逃げるしかなかった

1 / 3 ページ

>
著者: 夏菜 大野

どんなに好きな道でも、引き返すべき時はある。闇の中を手探りで進むのは危険です。落とし穴が待っているかも知れない。

  1.転職

 私、浜田怜は高校卒業後、各種学校を経て希望していたコピーライターになり、中小の広告会社を遍歴した。

 コピーライターになった時、指導してくれたのは業界では名の通ったコピーライターだった。

「様々な業界の仕事をした方が良い、会社を渡り歩くのは、ライターとしての勲章になる」

素直だった私は、先輩の言葉を鵜呑みにした。確かに見識は広まり、会社を移るごとに臨機応変に、すぐに仕事に入れた。

私のライター生活は順調だった。集団での仕事が苦手な私は、フリーのコピーライターを目指した。

仕事を始めて二年程過ぎると、考えは変わって行った。自分の、コピーライターとしての能力に限界を感じ始めたからだ。

仕事が、どうしても好きになれなかった。

斬新な言葉ならまだしも、文法を無視した、出鱈目が売り物になるキャッチコピーや、語呂合わせや、はやり言葉を取り込んだ、意味のないコピーの要求に、私は苦しんだ。

もう一つには、仕事に対する向き合い方だった。

 私達はクリエイターだから、と昼間は仕事場で時間を持て余し、夜になると仕事を始める仲間達。徹夜は当然のことで、二日続けての完徹も、私は何度か経験した。

 朝出社すると、寝ぼけ眼でパンを齧り、缶コーヒーを胃に流し込んでいるクリエイターを何度見たことだろう。

 クライアントから営業への発注が夕方で、営業から仕事の依頼があれば、クリエイター達はすぐに対応しなければならない。

「明日の朝迄に頼むよ」又は「明日の午前中がデッドライン」との依頼が多かった。

 断るなんて、仕事を放棄するようなものだった。

当時の私には、締め切り間際の仕事ばかり回って来る会社に所属していた自分の、実力のなさが理解出来ていなかった。

困ったのは、宣伝屋を続けている内に、私の言動にしっかりと根付いてしまった『ハッタリ』だった。

 依頼されたクライアントの所に原稿を持って行き、良い、悪いに関わらず「こんな素晴らしいキャッチフレーズはないですよ。受けること間違いなしです」と大風呂敷を広げる。

 「おかしな言い方だなあ」と、クライアントの担当者に言われた場合には決め言葉があった。

「そうは仰いますが、消費者は新しい言葉に飛び付きます。おかしいな、って目を止めさせる必要がある。メインコピーで説得すればいいんですよ」と開き直る。

 三年も続けている内に、私の頭の中には、珍奇な言葉や言い回しを産み出す造語マシンが組み立てられていた。

 長くは続かない、と思っていた。キャッチコピーを作れと言われる度に、胃の中から胃酸がウワッと吹き出す。胃が爛れて来るのが良く分かった。

「このまま、自分本来の性格を曲げるような仕事をやっていたら体を壊してしまう」いつしかその思いがつのって行った。

コピーライターには、キャッチコピーには携わらない仕事もある。製品の詳しい説明をしたり、客に使用方法を伝授し、製品にまつわるエピソードを紹介したりするパンフレットの制作だ。

会社を移る度に、私は裏方の、パンフレットの内容を埋める地味な仕事を好むようになった。

数年間は裏方の仕事に励んだが、要求されることは似ていた。

「製品の良し悪しは別にして、消費者が買い求めたくなるような文章にして欲しいんだよ。あんた達の仕事だろ」と要求される。

「この製品にはそぐわない言葉がある。変えてくれないか」担当者の要求は、文句の言い易い女性だとエスカレートしていく。私は恰好の相手だった。

 ついに日常茶飯事に、胃がヒリヒリと爛れているのが分かるようになった。

医師から、胃が拡張してダランと垂れ下がっている、と診断されるに至り、三十代を目前にして、私は事務職に変わった。

しかし、文章を書く、扱うことへのあこがれは、日ごとに増して行くばかりだった。

 三十代半ばを過ぎた頃、私は編集者募集の広告を探し始めた。

 殆どが経験者の募集で、未経験の場合は大卒が主だ。私には資格がなかった。

常識のある方達には笑われるだろうけど、私は無謀にも履歴書を持って応募先へ乗り込んで行った。結果は、その場で条件に合わない、と即座に断られた。

「編集者ってさ、こんな本一冊位すぐ書けるんだよ。あんたに出来るの?」と、私の経歴を見ただけで嗤い、机上に置いた単行本を叩いた面接担当者もいた。

 ある会社の編集部に行った時、一緒に面接した女性は「あなたの持っている物、作品? ただの広告じゃないの?」と侮蔑の眼差しを向けた。

 出版業界での、商業ライターに対する蔑みの眼差しは想像以上だった。

 しばらく私の履歴書は、どの会社にも相手にされなかった。

「出版社はまずダメ。仕方がない、広告会社と出版社の中間に位置する編集社でもいいか」と私は判断した。.

見付けたのが、アリノブ企画だった。大手T観光会社の社内報や、有名企業の販売促進物を出版編集している代理店だ。

未経験可の募集だったので、今後のキャリアになれば、と私は早速応募した。

面接をした社長は私の新鮮さが気に入ったのか、多くの応募者の中から私を社員として採用した。

私は、あこがれの編集者の端くれになった。今から三十数年前のことだ。

アリノブ企画は、最低限の社員数で取材も編集も担当し、人手が足りない時は外部タレントで補っていた。

 応募当時の私は向こう気が強く、自分が編集者としては未経験であることなど全く意に介さず、やる気があればどんなことでも乗り切れる、と思っていた。

 社内には有信社長の他、編集営業のK、営業のW子、S美、版下製作のC代、トラフィックと呼んでいた所謂使い走りのアルバイトAがいた。Kは社長から直接頼まれた仕事をしていたが、実際は何が担当なのか、私には分からなかった。

 その他に、常勤ではないが、社長の友人の、アドバイサー的な存在である年配のQが時々在社していた。

 ひと口で言えば、発展途上の会社と言えた。

 私の担当は、T観光会社の社内報の編集と、単発で入って来た原稿をこなすことだった。

例えば、某有名理髪店の社史の編集や、大手J通信社の電話案内帳の見開きページ編集などだが、販売促進物のコピーライターをやっていた私は、短い編集物はお手の物で、滑り出しは順調だった。

 T観光の担当は、T観光の総務課長だった。

課長は気さくで、観光会社の様々なイベントやしきたり、取材の際の連絡の仕方など、その都度丁寧に教えてくれた。

課長はお喋りで、全国各地の、観光会社らしい面白い話をその都度聞かせてくれた。

 何の不都合もなく、半年が過ぎた。取材にも慣れ、私は何年も経験を経ている担当者のような気分で、毎日を充実して過ごした。

 各号で掲載の、T観光の支店の社員のインタビューに回るのは少し苦手だったが、号を重ねる度に、社員達との会話もスムーズに運び始めていた。

私がリライトした原稿のチェックもT観光では問題はなく、インタビュー原稿のまとめ方にも全くクレームは付かなかった。    

私はこのまま、編集者としてのキャリアが積まれて行くものと思い込んでいた。

有信社長は、常に積極的に行動する私を気に入ったのか、三カ月の試用期間を待たずに正社員として受け入れてくれた。

何事もなく、半年は穏やかに過ぎた。

アリノブ企画に大きな仕事が入った。J通信の社内報で、ページ数も多い月刊誌だった。私を取り巻く状況は変わって行った。

スタッフを増やさなければならず、社長は専任担当者としてOを採用した。

OはZ大学の文学部卒業で、編集経験はないが、文章に関してはスペシャリストだ、と、自負しているのが態度で分かった。

 中背で小太り、丸顔、目は細く、唇が厚い。Oは、社内では存在感があった。

一見「調子の良いお兄さん」風に見えるのだが、初対面の時から態度は威圧的だった。

 Oが出社して来たので、私が「お早うございます」と挨拶しても、応えたのかどうか聞こえず、首をちょっと下げるだけだ。

自分の机の前の椅子に座り、腕を組んでグルっと椅子を回転させ、ふんぞり返って周囲を見回す。入社したての社員とは思えない態度だった。

 入社後半月余り、OはJ通信の仕事で走り回っていたが、一段落した頃、私の周辺をウロ付き始めた。

Oは、大学生の時に同窓生と結婚し、五歳の息子がいて、現在妻が定時制高校の教員をして生活費を稼いでいる、早く金が取れるようになりたいらしい、と周囲の噂で聞いた。

Oとは関わりのなかった当時でも、Oが近付くと、異物と接した時の軋みにも似た、不安な風が漂って来るのを私は感じ取っていた。

不安は的中した。たまたま残業で居残っていた時だ。私が取材した原稿をまとめていると、Oが私の背後で声を掛けた。

「遅く迄やっているじゃない。残業する程仕事があるの?」

 Oは狡猾そうに眼を細めると、盛り上がった唇でニヤリとした。

柄物のTシャツの上からワイシャツを重ねて着ていたOは、昼間他の社員からいで立ちをからかわれると「うるせえ、貧乏が悪いかっ」とやり返していた。

 私も、Oの姿がおかしかったので、ニヤッとしながら下を向き「ええ、今一番忙しいんですよ」と、特に意識もせずに応え、仕事に没頭し続けた。

「あんたさあ、仕事遅いと思わない? それで俺より給料高いんだぜ。どう思ってるんだよ」

 Oは不満たらたらの口調で呟いた。Oがなぜ私の給料の額を知っているのか不思議だった。

「でも、今一番忙しい時期なんです」私にはそれ以上言えなかった。

「あんた今迄どんな仕事して来たの?」Oはしつこかった。

私は、広告会社でマニュアルや宣伝物のコピーをかなり書いていたことを話した。

Oは「フウン」と鼻で息を吐き、「冗談じゃねえよ」と呟いた。不愉快極まりない態度だった。

思い返せば、社長の態度からも頷けた。社長の私を見る目は確かに変わって来ていた。

Oが入社する前は、出社時や帰社時に挨拶すると「お早う」「はいご苦労さん」とにこやかに笑みを返してくれたのだが、いつからか、私の挨拶にも軽く頭を下げるのみになっていた。

慣れて来たせいだろうと、私は軽く思い、原因があったから社長も変化したことに気付かなかった。

Oが社長から、社員達の給料の額を聞き出していたのは間違いがない。

専門の分からないKは、二十代半ばに見えた。Oより少し上背があり、ボサボサ頭で血の気のない顔をしていた。社内では無口だが、いつの間にか、行動を見る限りはOの部下になっていた。

 当時、編集者と言えば花形の職業で、新聞の募集広告には一人の募集に十人以上の応募者があるのは常だった。

 編集者募集に応募しても、入社してみたら編集とは名ばかりで、編集室に出入りの営業だった人はざらにいた。Kもその類だった。

 OがKに私のことをどう言ったかは知らないが、Kは、私を排除することにもろ手を上げて賛同したに違いない。

社長の信任を得て私の給料の額を聞き出したOは、自分の給料が私より低いことに腹を立て、Kを引き込み、私を会社から追い出す作戦に出た。

 T観光の仕事には、アリノブ企画内での発言権が増しているOにも、余計な口出しは出来なかった。

 社長に取り入ってT観光の担当を変えさせること、その目論見は明らかだった。実力が伴っていない人間は担当から外した方が良い、と社長に力説すれば良いのだ。

社長の、私に対する態度が変わったのも頷けた。

2・闘いの日々

 苦しい毎日が始まった。出社するとNが待ち構えていて私の予定を確認する。

私は、収入を増やす為の個人的なアルバイトはしていなかったが、コピーライターと言えば、他社の仕事を掛け持ちでやっている人は随分いた。むしろ当たり前、と考えられていた。

 Oは私からマイナス面を引き出そうと、やっきになっていた。

 T観光の社内報は、月々の行事や単発の出来事、社員の意見、支店で評判の人物のインタビュー記事など、T観光社内で主な原稿は用意出来てしまう。

私の仕事は、社内原稿を誌面に載せる為の文章チェックや文字数合わせのリライトが多い。コピーライターの知識でクリヤー出来たし、インタビューのテープを纏める作業も苦労はなかった。

 T観光社内のチェックも大雑把で、私に対するクレームは入社以降全く出なかった。

 J通信の社内報は規模が大きい為、内部スタッフでは足りず、レイアウトのデザイナー、イラストレーター、カメラマンなど必要なタレントを、Oが外部に発注して業務をこなしていた。

アリノブ企画は、今後の為にも、社員の募集広告を出し、タレントを揃える必要があった。

「来月からインタビューの仕事は今度入ったB代にやって貰うから、仕事を教えてやってね」

 Oから言われた時、私は「来たな」と思った。

どう考えても必要以上に社員を増やしていた。B代も中の一人だった。入社しても専任の仕事がなく、上司からの指示を待っていて、使い走りや書類の整理をしている

 社長とOの、明らかに不愉快な物を見るような、私への眼差しも気になった。

「じゃあ私は何をすればいいの?」不審に思い、Oに聞いた。

「今後、T観光の社内報はB代に移して、あんたには俺の指示した仕事をやって貰う」

 私には到底受け入れられない告知だったが、断定的な言い方に、Oの言葉を覆すのは到底無理だ、と即座に思った。

社内で仕事が奪われる立場、イコール失職につながるのが、過去の経験から私には良く分かっていた。

「あんたさあ、なんか、違うんだよな、編集なんてやる人間じゃねえよ」Oはうっとおしそうに私を見た。

「どう言う意味ですか? 私、どう見えるの?」

 はっきりと覚えてはいないが、Oに対し、私は苦笑しながら返事をしたように思う。

Oが何を言いたかったのか考えてみる。

「お前は俺を軽視している」

Oの態度が不愉快だったから、としか言いようがない。

「専門教育を受けている俺に、文章とは何ぞや、と教えを乞わなかった」

Oが近付き難かっただけだ。

著者の夏菜 大野さんに人生相談を申込む