日本語が通じないド田舎で生まれた猿が、気がついたら東京でニートになっていた話 最後

前話: 日本語が通じないド田舎で生まれた猿が、気がついたら東京でニートになっていた話 その3
2012年7月。
上海浦東空港の到着ゲートを括ると、笑顔でこちらに手を降る父と母の姿がいた。

二年前。もうおさらばだと思いながら、逃げるようにして出た日本に戻り、僕はサラリーマンをしていた。
今回は有給休暇をとって両親が住む上海に会いにきた。

両親と一緒に車に乗り、家とは少し違う方向に向かって走った。
父が運転し、僕が助手席に座る。母は後ろの席に座り、水筒を取り出し、家で作ってきたであろう珈琲とお菓子を僕や父に勧めてきた。
父は赤信号になると珈琲を飲み、僕は機内食が出たからいらないと断り、母に怒られる。
とても自然な空気感を持った家族になっていると感じたが、思い返しても、家族三人で出かけた思い出等ないのだ。
5歳ぐらいの時に北京に出かけていたらしいという事を写真で見ただけだった。

着いた言われ降りた先は、羊肉串屋だった。
羊肉串というのは、僕が小さな頃より特に好きだった食べ物で、羊肉のブロックを串に指し、クミンや辛子等、様々な香料をふりかけて焼き鳥のように直火で焼きあげる中国東北料理だ。
日本でも食べられる場所は随分増えたが、ポピュラーではないので、食べられる機会がそうあるわけではないのだ。
お店の中に入ると、奥の席から僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。首を向けると、どデカい図体をした男と綺麗な女の人が座っていた。すぐにそれが、従兄妹達であることが分かった。
大連で生活していた兄、12才の頃からアメリカに渡って生活していた妹がたまたまこの日に上海に揃ったのだった。十数年ぶりに揃った元子ども達は、お酒を手にそれぞれの経験を語った。朝鮮語と中国語と日本語と英語のちゃんぽんで、店員達が怪訝な目でこちらをちらちら見ていた。


自分の番が回って来ると、僕はきっともうすぐ会社をやめるだろうと伝えた。
従兄妹達は驚き、両親は、冷麺を啜りながら、ああ、そうという表情だけをこちらに向けた。
「日本って変なんだ。幼い頃は日本語が上手く話せないとバカにされ、それが嫌で必死に日本語を覚え、名前さえ名乗らなければ外国人とは分からない程度に使いこなせるようになると、今度は外国人らしくないとバカにされるんだ。
大学では、君は将来を担う架け橋だというけれど、ほとんどの大学生は勉強をしないで遊んでばかりで、企業に至っては、即戦力がほしいと言いながら、自分らの母国語すら僕より下手な大学生を雇うんだ。
だから、仕事の効率も悪いし、電話一本やメール一往復で済むような問題に一週間もかけて取り組んだりする。しかも、彼らの上司は、新入社員はこうあるべき、とか、時間をかけて仕事をするなんて偉いとか全く根拠が分からない尺度を持って評価するんだ。そして、彼らの常識から外れるといきなり怒り出したり、グループから排除しようとするし、彼らは自分の事を、常識的で正しい社会人だと信じて疑わないんだ。社会人って言葉がそもそも意味がわからないのに。」

従兄妹達はきょとんとした顔を見て、随分と捲し立てて話してしまったなと思った。しかし、両親は相変わらずな顔をしていた。


あの日、あの時、郷土料理である羊肉串を囲った僕らは、まるで遊牧民のようだった。そして、それぞれの個体が自立した孤独な大人達でもあった。
それぞれがお互いが持つ文化や考えを尊重し、誰かが話をすれば聞き、正しいと思えば正しいと言うけれど、理に適っている自分とは違う意見は素直に認めた。

良い事を良いと思いたいだいだけなのだ。そんなシンプルな事がとても難しい。
シンプルに生きたいという思いが日々強くなっていき、気がついたら東京でニートになっていたのだった。

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