亡き父の戦友の眠るガダルカナル島への散骨の旅

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私は、「生き残った親父はどんな思いで生きていたのだろうか」ということに思い馳せた。

「俺の生還は奇跡なんだ」と言う言葉にリアリティが出た。

 

翌日は、アウステン山日本人慰霊碑、激しい戦いの後、

米軍に奪取されたギフ高地「岡部隊奮戦の地」(歩兵第一二四連隊)の慰霊碑に行った。

ギフ高地は、この部落の長のウィリーが案内してくれた。


この地でも、多くの日本兵が命を失い、今も多くの遺骨が眠っている。

二郎もここに来たはずだ。

ここでも散骨し、手を合わせた。

この時期は雨期で湿度は高く、さらに蚊もよってくる。

私たちは初日にフランチェスから、長袖に長ズボンで来るように言われていた。

蚊に刺されるとマラリアになる可能性があると言う。

私は、二郎がガ島でマラリアにかかり、死にそうになったと聞いていた。

 

ギフ高地は、ガ島の全体が見渡せる地だ。

フランチェスとウィリーが遠くの岬を指し、

「あそこが最後、撤退したエスペランサ岬だ」

と言った。そこに辿り着くには、いくつのも山を越え、川を渡る。

丁度この時期は、撤退のはじまった時期である。


この湿度と暑さ、銃や無線機を背負い、食事が支給されなかった。

二郎は、「死の行軍で何人もが餓死した」と言っていた。


ガ島の死者二万人のうち一万五千人が飢餓と病で命を落としたとされている。

「ここを親父は歩いてあそこまでたどり着いたのか。

 五六歳の今の自分なら絶対に無理だが、二〇歳の時の自分でも絶対に行きつかない」

と思った。

 

父は、生きて返られなかった戦友の分も生きて、

日本の復興のために、子孫を残すことを誓ったのであろう。

子どもの頃、まだ、公園等には傷痍軍人がいたが、

二郎は軍歌が聞こえると、その人たちを避けて歩いていた。

許せなかったのだろうか?


これは母が教えてくれた話だが、戦友が家に訪ねてきて、

戦時中の話をしていたが、

途中で帰ってくれと怒って帰したことがあったそうだ。


保険に入ってほしいと戦友が訪ねてきたのだ。


翌年からお盆の一木支隊の集まりに参加しなくなった。


戦友を金儲けに利用しようとしたことが許せなかったようだ。

母は、お父さんらしいよね、と言っていたが、父の気持ちが少し分かった気がした。

 

二郎は戦争の話をする時に涙することはなかった。

しかし、一度だけ淡々と涙をこぼし、その涙を拭うことなく話す二郎を見たことがあった。


ある戦友の話だ。


一緒に祖国の地を踏もうと励まし合っていたが、

彼がどんどん弱っていき、二郎が肩を貸して歩くようになった。

川の水も飲めない。誘惑に負けて川の水を飲んだ者は、下痢で体力を消耗し、死んでいった。

食料はなく、ヤシの実、木の皮などを食べ、泉や雨水で渇きを凌いだ。


ガ島では、歩けなくなると置いて行くか、自決する。


自分のせいで戦友の体力が奪われ、二人とも死んでしまうからだ。


しかし、さすがに親友を置いて行くことはできない。

体力の限界を超えていても、一緒に帰ろうと励まし、肩を貸す。


ある朝、目を覚ますと隣に寝ているはずの親友の姿がない。

もしやと思った瞬間、パーンとピストルの音がした

音の方に行くと、親友が自決していた。

まだ温もり残る上半身を抱き上げ、名前を叫ぶも声も出ず、

「俺を生き残させるため…」と泣き崩れた。

埋めてやることもできず、また歩き出したという。

 

私は、エスペランサ岬までの眼前に拡がるジャングルを見ながら、

「ここのどこかに親友の骨がまだ眠っている。

 いや親友だけではない。多くの兵士が一人静かに眠っている」

と思い、手を合わせた。

 

親友や二郎たちは、志願兵だった。現代では信じられないが、当時、健康で元気な若者は、志願しないという選択ができる風潮ではなかったそうだ。また、学校やニュースなどで、洗脳されるように多くの若者が志願したという。よく二郎は「ガ島で死んだ兵士は、米軍に殺されたんじゃない。大本営に殺されたんだ。国家にとって、俺たちは虫ケラなんだ」と言っていた意味をかみしめた。

だから、靖国神社に行くことを嫌がっていた。誰一人、靖国で会おうなどと言って死んでいた者はいなかったという。全員が家族のことを思って、死んでいったからだ。

二郎は帰国後、直ぐに親友の実家を訪ねている。一体、何を伝えたのだろう? 見事に敵兵に打たれて亡くなったと伝えたであろう。私は、父の親友の名前も覚えていない自分を悔いた。

この話を、私は三人に伝えた。私の目にも涙がこぼれていたが、二郎と同じく涙を拭うことはできなかった。

しばらくして、ウィリーが口を開いた。「未だにジャングル中には多くの遺骨が眠っています。お父さんの親友は、今日、あなたがお父さんを連れてきたことを喜んでいると思いますよ」 

そうであればよいのだが…。今の自分に何ができるのだろう。私は自分の無力さを感じた。

 

次に訪れたのは、日本軍最終撤退地、エスペランサ岬だった。

夜になると、日本兵がどこからともなく現れ、

手漕ぎボートで沖まで行き、停泊している軍艦に乗って帰国したと話す。

二郎の話と全く同じだ。

フランチェンスは、

「ここにお父さんは来て、ここからボートを漕いだ。しばらく海岸にいよう」

と言い、屋台でバナナの皮をお皿にしたランチを買って来た。


静かな青い海だった。

 

食後、フランチェンスがコースにないが連れて行きたい所があると、

海岸沿いのカトリック教会に案内した。


そこには、学校があったが、クリスマス休暇中だった。

私たちを緑色の一棟の建物に連れて行った。

建物の後ろには、小高い丘が二つそびえたっていた。

彼は、

「撤退の時、ここは通過点で夜になると日本兵がどこからともなく出てきたが、

 殆どの兵士は食べていないので、歩くのがやっと。教会は食事を提供した。

 元気な者はエスペランサ岬に向かい、衰弱している者はこの建物で休んで元気になった順に岬に向かう。

 息を引き取った者はシスターたちが丁重に葬った。

 後ろの丘が日本軍の通信兵がいた場所で、そこから全島に無線で連絡して、撤退が成功した。

 お父さんは、あの丘にいたはずだし、ここの食事を食べて帰国したと思う」

と説明した。


私は、二郎が語った二つの話を思い出した。

結婚式の前日に

「お前のお母さんが死んだ時点でお前は独りだ。子どもはお前のものじゃない。

 母親のもの、要は奥さんのものだ。戦争に行ってわかったんだ」

と話してくれた。

もう一つは、孫が保育園に行くようになった頃、

「キナ臭い時代だ。戦争は愚かな行為だ。

 戦争になったら、釣部家末代の恥・非国民と言われても、

 家族を連れて海外や山奥に逃げろ。絶対に戦争に加担するな」

としみじみと話していた。

その時は大袈裟だなと思っていた。

今なら、分かる。

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