学校に馴染めず中学を3回転校した引きこもりが、全校生徒1500人のマンモス高校の生徒会長になった話①中学生活卒業まで
ああ、、、もう限界だ、、、
「どうしてこうなってしまったんだろう。」
ひたすら真っ白な天井を見つめ続けていた。
14才。健全な中学生ならとうに眠っている時間だ。試験電波発信中のカラーバーが、
7畳ほどの真っ暗な部屋を照らす。午前四時半。画面が切り替わり、日の出に照らされる富士山の映像が眩しく、僕の視力を狂わせた。
朝がやってきたのだ。
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僕はいわゆる、「転勤族」といわれる家庭だった。
故郷と呼べる場所も無ければ、幼なじみなんていない。
地元生まれ、地元育ちの友人達を羨ましく思った事もあった。
中学2年生の夏。
九州の片田舎で7年間を過ごした僕は、親の辞令により、ついに鳥取県へと転校する事になった。
僕が育った九州の田舎は、小学校は全校生徒約90人、中学に至っては約50人。
そこからいきなり、1学年4クラス、全校で12クラス、全校生徒約400人の、自分にとっては大きな学校に転校する事になる。中1から始めた野球は続けていたし、ごく普通の流れで野球部に入部する事になったが、それが悪夢の始まりだった。
中1から始めた野球は続けていたし、ごく普通の流れで野球部に入部する事になったが、それが悪夢の始まりだった。
慣れない授業、多すぎる同級生、付いていけない勉強。ぼちぼち学校生活を一緒に過ごす友人も出来たが、その友人グループが野球部のメンバーといがみ合っていて板挟み状態のぶくはすっかり心を痛めていた。
仲の良い友人の悪口が、共に中体連を目指す友人の口から発される。徐々に野球部のみんなとの距離も離れて行く。休み時間も寝ているふりや、わざと勉強するフリをする事も徐々に増えた。
明らかに孤立していた。
10分の休み時間が永遠に感じる。特に昼休憩なんて45分もあるし、ムダにトイレにこもったりして5ヶ月程、しのいだ。相談出来る相手もおらず、ひたすら我慢の日々である。
「もう、学校に行きたく無い。」
あるとき、ずっと我慢していた気持ちが溢れ、僕は学校に行かなくなった。
転校して5ヶ月目の事だった。
学年主任には、
「中学生ごときでそんな事悩むのはまだ早い!」
と一蹴され、親にもひたすら学校に行け、と世間体や体裁を保つ1つの道具かのように接される日々が続いた。車に乗せられたかと思えば、わけのわからないカウンセラーの所に連れて行かれそうになったこともあった。
学校にも、家にも居場所がないし理解者もいない。かといって、深夜徘徊する勇気もない。
僕は、唯一の居場所をインターネット上に求めた。
当時始まったばかりのパケホーダイに便乗し、携帯で全国の学生が集う掲示板サイトに出没するようになった。そこには、不登校、引きこもり、素行不良などで悩む同世代がたくさん集っていて、唯一そこが僕の居場所になったのだった。不登校ながらも、心の安定は保たれていた。


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夜中にチャットで全国の同世代の友人と交流して、朝になると寝る生活を4ヶ月ほど過ごした。
気づけば中学2年も終わりに近づいていた。
中学3年。いくらクラスがえがあったとしても、どっちみちみんなお互いの事を知っている間柄だったから、どう考えても人間関係のリセットは出来ない。僕はまた悩んだ。
僕は思い切って親にそう告げた。

そう約束して、親に渋々OKをもらった。この時点で僕は中学校のジャージを3種類持っている事になって、なんだか不思議な感覚だった。
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桜が舞い散る季節。
僕は同じ市内の、隣の中学校に転校した。
ここなら、誰も自分の事を知っている人はいない。なんとかやっていけそうだ。
以前の学校とはうって変わって、中々荒れた学校だった。
体育館で身体測定の聴力検査をしている、すぐ隣で
待機している生徒が待ちきれずにバスケットボールを始めちゃうくらい自由な学校。
クラスの番長が、橋の真ん中で釘バット持って他校の生徒を待ち伏せしている光景がよくみられちゃうくらい、自由な学校。
僕にとっては、逆にそっちの方が過ごしやすかった。
転校して1月程であった修学旅行にもちゃっかり参加して、順風満帆に見えた。
修学旅行から帰り、そのまま連休に入った。
連休に入り、自分の生き方について自問自答を繰り返す日々。
「俺の人生、このままでいいのだろうか?」
今回は特段理由があったわけでは無いが、連休明けからまた学校に行かなくなってしまった。
縁もゆかりも無い土地で、全くワケの分からない高校に行くイメージが全く持てなかったのだ。
転校先の学校を不登校になってから半年の間、段ボールが満杯になるほど、ひたすら小説、心理学、自己啓発本等を読みあさった。
当たり前だが、どの本にもこのどうしようもない現状を打破する為の手段が書いていない。
一通り本を読み終わり、今度は自分自身と向き合ってみる。
自分は何が好きなのか。なにがしたいのか。どこに行きたいのか。
元を辿ると、僕には何一つ秀でた技術もなければ特段スポーツもできるわけではない。だけど、勉強においてはなぜか、英語はいつも1番か2番をとっていた。つまり、僕は英語が好きだった。その上、自分の育った宮崎という土地が特に嫌いでは無かった。
答えはシンプルだった。
「宮崎に戻りたい。」
親を始めとした周囲の人間に多大な迷惑をかけながら、僕は、中学2年生まで通っていた地元の小さな学校に出戻りする事になったのだ。
当時の僕は、ひたすら環境を変えたかった。
出戻り先の学校でもトラブル等等波瀾万丈ありながらも、
市外にある県内一のマンモス校の英語科に合格する事が出来たのだった。
(約1年、鉛筆を持って居なかったので文字がかけなくなっていたし、手も奮えていた。)
高校生になり、今まで迷惑をかけた人々に、「目に見える形」でどう恩返しをしよう。
勉強も出来るわけじゃないし、スポーツも何一つ秀でていない。とりあえず頑張ってみるか。
入学してしばらくたち、友達もまあまあ出来たがクラスではまったく目立たず、友達に言いたい事も言えない。心が折れそうになっていた。相変わらず、クズである。
そんな折り、学校の廊下を歩いていると「生徒会役員募集」の張り紙を発見した。
「自分を変えたい。」ここで一歩踏み出さなければ、社会に出ても一生このままだし、明るい未来なんてこない。笑われても、指さされてもいいから役員に手をあげてみよう。きっと何かが変わる。
僕は、勇気をだして生徒会役員の選挙に出馬をする事にしたのだ。
定員枠は9人。応募は12人。油断すると落ちる。
悩みに悩んだ分、俺には何か他の人の役に立てる事があるのではないだろうか?
その一心からだった。
高校一年。こうして、選挙期間が始まったのだった。
続きます。
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