月4日(木)今日からリハビリに通うつもりで12月に整形外科を受診して、許可を取りました。昨夜から色んな不安が襲ってきてリハビリに通うのをやめてしまいました。冷静に考えてみると、半年間寝て暮らしてきたので、体力が衰えてこの先リハビリに通える自信がなくなりました。また振り出しに戻りました。アーア。先を見据えて訪問リハビリに移行する事を決断しました。以前、区に訪問リハビリについて相談したことがあったので連絡しました。

 1月5日(金)訪問リハビリを決断して1日が経ちました。昨日問い合わせた訪問リハビリから電話がありました。現在訪問マッサージを受けている中で、訪問リハビリを併用できるのかを疑問に思っていました。ネットで検索をしてみようと思い、調べてみると、何となく訪問マッサージと訪問リハビリを併用できるかなぁという感じです。何でも新しい事を始めようとすると、新たな問題にぶつかり、ひとつひとつクリアしていかなくてはいけないので、それが大変です。まして制度や保険の事を調べて行くと、頭の中がこんがらがって訳が分からない状態になり、本当に利用したいシステムを調べるとなると、周りの人に聞いたり、直接問い合わせたりする事が大事だと思いました。病気をするとすぐに日常生活に戻ることができなくなり、生活自体を見直し、訪問系のサービスを切り替えることは大変な作業です。体力も気力もない中で変えて行かなければならない現実はとてもつらいです。誰か代わりに先頭に立ち、やって欲しいものです。でもゆっくりと考えて、ぼちぼちと前に進めて行きたいなぁと思うこの頃です。

 1月7日(日) 今日の痔ろう君は穏やかでご機嫌で痛みが無くて調子が良い。毎日こうだといいなぁと思います。痔ろう君は毎日体調によっていろんな顔を見せます。便秘で便が出ない時は、穴が大きくなり、便通が良い時は小さくなって、痛みが無い幸せな時が訪れます。でも、この幸せは長く続くことはありません。穴が大きくなり痛い時が来ると、今日はおとなしくしようと思ったり、痛みが無い時は、外に出掛けたりと、お尻次第で毎日が決まってきます。予定を立てていても、その日にならないとわからないことがあり、思うように予定が組めないので、イライラする時があります。後何ヶ月かの我慢なので、頑張ろうと思います。私は、入退院を繰り返してすっかり体力が落ちてしまい、使い物にならなくなり、困っています。重度身体障がい者の痔ろうの手術後のケアは、思っていたより大変なものです。医療関係者からは、「車椅子に座ることが傷口を圧迫して治りが遅くなるため、手術後はおとなしく寝ていなさい」と言われて、傷口が良くなって来ているのにも関わらず、1~2ヶ月経って体が動かなくなってしまいました。それが2度もあり、身体機能が急激に落ちてしまいました。健常者だったら、術後10日くらいで仕事に復帰し、日常生活に支障がありません。私の場合、そう簡単にはいかず、日常生活を取り戻すには時間がかかります。何故かと言うと、私は毎日自宅でやっていたリハビリを休み、病院で行っていた理学療法も休んでしまい、坂を下るような速さで筋力が落ち、体重も減り、食欲もなく、今までできていたことが出来なくなってしまいました。例えば、床に座っていても腹筋が無いのでこてっと倒れてしまい、トイレに行くと自分で身体を支えていられなく不安定になったり、足の筋力も無くなってしまい、誰かに支えてもらいながら立つことすら出来なくなってしまいました。夜、布団が重くて仕方ないです。これも全体的に筋力が無くなり、布団の重みに耐えられなくなってしまった証拠だと思います。取り戻すには、相当な時間をかけながらリハビリをして、筋力をつけなくてはいけないということを知って欲しいと思います。お尻物語を読んでピンと来ない方もいると思いますが、本当にたくさんの人の手を借りており、ケアと日常生活を送るにはいろんな苦労があります。たかが痔ろう、されど痔ろうです。

 1月9日(火)連休明けで訪問リハビリの方と連絡がついて、訪問マッサージと訪問リハビリの併用が出来るとの確認ができました。訪問看護と訪問リハビリの併用は出来ないとの事で一つ勉強になりました。もし先々、訪問看護が必要になった時はまた考えればいいと思いました。私は楽観的な性格なので、流れに沿ったスタイルで生きようがモットーです。くよくよせず笑い飛ばせるのが私の良いところであり悪いところでもあります。話が決まって今日は朝からなんだかんだとやる事があり忙しいです。PTさんに説明をしやすくする為に、パソコンで今までのリハビリの内容や希望などをまとめて印刷し、着々と訪問リハビリに向けて準備に追われています。まだまだ訪問リハビリへの道のりはありますが、へこたれずに前を向いて進めていきます。今日の痔ろう君は穏やかでご機嫌で痛みが無く幸せな一日でした。

 1月10日(水)今日も訪問リハビリの方から事前訪問の日取りを決める連絡がありました。また一歩前進しました。初めて電話でスピーカーホンを使いPTさんの声を聞きました。年齢は40代後半から50代前半の方かなとイメージしながらお話をしました。穏やかで優しそうな感じでこの先生だったら合いそうだと思いました。今までは若かったので病気の「び」の字も考えてこなく、今回初めて入院・手術をしてから外出が出来なくなり自宅にいることが多くなりました。退院してからリハビリを受けられず、どんどん体力が落ちてしまい、回復までに時間がかかるという状況に陥ってから物事を決めていかなくてはなりませんでした。リハビリだけではなく、歯科を2回キャンセルすることになってしまいました。1回目の手術が終わり、半年後に体力が回復して、歯科の受診ができる予定で予約を取った矢先にお尻が腫れ上がり、2回目の手術をすることになり、またキャンセルするハメになってしまいました。まさか2回入院をするという事は全く考えておらず、元気になるものだと思っていました。当然、医師が知識を持ち退院後の予測を立て、どんなケアが必要になり訪問系のサービスがあるか等提示していただけると思っていましたが、ここで思わぬ落とし穴に落ちてしまい全てが狂い始めました。実際には、医師は障害者に対して、自宅に帰ってからどんなケアやサービスが必要になるのか分かっていませんでした。退院後、体がどんどん変化して生活を変えていかなくてはいけなくなり、相談する人もいませんでした。術後の体で福祉サービスを調べて、リハビリ、歯科、内科、美容院という全てを在宅で行う事にせざるを得ませんでした。健常者と違いいろんな背景を持ち、さまざまな生活があるので、入院前にきちんと本人や家族と話し合う時間が大事だと思いました。今回の場合は、誤診も含めて誤算だらけになりましたが、誰に責任があるでしょうか。そして自らどんなケアがあるのか、サービスを知ることの大切さが分かりました。また私は物事を考えたりコミュニケーション能力などはありますが、身体的な障害は日々衰えていく中、お尻にゴムが入り、動く範囲が狭まり、身体能力が落ちていきます。障害によっては自分の病気自体理解できず、お尻が痛い、便が固い柔らかい、これは異常と話せない方もいます。中には半身まひと言うお腹から下の感覚がなく、お尻の痛みを感じる事が難しい方がいます。そういった方がもし痔ろうになった場合、どういうケアが必要になってくるか考えてみて下さい。私は元々積極的に動いて色々と調べていく事が出来ますが、それが難しい方は泣き寝入りをするしかないのですか?私達障害者は病気をした時点でそこでおしまいなのですか?それは不公平だと思います。現在、計画相談事業所という所もあります。相談員さんに話をするのもいいと思いますが、私が伝えたいのは、人に頼らず自分の生活を組み立てていかれるかです。お尻物語を通して、自分がどんなサービスが受けられて、どういう仕組みになっているのか日頃から知っておくことの大事さを伝え書くことにしました。金銭的な問題も大きいと思うので、備えあれば憂いなし、転ばぬ先の杖だと思って、この体験記を反面教師として色んな方に読んでいただけたらと思っています。怪我の功名となり、「あんたはただでは起きないタイプよね」と母が言っていました。幼い頃に学校で「やられたらやり返せ」「泣くな!」という母に育てられてこうなりました。まさに親は子の鏡で、この親にしてこの子ありである。今まで病気に対する考えはありませんでしたが、いざ自分が病気になり、障がい者が入院し治療するという事は、リスクや時間・その後のケアの面でも健常者より多くの労力を必要とするのではないかと実感しました。もう少し国や行政がこの問題について考えてほしいと思います。具体的に挙げると、現在院内のヘルパー制度はコミュニケーション支援で、限られた時間のみ認められていますが、重度障がい者にとって時間を限られては困るのです。話ができても身の回りの事が一切出来ない状態で看護師のみの看護ではとても辛いです。その人の状況に応じて院内にヘルパーが入れる環境を作って欲しいです。先輩と話すこともありますが、院内にヘルパーが入ると個室を指定されるケースがあるそうです。これもおかしいと思いますし、また在宅とは違い、利用者が事業所に払う自己負担金が発生します。この献身的な問題も大きく、今、障がい者団体が声をあげて見直す方向にいるそうですが、どうなるか現時点ではわかりません。(2018年4月から大きく制度が変わり、障害区分6の方は書類無しでも自宅と同様に、院内でヘルパーを使える事になったようです)入院中の事もありますが、退院してからのケアの資源がもっとあればいいと思います。今回私は痔ろうで1ヶ月半トイレ後に陰洗ケアをしなくてはいけませんでした。今の状況から考えるとヘルパーさん1人では陰洗ケアが出来ません。今回、母とヘルパーさんとで協力し合って陰洗ケアができていましたが、これが1人のヘルパーさんだけだったらと考えると厳しい状況になっていたのではないかと思います。また毎日シャワーでお尻を洗わなくてはなりません、果たして毎日お風呂に入る事ができたでしょうか。せめて痔ろうが治るまで毎日お風呂に入る時間と、トイレ後の陰洗ケアが取れるまでヘルパーさん2人と言う事を認めて欲しいと思いました。私が言いたいのは、その病気に応じてヘルパーさんの人数や時間数、訪問看護やリハビリなど、柔軟にサービスを選べて、速やかに受けられるようになればいいなと思います。

 1月11日(木)今日は、久しぶりに短時間の外出をします。初詣に行けなかったので、近所の神社にお参りに行きます。最初に神社で「お尻が早く治りますように。そして2018年が健康でありますように」と神様にお願いをしました。その後におみくじを引いたら中吉だったので、2017年は末吉で散々な目に遭い、2018年は中になったので、少~し良いかなぁと言う感じでした。お詣りが終わった後に区役所に行き、セルフプランの用紙をケースワーカーさんから受け取った時に、「夏生まれなのに今から書くのは大変ではない?お尻の方はどうなったの?」と聞かれ、状況を手短に話しました。「そろそろ計画相談事業所にケアプランを作成してもらったら?」と言われましたが、私はあくまでも自分の生活なので、人に作成をしてもらう事自体がおかしいと思っています。何も知らないケアマネージャーが、プランを立てています。私には人形になってしまう事が目に見えています。あくまでも自分の生活は自分で決めて行く事が大事だと思っています。その話を聞いていよいよ私の住んでいる区も簡単に時間数が取れなくなってきたのかと思うと、「よし、これから闘おう!」というモードに入りました。悪魔の囁きに負けずに頑張ろうと思いました。久しぶりに外に出たので簡単な買い物を済ませて食事をさっと摂り、帰宅しました。ヘルパー不足も深刻になっています。この問題ももっと考えて欲しいです。

 1月12日(金)今日は訪問リハビリのPTさんと顔合わせの日です。この1週間悩みに悩み、自分なりに選択して結論を出しました。訪問リハビリに切り替えるに当たって色んな選択肢があり悩みました。自宅にPTさんが訪問してくださり、初めてお会いしました。会った時の第一印象は以前スピーカーホンで声を聞いた通り、優しそうで穏やかな先生でした。まだ私は両親と同居している為、親のサインが必要と言う事で、母が同席しました。訪問リハビリを始めるに当たって契約が必要になります。その書類の中に、人工呼吸器やカテーテル等記載されている物があり、母は「うちの子は健康なので該当する物がありません」とPTさんに真面目な顔をして言っているのがおかしくなり、笑ってしまいました。パソコンで今まで行ってきたリハビリの内容や希望や改善点などをまとめたプリントを作成し、それを読んでもらい、これからのリハビリの方向性と内容が決まりました。PTさんから「訪問看護指示書を書いてもらえますか?リハビリを始めたいと思います」という言葉につい「今日の午後ヘルパーさんが来るので受診して来ます」と言ってしまいました。午前中のヘルパーさんが帰り、午後のヘルパーさんが来て、簡単にこの1週間の事を伝えて、「これから病院に行くので、先生に伝えたい事をパソコンで打って下さい」とお願いしました。私は病院で先生の前に行くと、緊張して口がパカッと開いたままになり、言葉が出てこなく、言いたい事や伝えたい事が全然先生に伝わらない事があります。なので、あらかじめ文章にまとめて、何をどういう順番で書いたら分かりやすいか伝わるかを考えていつも作成しています。そうしないと頭の中で順番があべこべになって、「この人何が言いたいのかわからない」と言われるので、そこの所を気を付けています。1時間で文章を作る事になり、「ああ、そうか、出来るかなぁ」と不安でしたが、動揺しながらも言いたい事をまとめていき、ヘルパーさんと一緒にこの文章でおかしくないか、伝わるかを確認していました。余裕で文章を作成する事が出来て、本当に良かったと思いました。無事に病院に行き、先生にプリントを読んでもらい、指示書を取る事が出来、リハビリをする事が出来るようになりました。災い転じて福となす。

 1月14日(日)やっと肩の荷が下りて気持ち的に楽になり、もぬけの殻状態です。最近の痔ろうは、便以外独特な匂いが無くなってきたと母と話しています。汁も徐々に減ってきて、中が綺麗になり肉が上がり穴が閉じれば完治となりますが、まだまだ5ミリから7ミリ位の穴が開き、ゴムは親指と人差し指で作ったOKサイン位の大きさです。先月1回目のゴム締めで約3,4㎝縮まり、1月24日(水)の受診でどれだけゴムが締められるかにかかっています。今肛門のすぐ横に痔ろうがあります、ゴム締めをした時には臀部の方にありましたが、日にちが経つにつれてゴムが肛門の方に引っ張られて移動をしてきました。なんとも不思議です。それに穴が突然無くなったり、また7ミリくらいの穴が開きだし中から汁が出てきました。最初の頃は穴がなくなったり痛くなったりすると大騒ぎをしていましたが、徐々に痔ろうと言うものが分かり、自然に任せて痛くなったら痛み止めを飲みおとなしくする事を学習しました。結構楽しく毎日を過ごせるようになってきました。2度の入退院を繰り返して歯科に通えなくなり、ヘルパーさんと訪問歯科について調べました。電話をすると顔合わせの日が決まりました。

 1月19日(金)今日から訪問リハビリが始まりました。

訪問リハビリを使うことになって「便利な制度があるんだな」と親子で喜んでいました。先生も穏やかで優しい方なので安心しました。期待していた訪問歯科と合わず、他の訪問歯科に連絡をしました。検診の日が近づき、ゴム締めをする前に今のお尻の状態を携帯のカメラで撮影しました。傷口と肛門がくっつきそうな近さで、肛門からゴムが出ている感じでなんだか気持ち悪かったです。

 1月23日(火)大雪から一夜明け外は雪国状態です。昨夜は暖房が付いているにも関わらず寒かったです。今朝も冷え込みが厳しく暖房器具が放せません。いよいよ明日は検診の日で恐怖の2回目のゴム締めがあります。お尻を切ってゴムを引っ張る感じは想像を超える痛さで、1度経験をしているので気が重くなります。でも、ゴム締めをしなければよくなりません。どのくらいゴムが縮まるのか楽しみです。病院に行くのに気合いと痛み止めが必要です。あの痛さが再びくるんだなと思うと嫌な気持ちになりますが、頑張ります。今日もお尻が痛くなくて良かったです。先日、先輩からメールが届き「痔ろうは褥瘡の一種でしょ」と書いてあり、説明が面倒になりメールを無視しました。痔ろうは褥瘡の一種ではありません。痔の最高級で放っておくと穴から便が出てきて最悪の場合痔ろう癌になるとの事です。詳しいことはこの体験記を読んでいただいたらわかると思います。

 1月24日(水)いよいよ今日は検診の日で、2回目のゴム締めをやる日を迎えました。気合いを入れて、段取り通り着々と準備をして、リハビリが終わったら車椅子に円座を敷いてもらいました。帰宅後お尻が痛く食事が摂れない事を考えて、しっかり昼食を摂り、激痛に襲われてもいいように痛み止めを飲み、失禁しないようにトイレに行くことにしました。これでゴム締めをやらなかったら水の泡です。どのくらいゴムが縮まるのか楽しみでもあり、あの恐怖がくるのかと思うと気が重いし、ハラハラドキドキで介護タクシーで病院に向かいました。どうなることやらと心配です。病院につくと患者さんが待っていて、看護師さんたちは忙しそうに駆けずりまわっていました。待っても待っても呼ばれず、1時間後にやっと呼ばれました。ベッドに横になり、いよいよあのゴム締めがくると思い、心臓はドキドキ。気合いを入れて先生が来るのを待っていました。いつものように、優しいゆっくりとした口調で「どうですかぁ~?」と聞かれて、経過報告を先生が読んで、傷の状態を診て「痔ろうは浅くはなっているもののまだまだですね。少しゴムが長くなっているので切り直しましょう」と言われハサミで切ってもらいました。(ゴムは6センチから2センチになりました。)ヘルパーさん曰く、先生が手際良くゴムを縛っていたそうです。2回目のゴム締めをしました。痛み止めを飲んで気合いを入れて痛さに負けないぞと思ったら、2回目は軽く表面を切りちょっと引っ張る感じで激痛まではいきませんでしたが、チクッとした痛みが徐々に襲ってきてやっぱり痛かったです。帰宅後トイレに行くとパットに1滴くらいの血がついていました。夜、母に傷口を見てもらったら1㎝いくかいかないかのゴム締めで12月とほぼ変わらない状態で「このままのペースでいくと半年くらいかかりそうだね」と話していました。気が遠くなります。その夜はシャワーのお湯がお尻にかかるとヒリヒリとした痛みがあり、ネットで吊り上げたまま頭と体を洗い、お湯に浸かる事が出来ませんでした。シャワーを浴びてから体が冷え切り、寒かったです。風邪を引きそうでした。先生と話し合い、お尻が治ったら大腸の検査や定期検診に行く事になりました。再発防止に努めます。まずは、完治です。

 1月25日(木)朝からお尻がヒリヒリと痛く、痛み止めを飲みました。いつものリハビリは軽くやり、痛みがきたら横になるという生活をしました。円座が離せない1日でした。後何回ゴム締めをするのか分かりません。早く良くなりたいものです。まだまだかかりそうです。夜は痛みが引いて、湯船に浸かる事が出来ました。洗い場も普段通りにお尻をついて座る事が出来ました。当たり前の事が嬉しいです。自分なりに痔ろうの付き合い方が分かってきたので、決して無理はせず、楽しく治療を受けています。痔ろう君は今日もご機嫌です。2回目のゴム締めをしてゴムを切ってスッキリしたお尻を見てみたいと思い、携帯で撮影しました。ゴムは半分になっていて、左側の肛門からゴムが入っている方に1cm位の切れ目が入っていて、傷口が引き攣れて何だか気持ち悪いなぁと思いました。毎回携帯で撮影したお尻の写真をパソコンに送り、USBに保存しています。記念に残そうと思っています。最近ニュースで病気の体験談や傷口の写真を規制すると流れました。私の場合、身体障がい者で痔ろうを患いました。この事を多くの方に知ってもらおうと毎日ヘルパーさんにパソコンで打ってもらっています。治り方には個人差があり、そういうのを無くそうとする世の中がおかしいと思います。傷口の写真の規制は仕方がないと思いますが、体験談は許して欲しいと思っています。どうか、この体験談が規制の一部にならないようにと願うばかりです。

 1月27日(土)ゴム締めから3日目の朝を迎えました。長かったゴムを切られてしまい、お尻を拭きやすくなったし、座りやすくなりましたが、しっぽがなくなってしまい淋しいです。ネズミのしっぽから豚のしっぽの長さになってしまいました。ゴムが入っている事が最近当たり前のようになっていて、親子で痔ろう君と呼んでいます。常に痔ろう君はお尻にくっついていて、「恋人のようね」と母が笑っています。

 1月28日(日)ゴム締めをしてから4日目が経ちました。1回目のゴム締めは激痛で4日目には落ち着きましたが、2回目のゴム締めはちょっと引っ張っただけなのに4日経ってもなんとなく痛いかなあという感じで、痔になっているような痛みに襲われています。お昼のニュースで白根山が噴火して火口が映ったときに、細長い楕円形の形をしているのを見て「あ!あれ?どこかで見たような形だ!」と思ったら、私の現在の傷口と肛門の間がまさに火口状態で「あら!私のお尻が映っているー」と思ってニュースを見ていました。よく母が「あんたのお尻は火口よー」と言っていましたが、携帯で見た時に「ほんとだー」と思いました。結構楽しく自分のお尻と付き合っています。痔ろうにはなりたくなかったけど、痔ろうになったことでいろいろと勉強したり学んだりしています。しばらくは痔ろうと仲良く付き合っていこうと思います。今日はちょっと気分転換をしています。

 1月29日(月)今日は忙しい一日です。1度目の訪問歯科が合わなかったので新しい訪問歯科と顔合わせをし、今後の治療について話し合いをしました。何事も一進一退です。そんなこんなで明日で術後3ヶ月を迎えます。

 2月2日(金)2回目のゴム締めで肛門の左側を浅く切られたところが、パックリと穴が開いています。そして3日前に、ゴムが入っている場所にまた穴が開き、お尻は穴だらけで痛み止めを飲んで誤魔化しています。

肛門は痔のような痛みが続いています。今日の痛みは術後1ヶ月目の痛みかなぁという感じです。

最近、色んなヘルパーさんに「痔の痛みってどんな痛み?」と聞かれますが、例えるなら、辛い物を食べた翌日の痛み方です。

痔持ちの方はこの痛みはわかると思いますが、痔持ちでない方は「は?」という感じでしょうね。

PTさんとリハビリをしました。ちょっと疲れたかなという感じです。

 2月3日(土)今日もお尻に何となく違和感があり、痛みゼロとはいかないので、痛み止めを飲みました。母曰く、「あなたの肛門は左側が裂けていて引きつっている状態で、肉が赤い。しかもゴムが入っている所に穴が開いているんだから、痛いに決まっている」と言われました。

「普通のお尻じゃないんだから」と言われて、「そうだよな~」と思いました。

近所の眼科を受診してよい先生に出会うことが出来ました。

1月から生活を変えていく事を通して、感じている事があります。

どうして今まで訪問サービスの事を考えなかったんだろうと思っています。

自分がいつまでも元気で過ごす事が当たり前だと思っていました。

なるべく自分の事は自分でやりたかったのですが、手術をして体が変わった為、訪問サービスを利用し、その良さがわかりました。

 2月5日(月)訪問歯科が来て歯のレントゲンを自宅で撮れる事にビックリしました。

夜お風呂上がりに母に傷口を見てもらったら、「ざっくりと開いて直径1,5から2センチくらいの大きさで、まるで手術直後のようになっている」と言われ母子共にびっくりしてしまいました。

深さは谷底だと言っていました。それを見て「あんたまだまだかかるね」と言われてしまいました。

痛みは手術直後と同じようにチクチクとした感じでした。痔ろうは穴が徐々に小さくなっていくのがいいと聞いていますが穴が大きくなるという事はあまりよくありません。

痔ろうが勝手にやっていることなので自然に任せます。

 2月9日(金)昨日は久しぶりに外出をして、気分転換をしてきました。

美容院に行って「ベリーショートでお願いします」と言ったら、男性の雑誌の写真を見せられて、「お客様こんな感じでよろしいでしょうか?」と言われ、「はい」と答えました。

するといきなりバリカンを出されて、サイドを剃られてしまいました。

心の中で、「あの~そこまで言ってませんけど~…まぁいっか。髪の毛はすぐ伸びるし。また行くの大変だし」と思いました。

サイドと後ろを思い切り刈られてしまい、何だか頭が寒いです。

「ベリーショートって言ったけど、ここまではして欲しくなかったなぁ」と思って帰宅すると、母に「なにその頭。刈られてるじゃん。ちょっとやりすぎじゃない?」と同じ事を言われてしまいました。

著者のNatsumi Fukadaさんに人生相談を申込む