ボクの小学生時代、人生最高の瞬間は10歳で訪れる

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次話: 輝かしくも灰色だった高校時代、涙とともにさようなら

生まれた当初、喘息を持っていた。


喘息には水泳がいいだろう、ということから生後6ヶ月からベビースイミングを始めることに。幼稚園の頃、スイミングクラブに通っていると「選手コースに入りませんか?」と勧誘を受ける。正直、水泳はあんまり好きではなかった。だって、すごく苦しいから。でもお母さんがやたら押してくる。クラブのコーチも押してくる。気付いたら入ってしまっていた。   

選手コースはAコースからCコースまであって、ボクは一番下のCコースに入った。この時に後に高校一年生までの11年間、指導を受けることになる恩師W先生との出会いがある。先生は野球出身の人で、水泳選手としての経験はゼロだった。(水泳界ではコーチ自身が選手としての経験がない、実績がないというのは結構あるあるである。)そういう経歴だったからか定かではないが、W先生の指導は水泳における指導の枠に収まらないやり方だった。   

練習が終わる最後の方にやる「宇宙旅行」というイベントが楽しみだった。先生が子どもの脇の下を掴み、水中の浮力を上手く利用してバウンドしながらスペースシャトルのように高くまで打ち上げられ、そのまま水面に叩き落ちる、というものだった。6歳くらいの子どもにとってはこれ以上ないアトラクションである。しかし、この宇宙旅行へ連れて行ってもらうには、毎回変わる条件をクリアしなければいけなかった。  
 
「二人並んで一緒にスタートし、25mを泳いで先に着いた人だけがやれま〜す」 
「飛び込みの練習で、お腹からドボンせずにちゃんと指先から水に飛び込めた人を、素敵な世界へ連れて行ってあげましょう〜」   

上手いものである。  

まんまと乗せられたボクらは競争心を煽られ、めちゃくちゃ必死になってその切符を手にするべく、練習(お遊び?)に取り組んだ。たまたまだったが、ボクの元来の性格である「苦しく辛いことは嫌い、でも楽しいことは好き」に上手くマッチした指導だった。


初レース

そんなこんなで一応楽しく、週4回の練習に通っていた。一応選手であるので、大会にも出場する。ボクの初陣が迫っていた。   

50mをクロールで泳げるようになったら、未公認の記録会に出れる。ジュニアのスイミングの大会には公認の試合と未公認の試合があって、公認の試合は種目ごと、年齢別に区切られた出場条件である標準タイムをクリアしないと出られないシステムだった。未公認の試合は、いわば公認の試合に出るための練習試合のようなものだった。   

記憶として覚えている最初のレース。当時スイミングクラブのあるコーチの出身校だったことから、専修大学内にあるプールで行われることになった。しかしそのプールは専修大学の水泳部、水球部が使うプール。水深も2m近くあったのではないか?と記憶している。それを事前に聞いたボクは出発の朝、駅のホームで泣きじゃくった。  

「足のつかないプールなんて怖すぎる!絶対やりたくない!!死んじゃう。。。。!!!!」   

結局帯同していたコーチ陣に無理やり説得され、いやいや行くことに。。ガキの知恵を振り絞って、お腹が痛い、具合が悪い、ありとあらゆる言い訳を駆使したが、無駄だった。   

会場に到着し、ウォーミングアップをするためにプールへ飛び込むと、初めて見る驚きの光景がそこにあった。果てしなく深いプール、、、なんか暗い、水の色が違う(気のせい)。。。まるで宇宙空間に放り出されたかのような感覚だった。   

「ちょっと待って、ここで泳ぐの?死んじゃうよ、50mなんて、25mでターンして帰ってくるんでしょ?途中苦しくなったらどうするの?足もつかないじゃん。ダメ!!!!!」   

最後のダダをこねるが、果たしても無駄だった。お母さんも上の観覧席から見ているしもう逃げられない。ようやく悟ったボクは覚悟を決めた。初レース、コース台に上がり、身体をかがませ、スタート音の合図ともに水に飛び込む。水泳とは不思議な競技で、飛び込む前は吐きそうなくらいの緊張、不安、恐怖、焦燥にかられるのだが、水に飛び込むとそれらが一気に消し飛んでしまう。無音の中を、ただひたすら腕を回し、足を打ちつけ、自分の心の声と真正面に向き合いながら、前へ進んでいく。   

25mをターンし、折返す。最後の10mは泳ぐというより暴れていた。なんとかゴールタッチし泳ぎ切る。50mクロール、45.9秒。涙でゴーグルの中も水浸しになる、ほろ苦いデビューだった。

転機

小学校2年生になり、ボクはBコースに上がっていた。

この頃には競泳競技の4種目、クロール(自由形)・背泳ぎ・平泳ぎ・バタフライは一通り泳げるようになり、一回の練習で2000m泳ぐくらいにまで成長していた。毎年夏休みになると4泊5日の夏合宿があり、この年からボクも参加することになった。転機は小学校3年生に訪れる。   

それまでボクは、試合にはクロールと背泳ぎの種目で出場していた。きっかけは全く覚えていないのだが、なぜかここでバタフライをやる”羽目”になった。水泳の経験がない方にご説明すると、バタフライとはいわば拷問のような種目であり、ひたすらキツく、泳ぐごとに乳酸が溜まり腕がパンパンになる半端なくキツい泳法である。   

冒頭で書いたが、ボクは苦しく辛いことは”嫌い”である。当時も恐らく納得していたわけではなかったと思うが、また先生に上手く乗せられたのであろう…だがいきなり結果が出てしまう。大会に出場するたびに大幅に自己ベストを更新していた。神奈川県のトップを決める大きめの大会ではなんと2番に入ったのだ。いきなり表彰台。 自分の所属していたスイミングクラブ内でも同年代で一番ベストタイムが速くなってしまい、ごぼう抜き状態となる。体格は周りに比べ大きかった自分の身体の特性に、バタフライは合っていたのかもしれない。   

話を夏合宿に戻す、ボクには地獄が待っていた。川崎にある屋外の50mプールで行われるこの合宿には自分が所属するスイミングクラブ以外にも、同じ系列店である他クラブの選手たちも参加していた。普段一緒に練習することのない東京の選手たちと練習する、数少ない機会だった。合宿初日、先生からとんでもないことを言われた。

「悠生、おまえ、一番上のクラスだから」   

練習するクラスは3チームくらいに分けられ、学年や泳力に合わせ割り振られる。ボクは最近の試合でどんどん速くなっていったからか、一番上のクラスで泳ぐことになってしまった。そのクラスは小学校高学年の選手しかおらず、1人3年生の自分が入れられてしまった。小学生の一学年の体格差は大きい。みんな大きなお兄さんお姉さん。みんな自分より速い人達。耐えられないくらいの緊張と練習のキツさにもう逃げ出したいの一心だった。   

練習途中、泳ぎながら無理やり鼻をほじって鼻血を出し、「先生、すいません、鼻血が出たので休んでもいいですか?」といった作戦や、お腹が急に痛くなり(嘘)トイレに籠る作戦など、考えうるあらゆる策を講じた。合宿2日目にはもう「おーいゆーきぃいい〜、まぁ〜た鼻血かぁ??よく出るな〜」などと揶揄され、早々にバレてしまっていた。   

例えバレたとしても、そんなことは知ったことじゃない。なんてったって苦しいことは嫌いなのだ。サボる以外の道はなかった。   

しかし合宿3日目、突如雰囲気が変わる。一番上のクラスを担当していた他クラブのコーチ、K先生が木刀を持ち始め(一応平成生まれの平成育ちです)、水着に着替えだした。プールサイドに集合し練習メニューを配られる。メインの欄を見ると驚愕の数字が書いてあった。 

 「 200 × 50 (3.30)」  

これは200mをぶっ通しで泳ぎ、それを50回、1回を3分半のサイクルで回れ、という意味である。合計10,000m(10km)。疲れすぎて幻覚が見え始めたのかと思ったが、どうやらリアルらしい。   

「あーそうそう、このメニューだけは途中でトイレ行くのも、休むのなしね。3分半を回れなくても、泳ぎ続けな!」  

 練習前の説明で選手全員に言い渡したことだったが、それはボクだけへのメッセージに聞こえた。そこから3時間半、ほとんど記憶がない。あたりが真っ暗になりながら、屋外の50mプールを永遠と泳ぎ続ける。 

「なんでこんな苦しいことしてるんだろう…」 
「やめたい、帰りたい、帰ってスマブラしたい、ポケモン金銀やりたい!」  

そんな感情の無限ループ。唯一鮮明に覚えているのは、途中、缶のコーヒー牛乳を持った先生がプールの真ん中でボクを止め、 
「これを飲め!」  
飲むと  
「おし、行け!!」  
わずか5秒の休憩。なぜここでポカリでもアクエリでもなく、コーヒー牛乳なのか。なぜ片手にコーヒー牛乳、片手に木刀を持っているのか、しかも水中で。。そんなことは思わなくもなかったが突っ込む気力もなし。なんとかとうとう泳ぎ切った。   

練習後、あの鬼のような先生が「お前ら、よくこのメニューをこなしたよ。」とお褒めの言葉をもらったが、1本目からサイクルオーバーしていた自分からするとこなせたのかどうだかわからなかったが、ここで初めて、楽しいことしかやりたいくない自分が”達成感”という得体の知れない高揚感を味わうことになる。   

9歳になる前の夏の出来事、あれより体力的にキツいことは、恐らく後の人生でも訪れないだろう。この先、ここで味わった達成感が自分を苦しめることになるのだが、それはまだ先の話である。

化ける

夏が終わり、冬に差し掛かるある日、W先生からこんなことを言われた。  

「悠生、お前JO目指せるぞ!」  

JOとは、JOC(日本オリンピック委員会)が主催するジュニアオリンピックのことで、小学生から高校生までが出場できる全国大会のことである。

各種目ごとに一定の年齢ごとに区切られ、そのクラスで日本の一番を決める。中学生や高校生はそれぞれ、全中(全国中学校水泳競技大会)やインハイ(インターハイ)があるが、小学生にはほとんど唯一の全国大会であり、みんなこの大会への出場を目標としていた。   

この大会へ出場するには厳しい参加標準記録をクリアしなければならず、0.01秒でも足りなければ出場できない厳しいものだった。大会は夏休みと春休みの間に、年2回開催される。3年生が終わる春のJOに出場しようと言うのだ。   

しかしその時の参加標準記録までは、自己ベストのタイムから2秒くらい足りていなかった。50mで2秒というのは、縮めるのにそう簡単ではない。正直、本気半分、無理でしょ半分くらいの気持ちでいた。   

JO前最後の県の公認大会、ここでベストタイムを更新し、かつ標準記録を超えなければもう出場はできない。崖っぷちだった。普段通りのウォーミングアップをし50mバタフライ、レースに出場すると34.61秒。当時のこの年代の参加標準記録は34.00秒でわずかに足らなかったが、地獄の合宿を乗り越えた成果が出たのか、あと0.6秒まで縮まった。   

でも足らなかったなぁ〜まぁいいや〜と思っていたら、なんとここでウルトラCのチャンス。チャレンジレースというものが残っていた。後少しで参加標準記録をクリアできそうな選手だけが出場できる、いわばワイルドカードのようなレースである。   

ボクだけでなく、このレースに出場する選手全員の命運がかかっているレースだけに、各クラブのチームメイトも応援の熱が入るレースだった。もし自分が出場権を獲得できれば、今大会では所属クラブで唯一の、小学生の選手からの出場ということもあり自分もめちゃくちゃ応援されていた。   

再びレースへ出場する。飛び込んで浮き上がり、25mのタッチ、タイミングばっちし。かと思いきや折返しのターン、壁を蹴る時に微妙に滑り、浮き上がる時には泳ぎながら「あぁ終わったぁ〜終了〜」と思いながらも、ゴールタッチし結果、34.00秒。   

寸分の狂いもなく、ドンピシャだった。ぎりぎりで標準記録を突破し、全国大会への出場権を獲得したのだった。きょとんとする自分に、大声上げて喜ぶW先生と仲間がそこにいた。今振り返れば、この時の3.4年前までは、水深が深くて怖いと泣いていた園児が全国大会に出場するまでになるのだから、子どもの成長とは恐ろしいものだなと我ながら感じる。。

さらに化ける

2001年度(2002年)3月、初めて東京にある、東京辰巳国際水泳場に足を踏み入れた。この会場は、日本代表選考会や国際大会なども開かれる、日本で最高峰のプールである。   

レース前日のホテル宿泊、バイキングの食事、会場へのバスでの送迎、初めて味わう至れり尽くせりの待遇にただただどぎまぎしていた。しかもホテルの同部屋は、他クラブの当時中学2年生と高校2年生のお兄さんだった。高校2年生なんて普段出会うことがないので、小3のボクにとって、スラムダンクのゴリのように、ありえないくらい老けているように見えた。(実際に老けていた)   

すべての物事に、めちゃくちゃ戸惑い緊張しながらも会場につきウォーミングアップを始める。すると、  

「あれ?なんか感覚が違うな?」 
「なんか掻き終わりでやたら進むなぁ?」  

25mのタイムを測り、確認してもいつもより速い。先生も「ストップウォッチ早く押しすぎたな」と感じる程であった。   

全国大会は予選と決勝の2レースがあり、まずは予選に出場することに。結果、驚くことにベストタイムを1.3秒も更新してしまった。アップ時のタイムは間違えではなく、なんかよくわからないが急激に速くなってしまっていた。しかも、出場選手全体で16番以内に入ったことで9位から16位までの選手が出場する、B決勝というものに出場することになった。  

親も、先生も、何より自分自身も、全く想像していなかった。初出場でいきなり決勝進出。全国で16番以内に入る。驚きを隠せない。嬉しさのあまりサブプールでダウンもせず上の観覧席まで戻り、「おめぇダウンしてねぇだろ〜帰ってくんの早すぎんだよ!」とコーチ陣にたしなめられた記憶がある。この大会では所属クラブの高校生の先輩選手が優勝したレースも観客席で見ることができた。全国大会で優勝する、なんて凄いんだ。。あっけに取られぽかーんと見ていただけだったが、とにかくカッコいいと思った。   

結局、自分の決勝レースではタイムを落としてしまったが、最高の結果と体験を手にしたのだった。

加速する

大会が終わり小学4年生になる。ある日、W先生とお母さんが何やら話をしていた。

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