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みんながストーリーを持っている

おとうさんの寝言が教えてくれたこと


プロローグ


 満四十七歳。既婚。一子、女児。
 名古屋に単身赴任、十年目。週末には伊勢の家に帰る。
 最近、寝言が激しい。
 昨夜は、
 「片思いやけど、今はもうカッサカサに乾いとるぞ。もう、『カサ想い』やな。ワッハッハ!」
 と、大声で叫んでいたらしい。

 

*  *  *

 

 十四歳になった夏のことでした。
 夜が白々と明け始めた頃、庭にニワトリが迷い込んだと家族が大騒ぎしたことがありました。家のどこからか鳴き声が聞こえてくると、幼稚園に通っていた弟が祖母を呼び、父母を手招き、家中あちこち捜しましたがニワトリはどこにも見あたりません。そして、母が僕を起こしにきてわかったこと、それは中学生だった僕の寝言でした。僕は大声でニワトリの鳴きまねを繰り返していたのです。
 「コケッコー、クックックックッ、コッコ、コケコッコー。」
 今思えば、このときが寝言の遍歴の始まりです。
 学生時代には、合宿をしているときに寝言で号令をかけることがありました。
 明け方、
 「イチッ、ニィ、サン!」
 大号令がかかり、早朝練習が始まったと勘違いした先輩や同期生たちが、薄暗い中、寝ぼけ眼のままモゾモゾとトレーニングウェアに着替え始めます。しかし、実際には僕が眠りながら掛け声をかけていたのでした。そのとき以来、僕の周囲には寝言癖を知らない新入生の床が自然と配置されることとなりました。
 かなり長い時間延々と何かに怒っていることもあります。
 幼児教育について寝言で講演しているときもあります。
 眠りながら歌うことは日常茶飯事であり、歌詞がわからなければハミングをします。
 これらは当の本人にはまったく身に覚えがありません。絶叫する自分の声に時折は目を覚ますことがあるものの、寝言を発した記憶も自覚も本人にはないのです。
 三十歳を過ぎてからは、寝言の予感を感じるようになりました。
 ついていない一日には、胸の中にモヤモヤが残り、今夜はきっと何かを言うに違いないと思うのです。
 結婚してからは妻が寝言の目撃者となりました。
 明らかに眠っている僕が不意にあまりにも思いがけないことを言うので、妻は最初のうちは面白がってよく寝言の話をしました。親戚がテレビ局に勤めているので、いつか何かのネタになるのではないかとメモ用紙と筆記用具を枕元に置いて、僕の寝言を記録するようにもなりました。
 たとえば、寝言でなぞなぞをします。
 「掘っても掘っても出てくるものは何でしょうか?」
 真夜中のことです。
 寝ぼけている最中のメモは読みとれないことが多く、朝起きたときには、僕が面白いことを言っていたとか、ずっと怒っていたとかいうことを覚えてはいても、それがどのような言葉であったかを思い出せないことが多くありました。そして、その多くは家族のささやかな笑い話になりました。

 しかし、その年の暮れ、事態は急速に悪化しました。
 慢性的に寝不足に陥った妻が体調を崩したのです。妻にとってみれば、僕の寝言は安眠を妨げ翌日の仕事にも影響を与える大きな原因でもありました。
 それまでは主に明け方に発症することが多かった寝言ですが、その夜には寝付くなり一時間もしないうちに話し始め、一晩中しゃべっているという状態になりました。しかも、それが年末年始の数日間に渡って続きました。
   ある朝、五歳になったばかりの長女がずいぶん古い歌をうたっているので、なぜそんな歌を知っているのかと尋ねると、
 「おとうさんが寝ているときに歌っとったんやよ。」
 と、言います。
 その頃、NHKの紅白歌合戦への出場が決まった女性グループの歌でした。長女は自分が生まれる前の歌を父の寝言で覚えたのです。
 妻はさすがに面白がってばかりもいられなくなりました。
 「寝ながら話をしているのは見ていて気持ち悪い。」
 とか、
 「これは放っておけん病気なんやよ。」
 とか言い始め、
 「あなたはきっと、十代の頃から熟睡していない。あれだけ夜中にしゃべっていたら、朝起きるときには疲れてしまう。寝起きが悪いのは当然。普通の人はもっと楽に目覚めているはず。」
 妻は訴え、
 「あなたの寝言はほんとうにうるさい。」 
 と、嘆き、
 「日曜日の午後、急に眠くなって、イオンでの買い物途中に、マッサージ機の展示品で寝るのは、きっとどこかが悪い証拠。」
 妻はインターネットで睡眠外来を検索して専門医を探しあてると、僕に通院をするように指図し、僕は言われるままに治療を始めることになりました。
 睡眠外来では、検査入院をしました。
 終夜ポリソムノグラフィー検査という特殊な設備の病室に一晩眠る検査です。脈、血圧、呼吸状態、イビキなどを測定する長いコードの測定機器をいくつも体に取り付け、睡眠中の声を録音し、寝姿を天井から撮影して記録します。
 担当医と共にこのときの動画を見た僕は、はっきりとした口調で眠りながら話をしている自分を知り、見ていて気持ちが悪いと妻が言っていたことを切実に理解しました。その夜の寝言が次々と克明に再現されたのです。
 たとえば、就寝一時間後、
 「アイスクリームを売ってください。」
 真夜中、
 「ファクスを送りましたので。」
 明け方、
 「いえいえ(身振り手振りをまじえ)、どうぞお構いなく。」
 検査入院をしたのは二月のことであり寒中真っ盛りでした。人一倍寒がりの僕には「アイスクリームを売って」とは思いがけない寝言です。その上、壁を叩いたり、歌に合わせて踊っていたり、怒ってコブシを握り締めたりもしていました。
 それ以来、睡眠外来の専門医の治療を実直に続けました。
 その特徴は夢に連動した寝言ではないということ。夢を見て寝言を言っているのではないというのです。 
 平凡な会社員。
 三重県在住。
 痩せもせず、太りもせず、紳士服売り場の吊るしのスーツがピタリと合う典型的な吊るしの体型であり、おしゃれにはまったく興味がなく、相当な下戸。どちらかというと無頓着な性分。
 一見、きわめて健康。
 眠っているときに黙ってさえいれば、ごくありふれた普通の会社員です。
 僕は決して寝言という現象を医学的に解明しようとするものはではありません。新興宗教的な啓示を得ているのだというつもりもありませんし、天賦の才の証だと言うつもりもありません。数々のエピソードがある僕の寝言を妻が記録し、それに対する僕たちの家族の逸話を加えたものです。
 オムニバス形式の小話、それぞれのタイトルが寝言です。
 そして、その寝言はすべて事実です。
 時には絶叫したり、怒ったり、笑ったり、歌ったりしながら、家族をはじめとするまわりの人たちに少なからず影響を与えつつ、眠っている僕が語った夜毎の言葉を書き綴っています。

    ■  □

 「俺は、道の駅になる。」

 結婚し、ひとまわり年下の妻が初めて聞いた寝言は、「俺は、道の駅になる」だった。
  道の駅になると不意に切り出された妻はこの宣言に困惑した。三十歳を過ぎた夫がようやく人生の目標を見出したらしいのだが、その本人はぐっすりと眠っている。掛け布団をあごの下にがっちりとキープして身動ぎもしない。
 心持ち歯を食いしばるようにして眉間をそばだててはいるものの、それまでに何度も見た寝顔であり起きているとはとても思えない。揺さぶってみても反応がない。瞼を手で開いてみてもどんよりとしている。確かに眠っている。
  それでも、
 「道の駅になる。」
    と、間近に聞こえた。
  妻は僕に強烈な寝言癖があることを知った。
 「あんなにしっかりした寝言、初めて聞いたわ。それに、すごい大声。」
 僕は基本的にはっきりと寝言をいう。
 そして、眠りながら叫ぶ。
 思春期に始まり今もなお続いている。
 たいていは覚醒している昼間に不快な出来事が起こったときに発症する。不快であればあるほど絶叫系の寝言となる。まったく自覚症状がなく記憶もない。一人寝では決して気づかないこの状況を、僕は妻との出会いによって再認識することとなった。
 「でも、道の駅になるってどういうこと?何をしたいのか意味がわからへん。」
 妻は言う。
 「自然豊かな農村の道の駅で働きたいとか、道の駅に野菜を卸す専業農家になりたいとかいうことならまだわかるけど。どっちにしても、今みたいに怠けたサラリーマン生活では無理やな。」
 妻とってはよほど衝撃的な出来事だったらしく、この日から枕元にノートを置き、夜中に聞きとることができた寝言をこつこつと書き綴るようになった。
 この日から、十六年間に及ぶ寝言の記録が始まった。

    ■  □

「六人部屋、人生はわからんでなあ。」

   深夜、僕は救急病院に運びこまれた。
   慢性の盲腸炎だった。
 手術前、
   「個室にしますか?六人部屋にしますか?」
   看護師に尋ねられ、激痛に襲われながらも寝言が及ぼす他の患者への影響を配慮し、高額であるとは知りつつも、僕は個室を希望した。
   だが、妻はその手術中に、
   「盲腸くらいでもったいない」
   六人部屋に変えていた。
 翌朝、麻酔から覚めた僕は、個室と思いきや中年男五人に囲まれる病室の壁際にいた。
   見舞いにきた妻は、
   「盲腸は命に別状なし。六人部屋で十分。」
   と、そっけない
   妻は僕の保険を調べていて、
   「入院は初日から全額保障なんやよ。早々と退院したら損。今までずっと  健康で、保険のセールスレディのカモになっとったんやから、こんなときこそ保険のモトをとって。」
   僕は我慢することが基本的に好きではない。
   転職経験も多い。
   動き回っていることをよしとし、家にいても朝から晩まで雑用を見つけてはせわしなく動き回る。じっとしていられない性分のため、妻からは回遊魚と呼ばれることもある。
 何もせずベッドにじっとしていることは苦痛以外の何ものでもない。
   当然、回復が早いと察するや、入院翌日から点滴を引いて歩き、病院をあちこち見て回った。乳児室の赤ん坊の泣き顔を新鮮な気持ちで眺めたり、流動食に飽きてからは食堂行ってうどんを食べたりした。
   三日目には病室を抜け出していて、売店で煙草を買っているところを看護士に見つかり、
   「院長の回診のときくらいは病室にいてください!」
   きつく叱られた。
 五日間の入院生活は僕にとってはとても長かった。
 六人部屋は、そんな僕にとって、心理的にも窮屈だった。
   そのときの小さな反抗心をひきずっていたからか、
   「六人部屋、人生はわからんでなあ。」
   と、退院後に寝言に出たらしい。
   ちなみに、人生はわからないというのは、この入院直前、もうひとつ入っていたガン保険に特約を加えていたおかげで、盲腸にもガン保険が適用され、予想以上に保険金が手に入ったことを言っている。

    ■  □

「奥さん、幼児教育はね、三歳までですよ、三歳まで。」

   幼児教育に関する講演をしていた。
   「奥さん、幼児教育はね、三歳まで。」
   僕は話ベタなので覚醒した状態ではまず考えられない。
   「三歳までですよ。三歳まで。」
   しきりに三歳までと繰り返した。
   結婚して間もない頃のことだったから、近い将来の二世誕生や子育てを想定して、何かを考え、言おうとしていたのかもしれない。
 「ぼんやりした普段の生活からは考えられへんことを、寝ているときには  想像もできんくらい情熱的に言うんやよ。」
   妻は呆れ顔で、
   「寝言で熱弁するくらいに起きているときに仕事したら、もっと出世できると思うし、起きているときと寝ているときのギャップがすごくあるから、この人は一体どういう人なのかなって思う。」
   そして、
   「そやけど、確かに幼児教育は大事なんやろうな。」
 現実主義的な妻は、子供の食事は大切だから料理を習いたいとか、子供が通う幼稚園はどこがよいかとか、新居は市立小学校の学区を考慮するほうがよいなどと将来に向けての想定をあれこれと語るようになった。
 日増しにより具体的なイメージを膨らませた。
   「そのためには今の会社を辞めたらあかんな。ささやかなマイホームを夢見て働くか。」
 結果的に幼児教育の寝言がひとつの推進力となり、仕事をやめようとしていた妻に勤続を促すことになった。

    ■  □

「シュガーとノンシュガーは何が違うんや?」

   僕は大の缶コーヒー好き。一日に五、六本飲む。
 適度に血糖値をあげるときにも缶コーヒーを飲む。糖分を控えるために微糖と決めている。唯一、車を運転するときには眠気を予防するためにブラックを飲む。
   この飲み分けを妻はよく知っていて、戸棚にはディスカウント店でまとめ買いした缶コーヒーが「微糖二対ブラック一」の割合で適度に配分されストックされている。
 「缶コーヒーには大さじ三倍の砂糖が入っとるって。最低でも角砂糖四個。そのほかに甘味料。高校のときに先生に聞いてぞっとしたよ。体に悪い飲み物。」
   妻は言うが僕は一向にひるまない。
   もとより味覚が弱い僕は、微糖とブラックの味の違いがわからなくなることがある。健康を考慮した微糖路線をも無視して甘ったるい缶コーヒーを飲むこともあって、結局、自ら決めた飲み分けはあまり意味がなくなり、どの缶コーヒーでもよくなる。
   インスタントコーヒーであれば砂糖を加減するが、インスタントでさえもつくるのは面倒に感じ敬遠する。
 そして、缶コーヒーに手を伸ばす。
   「今さらシュガーとノンシュガーは何が違うのかと聞かれても困る。しかも、寝言で、やよ。一本あたり三十三円やけど、ガブ飲みするのはどうかと思うけど。」
   「持病もないし、成人病にもなってないよ。」
   「それでも突然じんましんが全身に出たり、夕方になって気持ち悪いって急に寝込んだり、下痢ばっかりしているのは不健康な証拠。普段まったく病院にいかんけど、行くときは救急病院やし。もうちょっと体に気をつかうべき。」
   「結婚しても体型は変わらず。目下、無病息災。」
   「そのうち大病するよ。大体、『無病息災』なんて言うのが間違い。今はひとつ持病があって体に気を使っている人の方が健康的。『一病息災』なんやよ。あなたはきっと寿命が短い。」
   「大丈夫。長生きの家系やから。」
   「そういうところが無頓着なんやわ。それに頑固やし。」
 ガチャガチャとキーボードを叩いて妻はネットサーフィンを始める。こうなると放置するのが一番と、僕は黙って缶コーヒーをガブガブと飲み干す。
   「あなたは動物占いではサル。木を見て森を見ず。」
   そのころはやった占いは、今もなお大筋では当たっている。

    ■  □

「さあ、今から寝言いうぞ!」

 「寝言いうぞ」と言ったとき、僕はすでに寝ていた。「寝言いうぞ」という寝言だった。
 会社の同僚との旅行先での出来事。
   一室五名の相部屋旅行であったため目撃者が多数現れた。
 僕が激しく寝言をいうという噂は、かねてからあったので、
   「とうとう聞いたぞ。」
   「怖い顔をして寝ていたのが、妙におかしい。」
   などと、翌日のバスの中は寝言の話でもちきりとなった。
   そして、会社の同僚からそれぞれの妻へ寝言の話が伝わり、旅行から帰って四日を過ぎた頃には、同僚の妻から僕の妻の耳にも届いた。
   「『寝言いうぞ』って言ったらしいけど、そんな笑い話はもうたくさん。それよりもっと深い別の話がある。」
   どうやら寝言談義から発展して同僚の妻と自分たちの夫について語り合ったらしい。
 「あなたはほんとうに何もかも中途半端すぎ。ストレスがたまると寝言をいうって言うけど、大体ストレスがたまるほど仕事をしてないやんか。」
 にわかに何を言いだすのだろうかと思いつつも黙って聞いていると、
 「あなたは出世せんな。あんたに出世してもらって、わたしはパート仕事になって、もっと自由な時間をつくりたいと思とったけど無理かも。とりあえず目標は会社で偉い人になって給料を上げることやで。今、やっていることで中途半端に終らせずにこれからできることと言ったら、会社の仕事しかないやろう。」
   妻は夕食の洗い物をしつつ、
「生まれてくる子供のことも考えてくれよ。大体、わたしはあなたに何にも買って欲しいって言ったことはないけど、普通、嫁や子供に何か買ってあげようとか思わんか?そのために何かこうしようとか思うことはないのか?そういうこと考えたら、自ずと道は開けてくると思う。」
 僕は子供ができたことを知った。
 「頼むで。おとうさん。」
   この一言が痛く耳にこびりついた。

    ■  □

「親孝行は三歳まで。」

   ぼんやりと目を覚ますと夜はまだ明けていなかった。目覚まし時計を見ると午前五時だった。
   妻がどこからか弱々しく僕を呼んでいる。
 「破水したみたい。病院へ連れてって。」
 予定日より十日早い。
   夫の立会い出産は僕の一存で辞退した。
   「七時に帝王切開をします。それまでは休んでいてください。」
   女は手術室でいきみ、男は廊下で産声が聞こえるのをじっと待つという古い映画のカットバックに僕は洗脳されていたのだが、この時代遅れな美学には妻も以前から同意していた。
 結婚して五年間、子宝には恵まれなかった。
   夫婦共に馬車馬のように忙しく働いていた頃、一度、流産もした。事前の診断では女児。ようやくこの日がきた。
   手術室に見送ってから、どのくらいの時間が過ぎたのかわからない。
   うたた寝をしかけていた僕の前を担架が風を巻いて通り過ぎた。大きくむくんだ妻の顔が目に入った。妻を横たえた担架が病室へ帰っていく。近代的な病院では映画のような劇的な産声は聞こえなかった。僕は慌ててその後を追った。
 「おめでとうございます。赤ちゃんは産湯の真最中ですよ」
   女医が一枚のポラロイド写真とサインペンを手渡した。
   頭が妙にとがった猿のような赤い顔の新生児が映っている。
   「女の子ですよ。赤ちゃんは生まれたときはびっくりするくらい長い頭です。お母さんのお腹から出やすいように長くなります。成長すると自然な形になっていきますから」
   看護師に促され、ポラロイド写真に妻と決めていた子供の名前を書いた。
   写真立てに入れ枕元に置いた。
 「子供には親のわがままを強制したらあかんな。でも、放任してもあかん。きちんと道筋と方向は示すべき。退院したら骨盤治療とウォーキングをやって十五キロ痩せるよ」
 二週間入院している間、僕は週末毎に病院に泊まり妻の決意を聞いた。
   退院前には新生児の入浴の仕方の講習を受け、ようやく我が子を抱いた。
   我が子に過剰な期待しないようにしようというささやかな自戒の念が僕にはあった。子供は幼い頃に両親には充分に可愛さを発揮して親孝行しているのだから、背伸びするような生き方を強制しないようにしたい。
   このことを話すと妻はにこりと新生児の写真に頬笑んだ。
 その夜、
   「親孝行は三歳まで」
   僕の小さな信念が寝言になった。

    ■  □

「飛ぶ鳥、羽を伸ばせず。」

   飛ぶ鳥には、通常、羽を伸ばせる時間がない。
 会社員の僕は、飛ぶ鳥となって異動するとき、あとを濁さないようにするためにとても忙しい。重い書類をダンボールにつめこみ遠慮がちに席を移る。多いときには年に二度、春と秋とに荷物を搬出搬入して腰を痛める。
   自己ベストは年に四回、デスクを移動。
   社歴を重ねるにつれ異動する機会が増え、僕にはますます羽を伸ばせる余地がなくなってきている。
 そして、次第に窓際へと席を移していく。
 「飛ぶ鳥はあとを濁さずって言うけど、あとを濁さずに飛び立てるものかと思う。羽ばたいたら風は巻き起こるし、一羽ならまだしも、群れがいっせいに飛び立ったら、羽毛は落ちるしフンは残るし、結局、どうやっても濁る訳さ。」
 休日の朝陽が眩しい。
   妻が長女を抱く。長女が母乳を口にする。
 「だから何って思うよ。そんなこと、わざわざ寝言で言うこともないし。」
   「石の上にも三年というのもある。石の上ではせいぜい半日。半時間でも足は痛い。石の上で三年も我慢できるはずがない。できるものなら我慢してみろよと思う。」
   「だから、何?」
   「落石注意の標識も納得いかん。注意しようがないやんか。」
   「その話は前にも聞いた。『落石注意は注意できない』やろ?」
   「注意して落石から逃げられるものなら逃げてみろと本心から思う。運転中、不意に落石注意という標識を見かけても、そのとき石が落ちてきたら手遅れやし。」
   「新作はないの?」
   「百聞は一度に聞けない。」
   「それも前に聞いた。」
 長女を囲む時間がゆっくりと流れる。
   だが、父になったという実感がない。
   長女がもう少し成長して、やがて丸い目を見開いて僕を見つめ、僕の言葉に反応して笑うようになれば、そんなあたりまえのことをとても嬉しく思うのだろうかとぼんやりと思う。
 「この子は夜泣きせえへんな。親思いのええ子なんやよ」
   母乳を与える妻が長女の背中を軽くとんとんと叩く。
   長女は小さなゲップをして応え、満足げにまどろんだ。

    ■  □

「馬バウワ!」

   2006年、トリノオリンピック女子フィギュアスケートの荒川静香選手は、レイバック・イナバウアーを披露し、世界中を魅了して金メダリストとなり拍手喝采を浴びた。
   その記憶が時を経てなお鮮烈であり華麗なる演技を賞賛しようとしたのか、イナバウアーを馬が演じている姿を垣間見たのかは明らかではないが、明け方、
   「馬バウワー!」
   と、叫んだ。
 イナバウアーとは、フィギュアスケートの技。
1950年代に活躍した旧西ドイツの女子フィギュアスケーター、イナ・バウアーが開発したこの技は、人間が両足を前後に開き、つま先を180度開いて真横に滑る技であって、四本足の馬が演じるものではない。
   「あんたはテレビに影響されやすいんやから、寝る前には見たらあかんのやよ。オリンピックのダイジェストをハシゴして見るから、寝言を言うんやと思う。」
 子供を産み、母となった妻。
 「テレビに影響された『馬バウワー』のために、家族がみんな安眠を妨げられるんやよ。寝る前にはストレッチをしたり、牛乳を飲んだりしなければ脳が休まりません。子供のことも考えてあんたなりに努力をしてよ。」
   妻は、間違いなく強くなった。

    ■  □

   「ムレない。もれない。かぶれない。そして、かわいい。」

   長女誕生後、週末の日課となった買い物のメインは紙おむつ。
   我が家なりの紙おむつのコンセプトが寝言になった。
   肌触りと吸収力、価格、それに月齢とのマッチングにこだわった紙おむつを妻は買い求める。誕生前から妻は出産に備えてあれこれと買い込んでいたが、在庫が足りないと察するやネット通販の安売りよりも安いスーパーの特売日を狙いにいく。
 肌が弱い低月齢には、かぶれないことを重視。
   動きまわるようになるとフィット感を想定するようになった。
   幼少時にアトピー性皮膚炎に苦しんだ妻は、我が子にアレルギー体質がないことを祈りつつ、口に入れたり肌に触れたりするものには母性を発揮した。特に紙おむは絶対にムレさせることのないように素材をマーケティングし、国産品を厳選。さらに販売店のポイント五倍デーに集中的にまとめ買いした。
   買いだしに行く前の妻はたくましい。
 「今日のテーマは、『ムレない。もれない。かぶれない。そして、かわいい』やよ!」
   妻は基本的に割引がされているものしか買わず、半額商品には目がない。    
   値札が重ねて貼られていると、静かに隅から剥ぎ取って元の値段を確認することもある。食料品売り場では店員が割引シールを貼りにくる時刻とタイミングを熟知していて、そのときをじっと待っていたりする。この妻の現実主義の血筋は、間違いなく長女に引き継がれている。
 長女が満三歳になったときのこと、
   「おかあさんがいっぱいお休みとれたら、ディズニーランドに行きたい?」
   妻が長女に聞くと、
   「ディズニーランドは怖い乗り物がいっぱいあるし、行かなくてもいいよ。」
   長女は答えた。
   「それならどこ行きたいの?」
   「旅館やなあ。あと温泉入れたらいいわ。でも、おかあさんが行きたいとこならどこでもいいよ。」
   長女は屈託がない。
   そして、
   「一番好きなところはどこ?」
   と、尋ねると、
   「イオン。イオンの食料品売り場。試食もできるやろ。」
   僕は三歳にして現実主義的な会話を成立させている長女を寂しく思ったが、妻はなかなか大人びていて将来がとても楽しみであると言っていた。
  
    ■  □

「♪果てしない、あの雲の彼方へ。」

   ずっと忘れていた歌を眠りながら歌う。
   歌詞の記憶があいまいなときもある。たいていの場合は一部間違えていて、それでもそのまま歌い上げる。
   「♪ラララララ、初めてあなたとどこで逢い」
 この歌は、1979年にリリースされた松任谷由美の「帰愁」。
   ラテンアメリカ音楽をとりいれた歌謡ポップスの一節を、僕は若い頃に聞き覚え、それから29年後に突然歌いだした。
   誰の歌かさえ記憶がなく妻のネット調査によって曲名が判明。
   歌詞を覚えていない後半はハミング。
   その年の大晦日。
   紅白歌合戦を観ていた。妻が思わず、
   「まずい。SPEED復活か。」
   と、つぶやいた。
   「♪果てしない あの雲の彼方へ」
 SPEEDが歌う「WHITE LOVE」は、かつての僕のオハコ。
   何となく僕が口ずさんでいると、五歳になった長女が、
   「おとうさん、その歌知っとるよ。」
   「なんで知っとるの?お前が生まれる前の歌やで。」
   「おとうさんが寝ているときに歌っとったんやよ。おとうさんの寝言が教えてくれたこと。」
   と、さりげなく言う。
   掌を空に掲げていく身振りをまじえ、元旦から熱唱が夜毎続いたらしい。添い寝する長女は、この三日間の寝言で歌を覚え、「WHITE LOVE」のメロディを口ずさむようになった。

    ■  □

「おとうさん、また来てね!」

    長女の初めての運動会。この日のことを僕は忘れない。
  運動会の定番「場所取り」は子供と父母に加え祖父母の席をリザーブするための争奪戦となる。早くから陣取るほかの家の父親たちは家族のためのピクニックテーブルを後方にセットし、最前列にはキャプテンチェアを置いて、おもむろにビデオカメラを三脚にセットし待ち構える。
七十名の園児の四倍の家族がその輪を広げている。
 三百名近い父兄のビデオカメラが運動場を取り囲む。
それほどまでの観戦意欲がない僕は来賓席のテントの片隅に小さなビニールシートを敷いた。
 長女が「アララの呪文」を歌い踊る。
   かけっこをする。
   仲間を応援する。
   弁当を広げる時間、窮屈なビニールシートからはみ出した僕の膝上に長女が座る。
   「写真とってあげよ。おとうさんとのツーショットやよ」
   おにぎりを頬張る長女の写真を妻が撮る。
   妻もまた写真にはそれほどのこだわりはない。もとより我が家にはビデオカメラもない。午前中の撮影は、かけっこをする遠目の写真二枚だけだった。
   それでも長女は楽しそうに笑う。
   「お昼からは、おとうさんも出るんやよ。」
  幼稚園は父親が参加するプログラムを用意していた。
   二人三脚でテニスラケットにボールを載せて運ぶ競技だった。
   集合のアナウンスが流れると、ジャージ姿の父親たちが張り切って駆け出していく。
   けれども、僕はしゃかりきになってビデオ撮影をする父親たちとはなじめない上に、親子のふれあいを演出するプログラムには乗り気ではなかった。
 それに加えてその頃はいつになく仕事が忙しく、長女が起きる前に出勤し、眠った後に帰宅していた。深夜に帰ることが日常茶飯となり、出張が立て込んできて、日曜日の夜に出張先へ移動することも多かった。
   週末を返上して働いた。
   長女とは会う間もなく毎日が過ぎていた。僕にとっては睡魔が充満する運動会だった。
 だから、いやいや列に並びに行った。
 ほかの親子は手をつないで整列していた。長女を探すが同じ体操服を着ている幼児が四十人以上いて、どこにいるのかがわからない。
   右往左往していると、列の中程に唇をぐっと噛み締めて泣き顔を耐え、僕を待っている長女がいた。僕がその肩を叩くと、長女はそれまで我慢していたものが一気に噴き出しかのように、わっと声を上げて泣いた。
   先生が何事かと駆け寄った。
   「おとうさんですね?ちゃんと遅れないで来てくださいね。」
   先生は僕の手をぐっとつかんで長女の手を強く握らせ、
   「おとうさんはちゃんときてくれたからね」
   と、長女を励まして列の最後尾に並ばせた。 
   長女は無言のまま競技開始直前まですすり泣いていた。
   二人三脚で走っているときも涙を拭っていた。
   僕はとんでもなく悪いことをしたように感じ、
   「ごめんな。悪かったな。」
   一言だけ言った。

 その運動会の日の夜も、夕食後には早々に着替えを出張カバンに詰め込んだ。
   玄関から出ようとすると、
   「おとうさん。言いたいことがあるんやけど。」
   長女が駆け寄って話きた。
   「どんなこと?言いたいことって何?」
   「あのな、おとうさん。今日は運動会に来てくれてありがとう。」
   長女は屈託なく笑っている。
   黄色い花柄のパジャマが眩しく見える。
   じっとこちらを見ている。
   何かを考えているようだ。
   そして、
   「おとうさん、また来てね!」
   と、言った。
   無邪気な笑顔だった。
 
   出張先へ向かう車中、僕は強い違和感に襲われた。
長女は僕を「おとうさん」として認識をしてはいるものの、その父は家にいるものだとは思っていない。
   無性に寂しくなった。
   しばらくすると泣けてきた。
   その瞬間から、「おとうさん、また来てね」が、頭にこびりついて離れない痛恨の一言となった。

    ■  □

 それからしばらくして事態は急速に悪化しました。
 それまで寝言を発症するのは主に明け方だったのですが、その年の暮れには、寝ついて一時間もしないうちから話し出し、朝方まで断続的に一人しゃべり続けるという状態となったのです。
 「絶対に病気。あなたはどこかが悪い!」
 安眠を害される妻は、もはや黙ってはいられなくなりました。
 クリスマスイブの夜のことでした。長女がサンタクロースを夢見て眠る頃、僕は、急に激しく怒り出したり、足を揺すぶったり、蹴り上げたりしました。手拍子をしたり、仰々しく柏手を打ったりするなど異常行動を繰り返したのです。
 妻はそのたびに目覚め、条件反射のように僕を揺り動かしましたが、僕はぼんやりと薄く目を開けることはあっても覚醒しませんでした。
 「眠りながらずっと怒っているのはあんたを見ていると、気持ちが悪くなるし、いったん静まったって思っても、また何かを言うかもしれんと思うと、どうしても眠れなくなる。」
  僕は、名古屋駅近くの睡眠外来の専門医を訪ねました。

    ■  □

12月26日

 睡眠外来では軽い問診と診断を受けた。
 寝言の原因は多様だと、まず血液を採取した。
 手の指にはさみ夜通し脈拍を測る「パルオキシメーター」という小型精密機器の説明を聞いた。
 その日から夜毎のデータを自宅で一週間とる。
 高額な機器らしく、レンタル契約書への署名を求められ、
 「次回の診察のときに必ず返却してくださいね。」
 看護師に強く言われた。
 年末年始、これで何がわかるのだろうと思いつつ、僕はパルオキシメーターを夜毎装着した。
 次回は来年。
 この日には血液検査の結果が出る。

    ■  □

1月9日

 血液検査の結果は、鉄欠乏性貧血。
 鉄分不足が明らかになった。
 「血液中の酸素が少なく、体が慢性的な酸素不足になっています。鉄分を多く含む食品を摂取することは悪いことではありませんが、薬で鉄分を補充するほうが現実的です。」
 フェルム・カプセルという薬を処方された。
 就寝前に毎日一錠ずつ服用し鉄分不足を補うことにする。
 「鉄の薬です。鉄は黒いです。錠剤服用中は便が真っ黒になることを知っておいてください。鉄分が補充できれば、体内の酸素不足は解消します。」
 無呼吸症候群にも陥っていた。
 「水に潜ってから顔を上げたときのように、ふうっと息をつぐことを眠りながら繰り返しています。」
 息がつまった状態から抜け出したとき、さっと脈拍が上がる。
 パルスオキシメーターは、その瞬間の脈拍を見事にとらえていた。
 「眠っている間に三、四回、無呼吸の状態になっています。重症になると一晩に百回以上、無呼吸の状態に陥ります。軽症のうちに対処しなければなりません。」
 無呼吸症候群は太った人に多いと聞いていたので、中肉中背の典型的な吊るし体型の僕にはまったくの想定外だった。
 さらに、噛み合わせの悪さが指摘された。
 「子供の頃に硬いものをあまり食べなかったようですね。」
 硬いものを食べず下あごが今ひとつ鍛えられていなかったために、アゴの骨格が成育せず今ひとつ噛み合わせが悪い。そのため仰向けに寝ると気道をふさぎ無呼吸に陥りやすい。
 「十歳くらいまでに柔らかいものを多く食べていたためです。」
 僕の幼少時には今のようにキシリトールもフッ素も歯磨き教育もなかった。乳歯はことごとく真っ黒な虫歯になって、幼い子供は歯がないことがあたりまえだった。誰もが発育時に硬いものを食べなかった時代背景もあった。
 鉄分不足。
 無呼吸症候群。
 そして、噛み合わせ。
 これらへの対処療法として当面、リボトリール錠という薬が処方されることになった。
 「てんかんの薬です。眠る二時間前に飲んでください。」
 担当医は言っていたが、このような薬らしい薬を飲んだことのない僕には、おそるべき即効薬となり、その夜は飲んでまもなく長女と入浴中に激しい睡魔に襲われた。
 僕はあやうく浴槽で眠りそうになった。
 長女の水鉄砲攻撃によって半ば覚醒はしたものの、ほとんど意識がない状態となり、ふらつく足どりで早々に寝床に入った。
 しかし、寝言の決定的要因はまだ解明できていない。
 夢に反応しているのか否かによって対処療法が異なると言う。
 「終夜ポリソムノグラフィー検査をお勧めします。」
 夜9時に病院へ行き、翌朝七時まで、眠るだけの検査入院をする。
 眠っている間、赤外線カメラで寝姿を撮影し、呼吸、イビキ、脈、血圧を測定。寝言を克明に録音する。数多くの機器を装着するため眠れないケースも多々あるらしく、そのような場合には軽い催眠剤の投薬もする。オプションで朝食のサービスもあるという。
 僕はその場で検査入院をすることに決めた。
 完治すれば家族の安眠を妨害することもなくなる。
 長女が口ずさむ「WHITE LOVE」が、感傷的に脳裏をかけめぐった。

    ■  □

2月13日

 夜九時。
 いつもの病院とは違う郊外の睡眠医療センター。
 看護師に案内された病室は思いがけなく広かった。
 天井には寝姿を撮影する赤外線カメラ。
 ベッドの後方からも寝姿や寝顔を克明に撮影できるようになっている。
 「機器の装着には三十分ほどかかりますのでね。」
 ベッドの前に立つ僕の前にひざまずき配線を施す。
 鼻の下にはエアフローセンサーと呼ばれる呼吸の状態をみる機器をつけた。
 額には脳波・眼球運動・頤筋筋電図(おとがいきんきんでんず)や睡眠の状態を見るセンサー。
 アゴにはイビキ音を検出するマイク。
 胸には呼吸の状態をみる胸部センサーと腹部センサーを装着。
 さらに機器を満載した頭、顔には電極が夜間はずれないように頭部用の目の粗いストッキングのようなネットをかぶった。首筋あたりからこれらの機器からの配線が巧みに施されて延び、枕もとにとぐろを巻いた。
 「記念に写真を撮ってもらえませんか。」
 冗談まじりに言うと、
 「そう言われる方が多いんですよ。」
 看護師はすぐさま写真を撮ろうとしたが、高い入院代払って、なぜこんな写真をと、妻に酷評される光景が目に浮かび辞退した。
 「機器が気になって眠れないときには、催眠剤も出しますので、ナースコールをどうぞ。検査中にトイレに行きたくなったときも、ご遠慮なくお呼びだしくださいね。」
 看護師は僕にやさしい気遣いをしてくれたが、枕が変わるとよく眠れるというほど無頓着な僕は、その段階ですでに睡魔に襲われていた。
 明日は早々に病院をチェックアウトしなければならない。
 長女と自転車に乗る練習をすることを約束している。
 そのあとは妻をユニクロに連れて行き、イオンで半額狙いの食料品を買い出し、夕食後は長女とトランプをし、風呂上りには家族全員でストレッチ体操をすることになっている。
 平凡な家族の、平凡な週末は割と忙しい

    ■  □

3月13日

 一か月後。
 睡眠外来の診察室。
 「終夜ポリソムノグラフィー検査の結果によれば、あなたの睡眠は、うとうととする第一段階が20%、浅い眠りに入る第二段階が60%。そして、ぐっすり眠っている時間はゼロです。つまり、まったく熟睡していません。睡眠の質が、まったくよくありません」
 担当医が言った。
 「検査入院をしたとき、アイスクリームを売ってくださいと言っていましたよ。」
 「アイスクリームを売ってください、ですか?」
 「一緒に見てみましょう。」
 パソコンの画面に僕の寝顔が映し出された。
 僕は生まれて初めて自分の寝顔を見た。仏頂面である上に妙に力んでいる。
 就寝一時間後の最初の寝言、
 「アイスクリームを売ってください。」
 眠りながら言っている。
 僕は思わず声を上げて笑ってしまった。
  「まだあります。歌っていました。このあたり。」
 鼻歌を歌っていた。
 女性グループSPEEDの「WHITE LOVE」だった。
  僕はやや動揺し始めたが、担当医は表情を変えず、
 「それとこのあたり。就寝三時間後、深夜二時ですが、『ファックスを送りましたので』と言っています。寝返りはあまり見られません。時々、掛けフトンを抱きしめて右に左に揺さぶったりしています。」
 見ているうちに僕は気味が悪くなった。
 妻が寝ながら話をしているのは気持ち悪いとか、放っておけない病気だとか、などと言っていたことを思い出した。
 「このあと壁を叩いたりしていますし、明け方、もう一度、歌を歌っています。ですが、夢は見ていません。夢には連動していませんので、レム睡眠障害ではありません。夢遊病です。」
「夢遊病、ですか?」
 睡眠時の異常行動は、夢遊病。
 重症化すると、眠りながら入浴したり、車を運転しようとしたりするという。
 ただ、僕はそこまで重症化していない。
 当面は睡眠導入剤を服用する。
 そして、しばらく様子を見る。
 無呼吸症候群の前段階、低呼吸については、対処療法として就寝時に着用する専用のマウスピースをつくることに決定した。

    ■  □

6月5日

 「マウスピースの具合はどうですか?」
 担当医が尋ねる。
 僕が、やや不信感を見せつつ、
 「寝ているうちに、いつのまにかはずしてしまいます。口の中がとてもきついので。」
 と、答えると、
 「たいていの人は無意識にははずしてしまうんですよ。」
 それならばマウスピースをつくる意味がないだろうと、こっそりと思う。
 「寝起きはどうですか?目覚めは楽になりましたか?」
 「多少、楽になったように思います。妻が蹴っ飛ばして起こすということも多少なくなりましたよ。ハッハッハ。」
 「フェルム・カプセルはまだありますか?鉄分補給の薬です。」
 「はい、あります。黒い便が出る薬ですね。」
 「リボトリール錠は飲んでいますか?てんかんの薬です。」
 「仕事の前の日に飲むと翌朝は起きられないかもしれませんので、休みの前の日に飲んでいます。よく効く薬ですので、あっという間に眠ってしまいますが、妻に言わせると、『それでも寝言は言っている』ということです。ハッハッハ。」
 「ストレスを解消することも大切です。仕事でストレスを感じることはありますか?」
 「ええ、まあ普通に。」
 「ストレスを解消するためにやっていることはありますか?」
 「いいえ、特に何もしていません。あえて言えば、幼稚園に通っている娘とサッカーするくらいです。それと休みの日に家族そろってのショッピングくらいですね。ウインドウショッピングばかりですが。」
 「最近、ストレスを感じたのは、どういうときですか?」
 「特にこれといって思いあたるものはありません。」
  担当医はカルテに何かをさらさらと書き、
 「今日、もう一度、血液検査をします。もう一ヶ月くらい様子をみましょう。リボトリール錠はまだ残っていますね?」

    ■  □

7月25日

 夏、セミがうるさく鳴いていた。
 日焼けした近所の子供が自転車に乗って行く。まだ自転車に乗れない長女が虫かごと昆虫網を持ってその後を走る。睡眠外来へ向かう僕を追い越して行く。
 通院を始めてから七ヶ月が過ぎた。
 「血液中のフェリチンは正常値になりました。フェリチンとは体内の鉄の貯蔵状態を知ることができる値です。体内に貯蔵された鉄の量が約三倍向上しています。フェルム・カプセルの服用はもう必要ありません。」
 血液の再検査の結果は良好だった。
 鉄欠乏性貧血の要因は著しく改善されていた。
 「寝起きはまだつらいですか?」
 「随分よくなりました。以前は傍目にも苦しそうにフトンから這い出すような状態だったらしいですが、今は普通に起きています。かなり寝ぼけていますが。」
 「無呼吸症候群については、前回の検査入院のときに五回息が止まり、九十五回止まりかけています。もう一度、検査入院をすれば症状がはっきりとします。」
 「いいえ、もういいです。ストッキングを頭からかぶることがトラウマになっていますので。ハッハッハッ。」
 「マウスピースは対処療法でしかありません。外科手術をする方法もあります。レーザーなどを使用して咽頭部を焼いて除去します。病的な症状には特に有効です」
 「いいえ。マウスピースで十分です。そこまで病的ではないし、どうせ夜中にはずしてしまいますから。ハッハッハッ」
 「眠りながら話をしたり歌ったりしていますか?」
 「今は多少おさまっているようですね。」
 寝言は自分には記憶がまったくない言動であるが、面倒になってきて適当に答えた。

    ■  □

 秋になるまで睡眠外来に通いました。
 寝言にはさまざまな原因が想定されるからと血液検査をし、対処療法として鉄分補給を行い、噛み合わせの悪さが原因となっていた軽度の無呼吸症候群を軽減するため専用のマウスピースをつくりました。
 一夜の検査入院もてし、寝言に有効だと考えられるリボトリール錠というてんかんの薬を、
 「眠る二時間前に飲むこと。」
 担当医に指示された通りに、実直に服用しました。
 睡眠外来での七ヶ月余の治療による最大の効果は、鉄分補給により寝起きの悪さが劇的に改善されたことでした。
 しかし、不可解な睡眠中の言動そのものは一時的に改善されたものの、完治にはいたらず、本人の意思に反し再発しています。
 たとえば、
 「絶対減りますように。どうしよう、三年間。」
 眠っているときに急に悩みだしたり、
 「さあ、考えて。三十秒!」
 と、激しく叱咤激励をしたりします。

 演歌からアニメソングなどジャンルを超えて歌ったり、歌詞がわからなければハミングをします。時には一晩中、眠りながら断続的にしゃべり続けることもあります。
 その特徴は、夢に連動した寝言ではないということ。
 脈絡がまったくなく、突発的な言動です。
 睡眠外来の治療によって夫の寝言から解放されると期待していた妻は、ストレスを蓄積し始めました。
 枕元にメモを置き、寝言を記録することもやめ、
 「あなたの寝言はとにかくうるさい。」
 と、怒り、
 「いろいろな歌を勝手にアレンジして、寝言で歌わんといてほしい。」
 訴え、
 「眠りながらいまだにハミングしていることには、特に納得がいかない。」
 と、嘆きます、
 妻はどうしても安眠を得られません。
 そして、妻のみならず六歳になった長女、同居することになった義母、それに出産に備えて実家に戻っていた義理の妹までが、
 「寝言がうるさい」
 口々に言い出すようになり、僕は完治からはむしろ遠ざかったのです。
 そして、四十九歳になった秋。
 僕の体には次々と異変が起こり始めました。
 まず、左頬に腫瘍。
 会社勤めの宿命として残業に追われ、不規則な生活が続き食生活が乱れたため、吹出物ができたと思い放置しておいたところ、一週間ほどで親指の先ほどに肥大化。
 吹出物に詳しい会社の女性社員に相談したりしているちょうどそのとき、家の近くの喫茶店のマスターが、
 「ふくらはぎに何かができた。」
 と、言っている間もなくガンと判明し、その二週間後には死亡するという出来事がありました。
 その噂を聞きつけた妻は、ただちに皮膚科の専門医に行くことを僕に言いつけました。診断の結果、左頬の腫瘍は単に巨大な吹き出物に過ぎず、命にはまったく別状なし。しかも、すでに半ば潰れている状態でした。
 次に扁桃腺の腫れからくる微熱。
 二週間ほど微熱が続きました。朝は鉄分の向上により目は覚めるものの、とても気だるく、昼間も夜もだるさが続き、内科医から処方された抗生物質だけではとても終日は耐え切れず、昼休みにはデスクに突っ伏してうたた寝し、午後には毎日スタミナドリンクを補給。毎夜、九時前には長女よりも先に就寝していました。
 そして、胃にポリープの疑い。
 誰しも一度は経験する内視鏡検査を「痛くないようにやってくれる近所の胃腸科」という基準により選考。一抹の不安を抱えながら、「家庭の医学」という古い本をとり出してポリープを研究。インターネットの最新情報からポリープとガンとは別物であり、ガンとなるおそれはほとんどないことを知りました。
 また、内視鏡は鼻から入れるタイプと口から入れるタイプがあり、鼻から入れる方が楽であるということを人づてに聞き、また別の人からは、そうは言っても口から入れるタイプは腫瘍を検査のときに簡単に切除することができるのでその方がよいと助言され、迷走する日々が続きました。
 検査当日は、薬や麻酔の効きやすい体質のためか、ノドに二度、何かをスプレーされ、麻酔薬を右腕に打たれた瞬間から昏睡状態となり、口から入れたであろう内視鏡の挿入、撮影、機器の撤去をまったく自覚することなく検査が終了。
 その上、「ポリープの疑いなし」という診断結果を聞いても意識が定まらず、安堵することもないまま胃腸科の待合室で小一時間ほど眠っていました。
   「もう少し休んでいかれてから帰ったほうがよいのでは。」
   看護師はアドバイスをしましたが、制止を振り切って朦朧としたままに雨中の路地を果敢に帰宅。
 途中、車に激しくクラクションを鳴らされ、泥水を飛ばされるということがあり、結果的にポリープよりも交通事故のほうがよほどリスキーだったという一日になりました。
 そんなある日のこと、
 「わかった。録音すればいい。」
 妻が言い出します。
  「今は何時間も録音ができるレコーダーがあるし、夜中、枕元にメモを置いていちいち書く手間もなくなるし、そうやわ、録音すればいい。」
 さっそく妻はネットオークションでICレコーダーを検索。
 条件は、音に反応して録音を開始し、音がなければ録音をしないこと。当然、コストパフォーマンスが高いこと。無音の状態での録音により電池を消耗させることなく、翌朝の聞く時間をも省力化すること。あえて言えば、音質にはこだわりステレオ録音と再生ができること。
 ネットオークション歴十二年の妻は、最適な機種を一発落札。
 二日後にはオリンパス社製6,300円のICレコーダーが僕に手渡されました。
 そして、録音された寝言の第一声は、
 「よおーし。スポーツ振興協会だよう!」
 僕はスポーツ振興協会というものとはかつて関係したことがなく、スポーツに関して何かを考えているとか、何かの活動をしているとかいうことはまったくありません。本人にとっても思いがけない寝言でした。
 この一夜には、このほかにも、
 「スクイズと違う?スクイズ」
 「骨盤、OK!」
 得体の知れない発言が克明に録音されました。
 こうしたICレコーダーによる寝言の録音は、より鮮烈な記録を残すことに大きな効果をあげました。
 ここからの寝言は、録音された声をもとに構成しています。
 改築を機に同居することとなった義母や出産を控えた義姉、妻や長女をはじめとするまわりの人たちに少なからず影響を与えつつ、ICレコーダーによる録音を自ら聞き、自ら気づき、新たな発見にもとづく自己分析を加えて書き綴っています。

    ■  □

「掘っても掘っても出てくるものは何でしょうか?」

 その年の最初の寝言は「なぞなぞ」だった。
 年末年始にかけて親戚の子供たちがきて騒がしい家となっていた。子供たちは長女を中心とした「なぞなぞ合戦」を連日繰り広げた。僕はひそかにインターネットで素材を検索しつつ四苦八苦して応戦していた。
 そんなとき、覚醒している間には考えつかなかったなぞなぞを思いついたらしい。
 寝付いて間もないときだった。
 僕が、
 「掘っても掘っても出てくるものは何でしょうか?」
 階下で寝ていた義母は、思わず目を開いて、
 「温泉。」
 洗い物をしていた妻は、
 「土。」
 と、反射的に答えたという。
 さらに翌朝には、
 「掘っても掘っても出てくるものはな~んだ?」
 長女が言う。
 「おとうさんが考えたなぞなぞやろ?おとうさん、答えは何?ばあばは『温泉』って言うし、おかあさんは『土』やって言うんやよ」
 昨夜の寝言を妻から聞いたらしい。
 「さて、答えは何でしょうか?」
 僕が問いかけると、
 「このなぞなどはちょっとむずかしいけど。」
 長女は小首をかしげてしばらく考えていたが、
 「正解は『砂』やと思う。砂場遊びをしてるとき、スコップで掘っても掘っても砂が出てくるから。」
 「スコップで掘っても出てくるか?」
 「そうやよ。だから正解は砂。」
 僕は迷わず、
 「その通り。正解は砂。」
 「やっぱり、そうやよな。そうやと思っとった。」
 長女が満足げコロコロと笑う。
 僕はほのぼのとした瞬間を感じる。
 なぞなぞから家族がひとつになっていき、初めて寝言が報われたようにも思った。

    ■  □

「♪わたしのお腹のなかで。」

 クラシカルクロスオーバーの名曲「千の風になって」を眠りながら歌った。
 勝手に替え歌にし、テノール歌手をまねて熱唱。替え歌を気に入ったらしく、ワッハッハッハと笑った。
   大声で繰り返し歌い高笑いしたために、
   「うるさいなあ。」
   「びっくりするわ、もう。」
   微かに目を開けると家のあちこちから声が聞こえた。
   その夜は出産に備えて義妹が帰ってきていた。
   義妹を訪ねて従妹も来ていた。
   翌朝、
   「寝たと思ったらすぐ。九時くらい。すごい熱唱やったよ」
   義妹は目を丸くし、
   「大声出して疲れませんか?」
   従妹は遠慮がちに尋ねる。
   歯切れの悪い思いを感じて黙っていると、
   「おとうさんはほかにも歌うよ。」
   長女が話の輪を広げる。
   「どんな歌?」
   従妹が聞くと、長女は出番がきたと感じたらしく、
   「♪どぉーかでぇー、だぁーれかがぁー。」
   「木枯らし紋次郎?古くない?」
   七〇年代の時代劇のテーマソング。僕はこの時代劇をあまり見たことはなく意外だった。
   「ほかには?」
   「♪ひゅるり~ひゅるりらら、ふふふ、ふふふふふ~ん。」
   「越冬つばめ?」
   八〇年代の演歌。歌詞を覚えていない後半はハミング。
   「♪あめがあがったよ。おひさまがでてきたよ。あおいそらのむこうには虹がかかったよ」
   「歌のおにいさん?」
   NHKのファミリーコンサートに長女を連れて行って聞き覚えた歌。
   「なんで?なんで寝とるのに歌うの?」
   従妹は小声で義妹に尋ねる。
   「病気らしいよ。でも、本人は気にせず、いたって健康」
   と、義妹は答える。
 確かに眠っているときに歌う。そして、無頓着だ。

    ■  □

「帰ってこない家族!」

   会社の仕事に打ち込み家庭を顧みない後輩がいた。後輩は深夜残業をモノともせず、帰りたくとも帰れない、あるいは帰ろうとしたが思い直して帰れなくなるという典型的な終電帰宅型のビジネスマン。共稼ぎだった。
その後輩の小学校一年生の子供が「帰ってこない家族」という題名の作文を書いた。
   作文は父の日にちなんだ父親参観日に教室の壁に貼り出された。無論、帰ってこない家族の父親は参観日を欠席し、人づてにその話を聞いた。
   「その題名を聞いただけで、泣きそうになるくらい、ほんとうにつらかったです。」
   僕は大笑いして後輩からこの話を聞き、
  「帰ってこない家族!ハッハッハッハ。」
   大笑いをしてやり過ごした。
   その数年後。
 休日出勤が頻繁になった。
   昼食も夕食もデスクでのジャンクフード。
   相次ぐ深夜残業。
   さらにはタイトなスケジュールでの出張に次ぐ出張のために、家にはほとんどいない状況が数ヶ月続いた。
   そして、ようやく休日らしい休日が訪れたとき、
   「おとうさん、帰ってこない家族って何?」
   と、長女に問われた。
   「きのうの夜、おとうさんが言っとった。おかあさんはな、おとうさんが自分のことを言っとんのことやろうって言うけど、帰ってこない家族も家族なん?」
 僕は後輩の思いを垣間見たような気がした。
   寂しさを感じた。
   思わず後輩に電話すると、
   「お風呂に一緒に入ってください。それが一番いいです。先輩のところは女の子だから、もうあと何年も一緒にお風呂に入れませんよ。今を逃したら一生ありません。」
   この助言以来、週に一度スーパー銭湯へ行く楽しみを自重し、長女と一緒に入浴することを心がけた。お風呂でレッスンという日本地図や世界地図を風呂場の壁に貼り、どの県の温泉に旅行に行きたいかとか、ニューヨークへおかあさんと一緒に行ったことがあるというような話をした。
 「スーパー銭湯、今日は行かへんの?」
   妻はそうと知らずに聞く。
   「行かん。」
   僕が思いこんだように言ったので、
   「何なん?何かあったの?」
   「帰ってこない家族になったらいかんやろ。」
   いつになく切実に、僕は答えた。

    ■  □

「ようし、スポーツ振興協会だよう!」

   スポーツ振興協会とは何の関係もない。
   その夜も、僕は無意識のうちにいくつか意味不明な言葉を発していた。
   たとえば、
   「その日はさ、珍しくみんなそろったわけさ。珍しくな。」
   「青空が最高。」
   「スクイズと違う?スクイズ。」
  ICレコーダーはさまざまな音源を拾い上げて、
   「うるさいなあ、もう。」
 と、いう声。
   ガサガサっと起き上がり(妻)、   
 何かを蹴り上げる鈍い音。
   「痛っ」
   小さなうめき声(僕)。

    ■  □

「改宗したいわ、俺。」

   僕には信仰している宗教はない。
 普通に「海幸彦・山幸彦」の多神教の世界観がある。初詣の記念にお守りを買ったり、家族が病気をしたときや月々の支払いが滞りそうになったときに、その時々によって異なる近くの神社に気まぐれにお参りに行く程度であり、うかつにはその信仰の薄さを口には出さない。
 以前、唯一絶対神の信者が会社の同僚にいた。
   敬虔な信者である同僚に対して、ふと「海幸彦・山幸彦」の神話の話をしたことから、
   「なぜ神が複数存在するのか?」
   「なぜあなたは多神教を信仰するのか?」
   その後の二時間あまり執拗に質問された。
 何とも答えられず閉口した苦い経験から、適当な宗教観を語る自分を反省し、神の話題は誰と話をするにしても自然と遠ざけるようになっている。
そもそも改宗には縁はない。
 平凡な会社員であり、父親であり、特筆すべきことは何もない。
 日曜日には、午前中、ふとんをベランダに干し、掃除の手伝いをし、昼食ができるまで長女とオセロゲームに興じる。午後には家族そろってイオンに半額セール狙いの買い物に行き、三時には洗濯物をとりこんで長女と一緒に畳む。
   ローテーション通りの週末。
   せめてもの変化を求めるときには夕方に床屋へ行き、
   「今度、床屋に行くときには、思いきって短くしよう。」
   と、長女に言っていた通りに短髪にして、
   「短くしすぎたと思わんか?格安理髪店でやってみたんやけどな。」
   妻に問い、
   「中年おやじの髪型は話題にならん。」
   型通りの受け答えをする。
   改宗したいとは何だったのだろうかと自問する。
   あえて言えば、袋小路に迷い込んだ出世街道を憂い、何かを変えるのだという変革の意気込みを語ろうとしたのかもしれない。

    ■  □

「ほんとにもう、どうしたらいい?」

   幼稚園で長女が描いた家族の絵には僕がいなかった。
   長女を中央に妻と義母。その三人をハート模様やチューリップの花が飾っていた。
 「これは誰?」
   僕が問いかけると、
   「わたしやよ。」
   長女は答える。
   「これは?」
   「おかあさん。」
   「この人は?」
   「ばあば。」
   「おとうさんは?」
   「おらん。」
   「なんでおらへんの?」
   「言わん。」
 あっけなく会話が途絶える。

 長女は僕には構わずに遊びに行ってしまう。 
 妻は、
 「あの子にとってはな、おとうさんは家族というより、お友だちなんやよ。人から見たら仲がいい親子やで、気にすることはないし、寝言で『どうしたらいい?』とか言って、相談されても困るわ。」
   そう言うが僕は気になる。
   「どうすればいいと思う?」
   「この頃、幼稚園ではお手紙ごっこがはやっとるらしいから、毎日、ハガキをだしたらどう?家のポストに入れておけばいい。」
   「そうやな。そうやよな。」
 僕は新聞広告の裏紙を切りとり、一〇〇枚の擬似ハガキをつくった。ひらがなをまだ読めない長女にあてた最初のハガキは、ゴマのようにヒゲが伸びた自分の似顔絵にした。

    ■  □

「痛い、痛い。眠い、眠い」

 薄暮が迫る五時、一緒に公園で遊んでいた長女が雲梯から落下し鉄柱に顔面を直撃した。
 「痛い、痛い。」
 悲痛な叫びを聞き駆け寄ると、僕の目の前で長女の眉間がみるみるうちに膨れ上がる。数秒の間に眉間は紫色に変色し、さらに大きく腫れ上がっていく。
 長女が泣きじゃくる。
 これは大変なことになったと思いながら、
 「大丈夫やよ。絶対、大丈夫。」
 両頬を掌に包み込む。
 長女をおぶって家へと走った。
 雲梯の上段から僕が背を向けた瞬間に落下した。
 鉄柱で顔面を強打している。一瞬、目を離したのがいけなかったのだと思う。いつもなら上によじ登るときにはそばについていた。今日に限って背を向けた。ぼんやりと考え事をしてしまった。
 長女が泣く。
 転んでも歯を食いしばる勝気な長女が背中で泣きわめく。
 家に駆け込むと、何も言えないくらい僕は息があがっていた。
 別人のように腫れ上がった長女の顔を一目みるなり、
 「何これ!何があったの!」
 妻は一瞬絶句し、口を歪めて長女を抱きしめた。
 「医者へ連れて行く。日曜日でもやってる医者は?」
 「中嶋医院に行こう。五時までやけど、どうしても診てくれって頼むから。休日診療所はあてにならんし、救急車呼んでも待たされる。」
 妻が携帯電話をバッグに押し込む。
 「すぐに車出して。高速から行けば十分で行けるよ。」
 長女は泣き疲れたのか後部座席に乗せるとぐったりとした。
 「眠い、眠い。」
 と、力なく繰り返し言う。
 時計を見るとすでに五時半を過ぎている。
 バックミラーに映る妻が、長女の頭を膝枕に乗せ濡れタオルで眉間を冷やす。携帯電話にお辞儀をしながら医者に頼んでいる。
 僕は黙って強引にアクセルを踏み込む。
 十キロ先の医者が遠く感じる。早く行かなければならない。自分の責任だ。そう思いながら走る。
 「無理して飛ばさんといてよ。こんなとき、熱くなるのが悪い癖なんやから。」
 妻が僕を諭す。
 冷静に言われれば言われるほど反抗的に熱くなる。百二十キロで走る前方の車が遅い。追い越し車線と走行車線をジグザグに走り抜け次々と追い越す。スピードメーターは百六十キロを指している。路面のわずかな段差に大きく車がバウンドする。長女の頭が揺すぶられる。さすがに危うい。
 「先生は診てくれるって言ってくれたから。焦ることないよ。聞いてる?ここで事故したら、もうどうにもならんからね。洒落にならんよ。」
 妻が僕の耳元で叫んだ。
 「ちゃんと聞いてよ。うちの子は強いし、根性があるから絶対に大丈夫。」
 それからずいぶん長い時間が経ったように感じた。
 しかし、僕が待合室で二人を待っていた時間は実際にはそれほどでもなかったらしい。
 「もう一センチ下やったら鼻の骨が折れとったって。一番硬いところやったから、運がよかったなって。絆創膏は腫れがひくまで一日二日そのまま貼っといてって。」
 一仕事終えた妻がそばに腰掛けて吐息をつく。
 長女が僕の膝に無邪気によじ登る。
 鼻の上に大きな黄色い絆創膏を貼った顔が目の前に迫る。
 「痛いか?」
 僕が問いかけると、
 「ううん。もう大丈夫やよ。それよりもな、おとうさん。おとうさんに聞きたいことがあるんやけど。」
 「どんなこと?」
 「イチダイジって何のこと?さっき先生がな、『子供のケガは家族のイチダイジやでなあ』って、おかあさんに言うとった。」
 「一大事か?それはな、おとうさんやおかあさんが、いっぱい心配することかな。」
 「いっぱい心配することなん?」
 「とっても大変なことという意味やよ」
 「そう。とっても大変なことなんやな。そしたらな、おとうさんに言いたいことがあるんやけど。言ってもいい?」
 「何?」
 「あのな、おとうさん。心配かけてごめんな。」
 以前、妻は、長女はなかなか大人びていて将来がとても楽しみであると言っていた。確かにその通りだと思い、僕は、わっと声を上げて泣き出したい自分を感じながら長女を抱き締めた。

*  *  *


エピローグ 


 この頃、寝言が激しい。

 昨夜は、

 「なんでこんなに服あるんや。ブティック開くんか?」

 と、尋ねていたらしい。 

 僕の寝言に、家族は笑ったり、怒ったり。

 そんな家族を僕は守りたい。

 両腕でしっかりと抱きしめていたい。

 真っ白いキャンバスに、渾身の思いをこめて、家族のいる風景を描きたい。


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