肩書きなんて要らない?

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肩書き と 偉さ

肩書きってなに?

肩書きは狭義では「地位」「職名」「役職名」 
つまり社会の中でのエラさだ。

肩書き、というとエライひと
社長、とか、教師、とか、管理責任者というところを思い浮かべるが

実は社員、パート、アルバイト、学生、こども 
なんかも広義の肩書きだ。

よく「地位も名声も要らない」という言葉を聞く。
でもこれは「肩書きが要らない」とは
本質的に意味が違う

最初に面倒くさいことをいうけれど
私が混乱していたことでもあるので
ここで言葉の定義をしておく。

ここで話す肩書きは「地位のある役職」ではない。
「アナタ」を定義する、短い代名詞だ。


私のはなし

私は日本の法律で言うところの医師です。
が、一度私は医師の肩書きから
一度 完全に離れる決意をしました。
理由はみっつ。

海外で暮らすことになったから。
子育ての真っ最中だったから。
肩書き無しの私個人として 
認められるかどうかやってみたかったから。

最初の理由はあまり理由ではない、本当の所をいえば。
『もう一度研修医?
それは嬉しくないなぁ・・・
どうせ下積みするなら 別の形がいいな。』
というところか。

二番目の理由も 結構あやふや。
あと少ししか我が子に関われない、というのが最初の気持ちだったけれど
今の私は結局なにかしらに専念していて
子どもべったりなわけではない。
(それで良いと思っているけれど)
(そして、実際子供達も 寂しいといいながら
そんなお母さんの方がいいと思っているらしい)

敢えて言うなら最後のものだったのかもしれない。

学生の時から「医学生」という肩書きは特別だった。
免許を取ったら その威力は驚くモノになった。
私個人の未熟な人間性とかお粗末な診断能力とか
そんなものはかるく吹っ飛ばして
まさに肩書きが一人歩きしていた。

仕事を通して自分の中に溜まる葛藤や無力感
善くあろうとすると答が複数でることもある
そしてどれが最善の選択肢かは
いつだってわからない
絶対の答はないものだ
そう理解し(たつもりで)歩み続けるけれど
自分が最善には辿りつけないことは 
私自身が一番良く知っている

私を知らない人に言われる言葉が嫌だった
「お医者さん?すごい!」
いえ、医者=凄い人 な訳じゃ、ないですから。
(今になれば、社交辞令でも「頑張ったのね」と言う言葉だと
素直に受け止めることができるけれど。)

医学部に入る前に浪人した。
この時初めて肩書き無しの自分になった。
このときは不安で仕方無かった、
社会のどこにも属していないわたし。
使えそうにもない私。

よく考えれば その時代すでに
浪人生 は立派な肩書きだったのだけど。

身分証明書であり履歴書であり

肩書きとは
初めて会う人に「こんなひとかな」と言う検討をつけさせるもの
ものによっては 信用と信頼を意味し
財産を意味し
「ふつう」を意味し
「特別」を意味し
「許される立場」「許されない立場」を意味し
つまりは 社会の中での簡単な身分証明書であり
通行手形だ


そして今思う
「肩書き」は捨て去ることはできないものだ
いや、もともとそんな選択のないものだ

地位は諦めたり捨てたり出来ても
自分が何者か を人に示しながら生きなければ
他人は私との距離も測れない
かといって出会う人全てに
30秒で自分の半生を語ることも出来ない
それが 肩書きは一言で 
私の15年を要約してくれる

肩書き:How diverse I am

母というのも妻というのも肩書きのひとつだし
女性というのもひとつだ
(無駄に箱のなかに入れるもの、という人もいるが)

肩書き、とは こんな風に考えてみれば
つまりdiversity(多様性)だ。
長短問わず どんな人生を歩んでいるかを
一言で表す(あるいは表そうとする)言葉だ。

私は「ぽちゃっとした」「中年女性」で
小学生二人の「母」で
専門職の夫の「妻」で
「元気なひと」で
「4人姉妹のひとり」で

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