16000本のキャンドル(東日本大震災)
あの日、大地震発生から三十分後、
「道が割れてる!」
奇跡的に通じた電話の向こうから、福島県にいる友人が叫び、直後に途絶えた。
東日本大震災。
そのとき、僕は名古屋にいた。テレビニュースを見ていた。
目を覆う津波の惨状が次々と放映された。
漁船が岸壁を超えて流されていた。海水が押し寄せて次々と家を押し流した。田園の道路を走る乗用車のすぐ後ろに、ガレキを飲み込んだ真っ黒い津波が迫る。
思わず言葉を失い、息が苦しくなる。
大津波警報が瞬く間に太平洋岸一帯に広がり、聞きなれない緊急地震速報が断続的に鳴った。ニュースの訃報は報じられるたびに拡大した。
モーメントマグニチュード9.0。津波の波高10メートル以上、最大遡上高40.1メートル。16000名近くが亡くなった。
「生きてる。がんばっぺ。」
続報が入ったのは、それから二日後の夜だった。
運よく高台に避難できた友人は山中で夜を明かし、命をつないでいた。生きていることをあたりまえのように感じていた僕は、「生きている」という強い言葉に胸がつまった。
その三年度、名古屋の東別院には16000本のキャンドルが準備されていた。
小さなビンにロウ流し、芯をさして手づくりした。そのひとつひとつを大勢の子供たちや学生が境内に並べていく。
風よけの紙に被災者を応援するメッセージを書く老夫婦がいる。
追悼の思いを綴る高校生もいる。
震災の翌年からこうして欠かさずに明かりを灯してきた。
「石巻のいかぽっぽとホタテ焼です。ぜひ食べてください。」
模擬店の女性から声がかかる。
「まるっと一口、一口でいっぺんに食べ。」
屈強な日焼けした初老の男性が言う。
石巻から来た鮮魚店の女性とイカを釣り上げた漁師だった。強い気持ちを持ち続けて生き抜いた人たちだった。
模擬店には幟がはためいていた。
「震災遺児孤児応援」
僕は、石巻のイカを頬張り、すぐそばにある掲示板に足を止めた。それは被災した人たちからの感謝のメッセージだった。
「夫を亡くしました。小さい子が二人いて途方にくれましたが、皆さんのおかげで立ち直ることができました。」
「子供は中学生でした。三年が経ち、今年、高校を卒業することができます。」
「あたたかいメッセージをありがとうございました。涙を流しながら読みました。くじけちゃいけませんね。」
そのひとつひとつに僕は身をきつく縛られるような戦慄を感じた。
三年間に僕ができたことは何だったかを自問した。
一歩も動けなくなった。
「亡くした父を思い出しては泣きます。優しい父でした。思い出しては涙ばかりします。皆さんからの励ましを受けて、ようやく前を向くことができるようになりました。」
何もできていない自分がはがゆくなった。
体中がかたまって、どうしようもなく泣けてきた。
「どうかされましたか?大丈夫ですか?」
ボランティアの女性に言葉をかけられても、うんうんと頷くことが精いっぱいだった。
僕が答えられずにいると、
「どうぞ、ぜひ、ごゆっくりご覧ください。」
僕は人目をはばからず顔中を掌でぬぐった。
女性は、静かに微笑し、
「人と人とが結びついて、支え合いや助け合いができた方々からいただいたメッセージは、ほんとうにうれしいものですよ。」
あの日のことを僕は忘れない。
僕は、自分なりにできることを探し、強い思いをもって絆をつないでいくことに決めた。
著者の松本 晃一さんに人生相談を申込む
著者の松本 晃一さんにメッセージを送る
著者の方だけが読めます