過去は再定義できる〜なぜ子育てが大切だと気づいたか〜

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「勉強しなさい!」「さっさと寝なさい!」と、そんな言葉が家の中ではよく飛んでいました。

自分の性格上、意見を言えるわけもなく素直に聞いていました。もちろん勉強に集中なんてできません、しているフリです。

小学校の高学年の頃は近所の警察署がやっている剣道道場に通っていましたが、これも行きなさいと言われて行っていました。しかし実際は行っていません、家を出て通っているフリをしてましたが、近所の駐車場とかで時間つぶしをしてました。

学校も行くのがイヤな時は無理やりくしゃみをして風邪を引いたフリをしてました。(コツさえつかめばくしゃみはコントロールできます笑)

そろばんの「お試し教室」みたいなものに行きましたがまったく興味が湧かなかったのでそれっきりです笑。

中学2年のころから近所の塾に通いましたが、勉強に興味が湧かなかったので、塾に通っていながら偏差値は低かったです。


これらは全て母が勧めてきた習い事ですが、基本的に「やりなさい」と言われたことに対しては、本当にのめり込むことができませんでした。

「自分は勉強もできない・友達もいない」そう思っていたので自分がとにかく嫌いでしたし、何もできない自分が悔しかった。何か変えたいと漠然と感じていましたがその方法もわかりません。言われたことを一旦やってみますが結局形だけで、体裁だけ取り繕って後はゆっくりフェードアウトしていました。

 

無意識の没頭

当時のことを思い返すと、あることを発見しました。

友達もほとんどいなかったですし親や学校から言われたことに対しては本当に興味を持てなかったのですが、テレビや本などで好きになった物事に対しては没頭していた記憶があります。もしかしたら現実逃避なのかもしれませんが。


小学校4年生ごろだったと思います。学校で1人の女子生徒と友達になったことがあります。

喋ることが苦手だったのでそんなに喋った記憶もないんですが、ある時その女子生徒の自宅へ遊びに行ったことがあります。自宅へ行くきっかけは忘れたのですが、僕は買ったばかりの組み立て前のミニ四駆を持っていきました。(ダッシュ四駆郎ご存知ですか?確かバーニングサンだったと思います)


お昼頃だったと思います、その子の自宅へ行って家の中には上がらず玄関先でミニ四駆を組み立て始めたのです。気がついたら外は暗くなってました、昼頃から多分夕方5時頃まではずっと黙々と組み立てていたかもしれません。

その数時間とにかく夢中でミニ四駆を組み立てていたのです、友達の自宅の玄関先で。笑

しかもその友達は僕が組み立てている間ほぼずっと目の前に座ってくれていました。すごく安心してすごく嬉しくて夢中になって組み立てていたことを覚えています。

なぜ玄関先なのか、なぜミニ四駆をだったのかはまったく覚えてないのですが、この場面の記憶は鮮明に覚えています。今思うと妙な光景ですよね、女子生徒の家の玄関先で黙々とミニ四駆を組み立てる、しかも女子生徒はずっとそれを見ている(笑)。

でもそんなものかもしれません子供時代というのは。しかし偶然起こったレベルの出来事なので本当に稀です。

 

小学・中学時代は基本モヤモヤを抱えていました、そのモヤモヤは多分いじめや家庭環境からくる不満だと思います。何かが自分の中でふわふわしていて「あれをして遊ぼう」「ここに行こう」「もっと○○したい」みたいな感情は多分持っていなかったと思います。ミニ四駆事件のように、偶然没頭できる瞬間はありましたが本当に稀な出来事です。この時期は「明日も学校か」という憂鬱な意識がかなり大きかったので他のことを考える余裕はなかったと思います。

ただただフラストレーションが蓄積されていった時期でした。

 

高校時代の「解放」と「気づき」

高校生になったらいじめっ子たちは別の高校に行ったり就職をしたので接する機会がほぼなくなりました。家まで押しかけてくるようなしつこいいじめではなかったので、高校に行ってから僕はいじめから解放されました。

とは言え、小・中とあまり人とコミュニケーションを取ってこなかったので、高校になっても人と会話することはやっぱり苦手でした。精神的には楽にはなりましたが、人と交流することを避けて生活をしてきたので会話の仕方がわかりません。どうやって会話の糸口を見つければいいか、どうやって話の輪の中に入っていけばいいのかがわからなかったので基本は待つスタンスでした。

聞かれたことには答えますが、自分から声をかけることは少なかったと思いますし、もちろん授業でも自分から手はあげませんでした。目立つ行為が好きじゃなかったし間違えたらどうしよう、と考えてました。いじめがなくなった分精神的には楽になりましたが、自分からアクションを起こすことはあまりしませんでした。


軽く引きこもり気味だった自分にとって、高校時代に転機だとはっきりと思える出会いがありました。高1の夏頃、初めてアルバイトをしました。家の近所でホッカイロを製造している工場のライン作業員です。親戚がそこで働いていたので紹介して頂きました。

この時に知り合った同学年や少し年上の友人が僕にとっての転機でした、その友達とは今でも交流があります(年1回会うか会わないか程度ですが)。


僕にとっては普段のたわいのない話や学校のこと・嫌なこと・恋愛、そんな何気ない話をできる存在ができたことが、自分の価値観を変える出来事でした。それまでは人と接することを避けてきましたから、初めて人と対等に会話ができる、この感覚が初めてでドキドキとワクワクを感じたと思います。


年齢は当時の僕と同じ16歳から大学生の21・2歳くらいまでだったと思います。全員で10人くらいかな。学校終わりの5時~8時くらいまでの短時間の工場作業です。バイト仲間と仕事帰りに近くのマクドナルドで数時間喋ったり、カラオケに行ったりしました。

このメンバーとは高校を卒業して就職した後も時々遊びました。春はお花見、夏は琵琶湖に釣りに行ったり。生まれて初めて「友達」という存在を実感しました。誰が好きとか誰かの愚痴とか、ほんとにたわいのない話ですけどそれが楽しかった。中学校以前には感じたことのない楽しさを経験しました。


今思い返すと、この時にある感覚を感じていたことを思い出しました。

 

初めての認めてくれる存在

1つ目は、

今から約20年くらい前にアルバイトしていた時のことなので、まだまだ縦割り社会で体育会系?的な思想が根強かった時代だと思います。しかしアルバイト仲間同士ではそんな時代背景とは関係なく、先輩や年齢関係なく良いものは良いと認めてくれたり気さくに話しかけてきてくれた人達でした。それまでは人と対峙する時に、自分の中での「見えない壁」を感じていたような気がします。

物理的なものではなく、精神的なものです。


「こんなこと言われたらどうしよう」

「こんなことを言ったらどう反応するかな」


心の中で複雑なことを考えすぎて言えないことがほとんどでしたが、ここではある程度は素直に言えた記憶があります。完全に素直にはなれていないでしょうけど、それでも発言に対して楽な気持ちを持てていたと思います。

超小規模なダイバーシティ?多様な価値観があって、好みはそれぞれ違っていても良しとする、それをお互いが認め合う。今思うと、あのアルバイト関係が「みんな違ってみんな良い」との最初の出会いだったのかもしれません。

 

相手の言動の意図

2つ目は、

どう言葉で説明すればいいのかちょっと迷いますが、


「どうしてこんな言葉を言ったんだろう」

「何故こんな行動をしたんだろう」


という他者の言動がすごく気になっていました。

相手の言動の心理を読み取りたいとか、相手のことをもっと知りたいとかじゃなく、今誰かが言った発言がただ何となく気になっていた、という程度の感覚です。モヤモヤした気持ちになったりしましたし、良いものは良いと感じて行動を真似してみたり、言い方を真似てみたり。良いと感じることもそうでないことも、言葉にするほどのことでもなく、ただ自分の中に「あの時の発言の意味」という漠然とした感情を覚えました。その感情を論理的に考察するようなことは当時はできませんでした。しかしそれが当たり前のような感覚もあり、自分の中に日々積み重なっていく感覚はありました。


子供時代にそんな感覚を持っている人は僕以外にもいるかもしれませんが、そんなことを言う人は周りにいないし聞いたこともないので、自分だけが気になっていたと思ってたので誰にも言いませんでした。

この記事を執筆しながらなぜこんな感覚を覚えたのかを自分なりに考えてみました。


思い返してみると、多分いじめや家庭環境での「自分の思いとは反対のことが起こる」という経験が自分の中で「どうして?」という考えを生むきっかけになったのかなと思っています。「こんなことをするのはどうして」「本当は嫌なのにどうして」、そんな感情を小・中学生時代は言語化できませんでしたし、論理的に考えるなんてできません。


そんな経験から「この言葉を言った意味は何?」「この行動を起こした動機は何?」などを考えるきっかけを与えてくれたのかもしれません。しかしそれを検証することはできません。検証しようにも「いじめ」を再度行うとか、当時の気持ちを再現しようにもそれは不可能です。

当時の「いじめ」や「家庭環境」が理由で「相手という存在」を意識するようになったのかは結局はわかりません、あくまでも今の僕が考える想像の範囲内なので、別の理由があったのかもしれません。しかし、他人が見れば通り過ぎる発言も高校生時代の自分には何か引っかかっていました。


多分、誰でも些細なことが自分の中に積み重なってそれが大人になった自分を構築しているんだと思います、良いことも悪いことも全て含めて。僕の場合、「相手の言動の”何故”」ということを意識するきっかけが少しマイナスな所からだったんだと思います。高校生時代はそのことを意識していてもどう表現すればいいのかわからなかったので、周りに合わせたりしながら感情を表に出すこともなく生活をしていました。


ざっと計算して、この感覚をだいたい20年くらいは持ち続けていくことになります、本当に自分は成長速度が遅いと実感します(笑)。

高校生時代は、解放されると同時にほんの少しの”気づき”を得られた時代でした。

 

町工場

高校を卒業した後は大学には行かず就職しました。もともと勉強に目的意識や意義みたいなものは持てなかったので偏差値が低く(謙遜ではなく本当に低いんです)ても入れる高校に進学したので大学に進む選択肢はありませんでした。

就職先は家から自転車で20分くらいの溶接工の工場で働いていました、扉とかドア枠とかを作っていました。学校の体育館の入り口にある防火扉なんかも作ってました。


最初に就職した時代は2000年頃で、「多様性」「働き方改革」「女性の社会進出」という言葉が出る前の時代だったので、「働くとはこういうもの」という意識を持っていましたし、それが当たり前という感覚でした。この時は何かやりたいことがあるわけでもなかったので、ただ毎日仕事をして休日は友人と出かけたりカラオケに行ったり、そんな生活を続けていました。


あまり変化のない日常だったと思います。

 

現実逃避という「きっかけ」

就職して3年くらい経った時に同僚の女性と付き合うことになりました、初めてできた彼女です。僕は工場で、彼女は事務のデスクワーク。

当然「自分、不器用ですから」な感じなので気持ちを汲み取るような器用なことは思いつかず、困らせることもあったでしょう。論理的に話もできないので口喧嘩や空気を悪くすることはよくありました。若気の至り、といえば聞こえはいいですが何も知らない無知な子供でした。


付き合って2年くらい経った時、僕の家でご飯を食べ終わった時に彼女から手紙を渡されました。そこには今の思いが綴られていました、内容はもう覚えていないないけど彼女の目の前で号泣したことは覚えています。

どうしてあんなんなに泣いたのか、初めて付き合った彼女ということもありますし、何より彼女のご両親や家族と一緒にご飯を食べたりした関係でした。言葉では直接伝えませんでしたが、「結婚」は意識していました。しかし当時の自分は今思い返してもカッコ悪い男でした、これは当時からも自覚していました。「嫌な思いばかりさせている」と気づいていながらそれに対して逃げては知らんぷりをしていました、当然嫌気もさすと思います。でもなにをどうしていいのか、「もっとしっかりしないと」と思っていてもなにをどうしていいのかがわからない状態で、そんなモヤモヤした気持ちのままズルズルと時間だけが過ぎて行っていました。だから、手紙を渡されてそれを読んだ時は、「そりゃそうだ」という気持ちとか「情けない」という気持ちとかが混ざって、虚脱感というか力の無さのようなものを感じました。


別れてから数年はショックが続きました。「彼女のことを考えたくない」という意識さえありました。(一歩間違えればストカーですからね、これ!)僕にとっては、この経験が動き出すきっかけだったのかもしれません。


しばらくして彼女が会社を退職しました。理由は当然わかりません。それから更に1年くらいしてからでしょうか、彼女が会社の近くに寄ったんだと思います。

連絡を受けた同僚の女性数名が会社のビルの玄関前に集まっていたのですが、女性達が囲っているのはベビーカーでした。その後の記憶はよあまり覚えていません。

唯一考えたのは、「別れてから1年くらいで子供・・・?????????」

今思えば恥ずかしい限りです。別れた以上、以降の人生は本人が決めるのにネチネチ色々考えては自暴自棄になってました、本当にカッコ悪かったです。無駄に妄想が暴走したのを覚えています。

 

芝居との出会い

当時は、数週間か数ヶ月は感情をどこかに置いていったような感じで、ロボットのように仕事だけをしていたと思います。

そんな時、たまたま目にした新聞に「新人俳優募集オーディション」の記事が載っていました、記事を見たその瞬間に感じた「俳優という仕事に対する興味」と「彼女のことを忘れたい」、この気持ちだけで応募しました。不純な動機だと思います、俳優を小さい時から夢見ていて頑張っている人からしたら努力の量も熱量も圧倒的に少ないと思います。でも当時は、今の自分の感情がよく分からなくなっていて、この頭の中をすっきりさせたい、そんな理由で応募しました。

そのオーディションには合格することができました。それからは会社で働きながら週末は演技の練習の日々が始まりました。


芝居の練習をしている時のことを振り返ると、興味・関心のある対象に意識的に集中するという行為をこの時に初めて経験したかもしれません。それまでは物事に興味・関心を持つこと自体がほとんどなかったので、適当にうまく生きてきたんだと思います。

一般的な考えとして、「俳優で有名になる」「自分を表現することが楽しい」という意思を持たれている方は、芝居の稽古やオーディション、作品に出演することで表現の方法を身につけたり、知名度が段々と上がっていくでしょう。しかし僕の場合、この俳優の取り組みはどちらかというとリハビリに近いかもしれません。

いじめや家庭環境、これまでの経験があって、心をどう開けばいいのか、自分でもコントロール出来ない状態だったんだと思います。芝居の上手い・下手は関係なく、「他者になる」という特殊な環境や心理状態が身体や心の動かし方を教えてくれたのかもしれません。


徐々に自分を表現することに楽しさも感じ、「俳優という目標」を介して、生まれて初めてやり甲斐とうものを感じたのかもしれません。昔からこんな思いを抱いていたわけでもないので、ぶっちゃけ俳優への入り口は不純です、逃げる選択肢として俳優を選んでしまいましたから。他の人からすれば圧倒的に努力量も熱量も思いも少ないでしょう、しかし当時の自分にとってはメンタルケアであり、「考える」という経験も少なかったので、僕にとっては数少ない選択肢だったと思います。

 

昔の価値観と現代の価値観の違い(ちょっと一休み)

話はそれますが、ここで価値観についてのお話を。

23歳くらいの時、東京の芸能事務所が自費で制作する映画のオーディションを雑誌でみつけました。ちょうどこの頃は「俳優やるなら東京かな」という根拠のないイメージを持っていたので、思い切って会社を退社することにしました。

母にも役者になりたいという話をしましたが当然納得してもらえず、逆に説得されるようなことを言われましたが、あまり相手にもせず押し通すような感じで東京に行くことを決めました。


今の時代は物事に対して興味や関心を持つことがスキルアップ、そして自分の価値を高めることに繋がると認識されてきています。そしてこの流れは今後益々拡大し、個人の価値を高めないと収入に直結すると考えていますし、間違い無いのかなと思います。

しかし、2000年代始めはそんな価値感を持った大人は今以上に少数派でした、母も「1つの企業で長く働き続ければ将来安泰」の側でしたので、話し合って合意点を見出すような視点は当時の僕は持っていませんでした。つまり、人生を謳歌した時代によって価値観や捉え方が違うということです。


母の生きた時代と僕が今生きている時代でなぜこうも価値観が違うのかを僕なりに考察してみました。

 

母は昭和20年代に生まれました、多感な時代は30年代~40年代でしょうか。映画の「ALLWAYS 三丁目の夕日」が昭和30年代が舞台背景です。

この時代は経済が急速に発展し、生活が急激に変化していった時代で物やサービスがどんどん生まれ始めた年代でしょう。

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