輝かしくも灰色だった高校時代、涙とともにさようなら

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前話: ボクの小学生時代、人生最高の瞬間は10歳で訪れる

2005年4月サクラ舞い散る季節、ボクは中学生になった。春先の、まだ新生活スタート真っ只中の時期、W先生のところへある話をしに行った。

「先生、ボク水泳やめようと思います。」

いきなりのこの発言に先生自身も驚いたようだったが自分は結構本気だった。ある程度勝つ喜びみたいなものを知ってしまい正直もう満足してしまっていたこと。それによって水泳に対する情熱を失いかけていたこと。そして何より小学生最後のJO、100mバタフライで負けたことが大きかった。

50mバタフライでは100分の一秒の差で優勝を決めたが一番良い記録を狙っていた100mで負けたこと、しかも良いタイムを出し切って。「悔しい」という感情より「あぁなんかもう、終わったな」と心の糸が切れたような感じだった。先生はそれを感じ取ったのか、一時的な感情の変化だろうと思ったのか、案の定説得された。

「お前を目標としている選手が全国に何人もいるのに、そいつらの気持ちを踏みにじってもいいのか?」 
「8年後のロンドンオリンピック、目指してみないか?」

なんで自分を目標にしている人たちのために続けなくちゃいけないのか理解出来なかった。それにオリンピック??全く想像できなかった。周りの友達からも結構聞かれていたけどこの話題はどこかスルーしていた。   

「酒井さぁ、将来オリンピック出るの〜?」  
「わかんねーよそんな先のこと…」
「出たら応援行くから、絶対出てね!!」
「……。」   

のらりくらり話を流していたがこの話題をされるのは辛かった。客観的にみれば全国大会で優勝するのだから順調に成長を重ねそこを目標にしていくことはある意味当然なことなのかもしれない。一流となる選手は子どもの頃から夢を持ち「いつかあの舞台に立ちたい」「表彰台の一番上に登り金メダル取りたい!」そう思うのだろう。   

しかしボクはそうではなかった。オリンピックをテレビで見て「マジすっっげぇー!おれもいつかここに出たい!!」というより「頭おかしいわこいつら… 無理無理、お疲れ様で〜す。」真っ先に、素直にそう思っていた。   

「ただ楽しくやりたいだけなのに」   

高い目標を設定してそこに挑んでいくよりも、今ある日々を楽しく過ごすことが好きだった。小学生の頃は学校の友達と放課後の校庭で野球をしたり公園に行って普通に遊んだりすることの方が好きで、そのせいで練習に遅れていったりサボったりすることは度々あった。

上に行けば行くほど今よりも必ずキツいことや苦しいことが待っている。それはこれまでの経験を通じても体感的にわかっていたし、その未来を想像するだけで物怖じしていた。結局は二流三流のマインドしか持っていなかったと言えばそれまでなのだが、ボクの興味関心はオリンピックに行くことではなかった。

「・・・わかりました。ちょっと考えさせて下さい。」   

2週間ほど練習を休み考える時間をもらった。その期間中、母ともかなり話し合った。   

「水泳を辞めてどうするの?」  
「知らない」
「なんか他に、別のことでもやるの?」
「やりたくない」
「他の部活は?」
「やらない」 

ただのダダコネだった。

「水泳辞めてもいいけど、何か別のことやらないのは、お母さん許さないからね。」   

これは中々強烈だった。   

「なんでただ辞めたいだけなのに、みんな許してくれないんだろう?」   

でも言うことも一理あった。ボクはただ追われる立場に疲れ、楽しいことをしたいという建前の元逃げたかったのだ。

「だって最近楽しくなくなってきて練習もどんどんキツくなるし、もうやりたくねーよ」
「それはあんた、ただ逃げているだけでしょ?こんなに今まで頑張ってきたのに…… 大人になっても楽しいことばかりやれる訳じゃないよ。」   

苦しいことに立ち向かうことを止め、他にも何もしようとせず廃人のようになっていくことを母なりに恐れたのだろう。自分にもそれは容易に想像できた。悩みに悩んだ末「先生、また一からやろうと思います。」と返事を出し、続けることになった。このきっかけがドン底へのスタートだった。

異変

練習に復帰すると、なんだか身体の調子がおかしい。

「あれ?いつもより苦しい・・・?」

普通に出来ていたいつもの練習がこなせなくなる。タイムが出なくなる。2週間のブランクもあるしそのせいだろう。。(水泳は1日休むと戻すのに3日かかると言われている)最初は慣れるまでだ、と思ってやっていたが何週たっても元に戻らない。何か原因があるのかと思い家の近くにある呼吸器内科へ行ってみた。運動誘発性気管支喘息と診断された。

日常生活には全く支障は無いのだが激しい運動をすると急に呼吸が苦しくなり、運動することによって誘発される喘息とのことだった。発症の原因はわからずどれくらい治療を続ければ治るのかも個人差があり、喘息患者にはお馴染みの吸引器をプシュッと押して薬を肺の中へ吸い込む日々が始まった。先生に理由を話し長距離の練習は本数を減らしたり、短距離の練習も呼吸が苦しくなると所々休ませてもらうようになっていった。

スキャモンの成長曲線にもあるが、中学生の期間は心肺機能が一番向上する時期でもあり、有酸素トレーニングをたくさん行って高校生になるまでに基礎体力の下地をつけていく。しかしボクには身体的にできなかったことに加え、元々有酸素系のトレーニングは苦手で嫌いだったこともあり、トレーニングの原理原則であるオーバーロード(過負荷のトレーニング)を行えなくなっていった。

ここからタイムが少しずつ伸び悩むようになり中学1年生の夏、全中への出場を逃してしまう。全国大会に出場すらできないという経験は久々だった。

自分の身体的・心理的な変化に加え、周りでも動きが出てくる。自分の他にEくんというもう一人全国トップクラスの速い仲間がいて、小学生時のボクらの活躍に刺激を受けた他のスイミングクラブの選手が「ここのクラブで練習すれば速くなれるのではないか」と2人移籍してきたのだ。どちらも全国クラスの選手だった。中学に上がったと同時に選手コースのクラスも一番上のAコースに上がったり、チーム編成があったりしてクラブ内での状況も変わっていった。

この頃から徐々に練習中にも変化が起き始める。

「みんな中学生になったので、今までの練習のやり方を変えます。今までサボったり練習に来なかったりしても何も言ってこなかったけど、そういう人たちには辞めてもらってもいいので。今までが甘やかしすぎました。とにかく変えていくので、よろしく!」  

 小学生までのボクたちは頑張る時は頑張るのだが、調子が悪い時は特にだらけていて好不調の波が激しかった(その代表格はボクだった)。だがそれにしても急な方針転換過ぎて「ちょっとどうしたの?」みたいな空気になり戸惑いが広がった。練習中笑いが生まれたり、ちょっと手を抜いたりするとストップウォッチやベンチがボクらめがけて投げ込まれるようになった。

さすが野球出身でピッチャー経験者、エゲツないコントロールだ。またいつもの調子でのおふざけかな?と思って顔を見ると、めっちゃガチな顔をしている。「え?まじなの?」と少しずつ指導が厳しくなり練習中の雰囲気が変わっていった。それが関係するのかしないのか。それまで小さい頃から一緒に頑張ってきた古参の仲間が一人、また一人とクラブを辞めていく選手が増えていった。

後に先生から「あの頃はお前たちのことがわからなくなった」と言われたがボクらもこの時、先生のことがわからなくなっていった。

思春期ということもあったのかもしれない。それまで密にコミュニケーションを重ね、選手の意見や想いを尊重し聞き入れ、各々の特性・特徴をすべて理解した上で適切な目標設定の手助けをしてくれていた。「お前ならこれくらいやれる」とどんな時でも背中を押し目線を引き上げてくれた。絶対的な信頼と、この人に信じていけば間違いないという確信みたいなものがあった。中学に入ると徐々にそれがなくなっていき、会話することも少なくなっていった。

踏ん張りをみせるも

中学2年生になり、喘息の症状も薬を服用しながら続けていくうちに段々よくなっていく。しかし各種目の県を代表する選手が参加する合宿に行ったら全くついていけなかった。W先生は他コーチから「酒井くんってこんなに練習弱いんですか?」と聞かれたそうだった。

確かに練習は強い方ではなかったが、周りとの差が想像以上に開けてしまっていて自分でも参ってしまった。小学生時の貯金を切り崩し、過去の残り財産だけで勝負している状況になっていた。

だがここでも仲間の存在が自分を救う。中学生の大会、主に全国大会や関東大会では各都道府県それぞれで選手団として一つの団体になり、ホテル宿泊や会場での控え場所、お互いのレースを応援し合うなど、学校という枠を越えて行動を共にしていた。神奈川県は選手数も多く、全国トップクラスの速い選手もたくさんいていつも和気あいあいとして楽しいものだった。

所属しているスイミングクラブや学校は違えど、同じ神奈川県の選手団として試合や練習で互いを高め合ったり励まし合ったりしながらやれていたことが、自分の中にもう一度「頑張ってみたい」と火を付けさせてくれたきっかけとなった。

3年生となるにつれ少しではあるが盛り返す。中学生最後の全中では100mバタフライで7位入賞・400mフリーリレーでは優勝し、なんとかまずまずの成績を残すことが出来たのだった。しかし目標としていた結果(個人種目での表彰台)とは程遠い状況で、フレーリレーで泳いだ100m自由形のタイムは、2年生時のタイムから殆ど上がっていなかった。

この時は「何かがおかしい」とは感づいていた。小学生の時の、いやそれ以上の決意と本気度をもって2年生から3年生にかけて練習をしてきたつもりだった。でも大会に臨む前から、自分が表彰台に上がれるイメージを持てていなかった。中1から中2にかけて練習しなきゃいけない時期に殆ど自らを追い込んだ練習ができなかったことが原因と結論付けたが、結局はそのきっかけも自分自身が引き起こしたものだ。

「みんなから辞めるなと言われたから続けた」
「病気という言い訳材料が増えたことで、限界まで追い込まなくてもよい免罪符ができた」
「そもそも勝てなくなっても、楽しめればいいと思っていたし」

スポーツを競技として行うなら、”勝つことの喜び”を知ってしまったらその下で楽しむことは不可能なのだと後に気付くことになるのだが、この頃のボクは何がどうなっているのかも理解できないまま、自分以外への責任転嫁の傘の下でもがき苦しむ穴にずるずると落ちていった。

出会い

全中が終わり、中学最後の夏のJOに出場するとある方から声をかけられた。

「はじめまして、〇〇というものです。」   

生まれて初めて名刺を渡されたその人は、神奈川県にある水泳部の強豪校、顧問のM先生とI先生だった。

「酒井くん、正式に君をうちの水泳部にスカウトしたいと思います。インハイで総合優勝するために是非君の力を借りたいです。検討して下さい。」

なんとか全中の決勝に残ったことでオリンピック選手も輩出している水泳部からのオファーを頂いた。所属していたクラブの尊敬していた大先輩の多くもこの高校を卒業していて、本当は嬉しい話のはずだがその時に思ったのは「はぁ、これからもまた大変そうだなぁ。。。」という印象で前向きなものではなかった。

今度は自分のことのみならず、所属しているクラブの同級生とその親、W先生も含めみんなで進路について話し合う機会も増えていく。県にあるいくつかの私立高校は、保護者も一緒に大会に来て選手の応援やサポートをするのが慣習となっていてそういった付き合いも増えるからだ。今までのように自分たちで好き勝手やっていればよいとはなくなってくる。特に強豪校になればなるほどその色は強かった。

「高校受験をして県立の高校に行くの?あんたそもそも勉強する気ないじゃない。仲間もたくさんいるし環境も整っているし、ここがいいんじゃない?」

持ち前の臆病心が顔を覗かせる。

不安が大きかったものの水泳を辞める選択肢はこの時はなく、先のことはわからないがひとまず高校3年間は本気で取り組むと決めたこと。また、この学校の水泳部では練習拠点が「学校練習組」と「スイミングクラブでの練習組」という形で分かれていて、個人種目で全国大会に出場している選手はスイミングクラブでの練習を許可されていたこともあり、ボクはクラブでの練習を望んでいたことからお誘いを受けることにした。

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