過去は再定義できる〜なぜ子育てが大切だと気づいたか〜

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前置き


まず最初に、僕は今子育て中の親御さん、特に母親に対して子育てを少しでもリラックスして子供とコミュニケーションを取って頂けるようなサービスを作っています。まだ形になっていませんが、進行中です。


なぜ、子育てが重要だと考えるに至ったのか、恐らく自分のこれまでの経験全てが影響していると思います。子供の頃の嫌な出来事や嬉しいこと、ワクワクする気持ちや泣きたいことなどの全てが今の自分を構成する要素なんだと思ってます。


なぜ今の僕がこんな考えに至ったのか、それは自分の過去を振り返ることで再確認できると思いますし、過去を再定義できたと思っています。その経緯をここに残します。

感情のおもむくまま書いてるので乱文なところもあると思いますがご容赦ください。


それでは、始まり始まり~。



自己紹介


僕の大阪市内の周りには工場がある街で生まれました。

父・母・兄(3つ上)、そして僕の4人家族です。

昭和54年(1979年)生まれ、高度経済成長の終わりの頃でしょうか、色々な物が増えてきた時代で写真がカラーになってモノクロが影を潜めた時代に生まれました。

インベーダーゲームが大流行し、ドラえもんが放送開始した年に生まれました。


僕の母と父はこの時代の教育を当然受けてきて育ってきています。つまり、右向け右、左向け左、言われた通りの教育を受けて育ち、指示通りの仕事をこなすことが「当たり前」という軍隊教育的思考が育まれて育ってきたことは想像できます。

別にそれが悪いとか良いとかではありません。当時は他に選択肢がなかった、それを選ばざるを得なかったのですからしょうがないのです。

そんな母父を持つ人は結構多いと思います。


そんな感じで僕は、「やりなさい!」「どうしてしないの!」「早く行きなさい」と言われまくって、物凄く違和感を感じていましたが、その違和感の実態も当然わからなかったので、モヤモヤを抱えながら日々を送っていました。

 

それが原因、というわけではないですが僕は今、子育てや教育を通じて社会を変えたいと考えています、そして達成出来るかどうか分かりません考えている取り組みをしています。

具体的には、子育て中のお母さんの悩みや不安を解消できるサービスを構想しています。

子育ての分からないこと・不安なことを少しでも解消してお子さんと笑顔でコミュニケーションを取ってもらいたい、そんな考えを持っています。

母親の笑顔や愛情が子供の将来にまで影響し、その子供が大人になった社会にも多大な影響を与えると考えています。


つまり、母親の子育てに関する不安や悩みの解消は、未来を変えると本気で思っています。


昔からこんな考えだったわけではありません、ここ3・4年で考えが大きく変わりました。

きっかけは多分色々あると思います、小さい時の違和感や大人になってからの経験、今の自分を作る大きな要因を全部覚えてはいないかもしれません。

それでも記憶に残っている出来事はなるべく記録したいと思います。

そして今の自分が過去の出来事をどう捉えているのか、多分この振り返り方次第で今後の自分がどう成長していくかが変わると思います。


ここに執筆する記事は自分が成長する為の振り返りでもあります、自己満足みたいで申し訳ありませんがご容赦ください。

そして見ていただいている方にとっても、何かしらのヒントを掴んでいただきたいと思っています。


この記事は自分の再確認用でもありますが、自分だけに限ったことでは無く誰にでも当てはまる可能性があると思います。

要するに、過去の経験や出来事を「どう捉えるか」だと思います、ある人は通り過ぎる出来事も、ある人によってはターニングポイントにもなると思います。



僕が捉えるターニングポイント


①いじめ

②アルバイト

③元カノ

④役者

⑤自主映画制作

⑥進学塾への就職

⑦雑貨屋


意外にターニングポイント多い!?と思わないでください。

先にも書きましたが、「出来事をどう捉えるか」です、それ次第ではただの通り過ぎる出来事も、人によっては人生を変える出来事にもなります。

最低でも5年前まではこんな考えはまったく持っていませんでした。物事を深く考えることもなく、のほほんと日常を送る日々でした。それが悪いとかではなく、そんな自分が今どうやってこの考えに至ったのか。


この記事は、自分の弱い所、脆い所を洗い出して「正しく認識する」ことを目的にしています。

同時に「お前は自分の人生をどう捉える?」「おまえは今何を持っていてそれをどう活かす?」という自分への問いかけでもあります。


そしてご覧頂いているあなたにとって、何かヒントを見つけていただければ幸いです。

かなり昔のことなので忘れている所もありますが、できる限り思い出してお話します。



小学生以前


父は電気工事士で母は生命保険のセールスレディにヤクルトのお姉さん(わかります?)をしていました。

共働き家庭だったので僕が小さい時はよく祖母の家に預けられていました。

当時住んでいた家から15分くらい歩いたところに祖父母が小料理屋を営んでいたので小さい時はよく遊びに行ったりご飯を食べに行きました。

お店に出すような料理を食べていたので家庭の味は祖父母の料理でした。

母の味は豆腐を手でちぎったお味噌汁です、他の料理は正直記憶にありません。


この頃の記憶はほとんど覚えていませんが、なぜか大所で母が食器を投げつけている記憶は鮮明にお覚えています。多分この光景がかなりショックだったんだと思います。つい先日のことのように覚えています(笑)。


もう一つ今でもはっきり覚えているのは、保育園で皆んなが帰った後に母となぜか兄が迎えに来ました(迎えにきた理由は覚えてません)。

母と保育士さんが施設内で話し合っている時に公園の4人乗り?のゴンドラに似た形のブランコで兄と遊んでいました。

兄がめちゃめちゃ強く漕いでしまったせいでブランコが外れて私は後頭部から地面に落ちました。

痛いと言う記憶が強いので、一緒に落下した兄がどうなっていたかはわかりませんが、救急車も呼ばなかったみたいなので大事には至らなかったようです。

ドラゴンボールの孫悟空が幼少期に崖の下に落ちたことがきっかけで性格が変わった、なんて素晴らしい出来事ではなかったです。

ただ大号泣した覚えがかすかにあります。ひょっとしたら素晴らしくない方へ向かうきっかけだったかもしれません。


もっとも小さい時の記憶はこれです。


 

小・中学校時代の家庭環境といじめ

小学生の低学年の頃だったと思います、年に1~2回は父が釣りに連れて行ってくれました。釣り船に乗って少し沖まで行ってアジを釣ったり、タコも釣ったことがあります。この時はとても楽しかったのを覚えています。

ただ、この頃の褒められた記憶はなかなか思い出がなくて、「学校行きなさい」「勉強しなさい」「そっち行っといて」という言葉は今でも記憶に残っています。(なぜ母がこんなことを言っていたのかは後半で書いています)


だからかもしれません、自己肯定感が低かったんでしょう。自分でやりたいいことも特になく、社交性もほとんどなかったので誰かの後を追って真似ばかりするような子供でした。


そんな性格だったからでしょうか、小学校4年か5年の頃からいじめをうけるようになりました。人によって程度の差はありますが、世間的にはまだ軽い方のいじめだと思います。


「お前来るなって」

「何言ってんの?」

「え、何?」


話をすると基本こういう返事が帰ってきます。


「ちょっとお金貸して」


数百円レベルの金額ですが、かつあげもされました。しょっちゅうあったわけではないですが、時々はかつあげされてたので、毎月貰うおこずかいが時々減っていました。

廊下で通りすがりに殴られたり、貸した消しゴムがバラバラになって帰ってきたり。毎日じゃないですが、時々こんなことがありました。

当時は超人見知りだったので友達もほとんどいませんし、一人でサッカーボールを壁当てしたり家でゲームばかりしていました。一人で遊んでいる時は友達の文句や愚痴を一人でブツブツ言いながら下を向いて遊んでいるような少年です。


中学生になって少し話せる友達はできましたが、いじめる人間も中学になると同時に増えました。当然いじめの頻度も増えました。

小学生時代のいじめが始まってから中学生の間ずっと、なるべく目立たないようにしてたと思います。誰かと楽しそうに話しているといじめっ子が何かとちょっかいを出してきて、その度に気持ちが落ち込んでいたのを覚えています。


でも自殺したいとかそういったことは考えませんでした、そこまでいじめはヒートアップしなかったので精神的には何とか保てました。なるべく目立たないようにしよう、静かにしてよう。と、今思い返せばそんなことを考えていたんだと思います。

 

小学校高学年の頃だったと思います、時々釣りに連れて行ってくれた父が家からいなくなりました。

別居しました。(時期ははっきりとは覚えていません)家の中でも母とはあまりうまくいっていないような感じだったの、父が別居してもそれほど驚きませんでした。

近所に住んでいましたが、年に1回くらい家族で焼肉を食べに行く程度の交流です。生活費は父からもらっていたと思います。


当時の僕は、母が精神的な苦労を抱えていることを考えもしませんでした。

「手助けしたい」と思えていれば少しは状況も変わっていたのかもしれませんが、当時の僕はそんな考えを持てなかったので、ただただ不満を抱えてブツブツ独り言を言いながら何も改善せず目の前の事実から逃げていたんだと思います。だから母が基本一人で、家と僕と兄を守ってくれていました。

ちなみに兄もいじめられていたようです。詳しくは知りませんが、ちょくちょく制服を汚して帰ってきてた記憶があります。


そんな状況もあって、一人前の大人に育てようとしたのか、がっかりしていたのかは分かりませんが、母は家でよく怒っていましたし。

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