放課後のエンジェルはレトロな青春を全速力でかけ抜けた
夕陽がバックネットの向こうに大きく照り映えると、放課後のグラウンドはいつも鮮やかなオレンジ色に染まった。日暮れまで練習する野球部の金属的な球音が鳴りやみ、一気に静かになる。泥まみれになった一年生がトンボを引きずって整地をし、ベースを片づけていく。そこには最後に必ず女子マネージャーのシルエットがあった。
その一年前、入学式の日に新入生の彼女は一人でやってきた。
「わたし、マネージャーになりたいです。」
それまで女子マネージャーとは無縁であった僕たちはエンジェルが現れたと騒ぎ立てたが、日焼けした汗臭い男たちの中にあって、色白でふっくらとした顔立ちの彼女はとても寡黙だった。
「なんで野球なんや?バスケとか、テニスとか、あるやろうし。」
僕が聞くと、
「先輩、わたし、野球が好きなんです。」
短い言葉で返した。
大声を飛ばし合う僕たちと一緒に黙々とグラウンドを走った。色白の顔はあっという間に真っ黒に日焼けした。毎日、ティーバッティングのトスを何百球も投げ続けた。彼女の腕はパンパンに張った。時々、そっと痛む腕を押さえた。
「たまには休んだらどうや。トスするの、代わったるで。」
僕が言っても聞かなかった。半年経ち、一年が過ぎても、一人投げ続けた。
ある日、僕がグラウンドに出ていくと、いつもよりずっと早く彼女がいた。血相を変えてマスコットバットをビュンビュンと振り回している。
「頼まれたんや。お前、知らんのか?」
キャッチボールをしているときに僕は同級生から聞いた。
紅一点、マネージャーを続けてきた彼女は、女子高生からプレゼントや手紙を野球部員に渡してほしいと頼まれることがあった。その日も手紙を下級生の女子から頼まれた。しかし、渡してほしいと頼まれたその相手にマネージャーの彼女も密かに恋心を抱いていたらしい。
「それならそうと言えばええやろうが。」
僕が言うと、
「鈍いやつやのう。そんなんやから彼女ができんのや。」
同級生はビシッと僕にボールを投げつけた。
夏の甲子園の県予選が始まった。当時は女子マネージャーはベンチに入れなかった。スタンドで観戦し、試合が終わるとベンチ裏に走ってくる。一回戦は大勝した。二回戦も勝ち抜いた。しかし、三回戦では僅差で敗れた。ベンチを出ると、マネージャーが唇を噛みしめて立っていた。
「先輩、よかったです。今日は、今までで一番カッコよかったです!」
両手で顔をおおってシクシク泣きだした。
「わたし、ほんとうは泣きたくないのに、泣きたくないのに…」
僕は、もらい泣きしそうになって思わず塩の噴き出した野球帽を彼女に深くかぶらせた。彼女はさらに深く顔をその帽子にうずめてワッと声をあげて泣いた。
三年生の僕たちの夏が終わった。
それからの僕は受験準備に忙しくなった。後輩の指導に来てほしいと言われていたが、それもできなかった。彼女も女子マネージャーを辞めたようだと人づてに聞いた。学校で顔を合わせることもなくなった。
年賀状がきた。見慣れた文字だった。
「あの帽子、まだあります。臭いです!」
東京に僕が進学してからも、彼女からは翌年も、その翌年も、年賀状をもらった。高校を卒業し、銀行に就職し、早々に結婚して男の子が生まれたという。僕は久しぶりに温かいものに触れたように感じた。
しかし、訃報は突然やってくる。
病院に来てほしいと彼女の夫から思いがけない電話を受けたのは、卒業してから三年目の夏だった。
「野球部の先輩にどうしても会いたいと言ってまして。」
ガンだった。発病を知ってからひと月も経たない内に、若い体のあちこちに転移していた。回復はまったく見込めなかった。
「もう一度だけ会いたいと、何回も。無理を言ってすいません。」
彼女はベッドに横たわり身じろぎもしない。黄色い点滴がいくつもぶら下がり、体中から医療機器のコードが延びていた。
彼女の夫は、僕よりずっと年上の細身の紳士な銀行員だった。
「預かった手紙を渡さずに破り捨てたって、そのことを謝りたいとも言ってました。」
僕は真っ白になった。
立ち尽くしたまま、名前を呼ぶことも、手を握ることもできなかった。なぜこんなことになっているのか、なぜこんなことになってしまったのかが僕にはまったくわからなかった。前のめりに突っ立たまま涙が止まらなくなってボタボタと床に落ちた。
享年二十二歳。もう三十年も前のことになる。
真っ赤な夕陽の中、放課後のエンジェルは、レトロな青春を全速力でかけ抜けた。
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