黄昏泣きに癒されて

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(このストーリーは「父さんにもしものことがあったら読んでほしい手紙」全11話を、総集編として再編し、改題したものです。)


澄みきった水色の空を切り裂いてヘリが舞い、機影は次第に大きくなって中庭を横切った。プロペラが旋回する音が近づくと、緊急事態を知らせる館内アナウンスが病棟に流れた。

「コードブルー、コードブルー」

病棟の窓に最初に見たものは、屋上に飛来するドクターヘリだった。

「コードブルー、コードブルー。6号エレベーターは、緊急搬送専用となります。」

三年前に新築された伊勢日赤は、一辺100メートルの病棟が四方から中庭を囲み、各辺がグリーン、オレンジ、ブルー、そしてイエローにカラーコーディネートされている。

イエローの四階。通称、4Y病棟。

4328号室。

病名は肺がん。ともすれば死に至る病。

手術を翌日に控えたその日、小学校の帰りに立ち寄ったサチが撮った写真がある。今見ると、そのときの顔はとても厳しい。

笑っているような、泣いているような。

そして、じっと何かを思いつめているような。


   *    *    *


去年の夏、父さんは肺がんになったよね。

父さんも、母さんも、小学六年生だったサチも驚いた。

レントゲン検査をしたら胸に影が見つかった。それでも早期発見だったから、手術をして、がんを切りとることができて、ほんとうに運がよかったと思う。

そのときは生まれて初めて自分が死ぬことを考えたよ。

だから、それからの一年は、それまでとは全然違っていたし、一日一日がとても大切なものになったんだ。それなのに今はそのことを忘れかけているように思う。

こうしている間にも、がんが転移して再発しているかもしれないのだから、普通の人よりはずっと、これからまた何かがある可能性が高いとも思う。

だから、父さんにもしものことがあったら読んでほしいことを正直に書いておこうと決めたんだ。

あのとき、肺がんだと日赤の先生に言われても、自分のことのようには感じなかった。

誰のことを言っているんだろうかというくらいに、ものすごく静かな気持ちで聞いていたよ。命が危ないかもしれないと医者から言われるなんてことは、一生の間でもそんなにないことだから、きっとそういうときには、空白の感情のまま受けとめるものなんだろうね。

「右肺上葉部の腫瘍は、肺がんの可能性がきわめて高いです。」

呼吸器内科の先生は、クールなトーンでそう言ったし、父さんも他人事のように聞いていた。

診察室の中では、悲しいとも、辛いとも思わなかった。

父さんには、胸が苦しいとか、咳が止まらないとかいう自覚症状がまったくなかったから尚更だった。こんなに元気なのに、普通に生活できているのに、どこが肺がんなんだろうかという感じだった。

それでも、あの日、それからのことは、今でもはっきりと覚えている。

診察室から出て廊下で待つように先生に言われて、これが「がん告知」というものなんだろうか、こんなにぼんやりとしたものなんだろうかと思いあぐねながら待っていると、看護師がやってきて、

「アンケートをお願いしたいのですが、たくさん質問があります。書けるところだけでもいいので書いてくださいね。」

10ページくらいあった。ボリュームがあるアンケートだった。これからの治療方針を立てるにあたっての意思の確認のようだった。全部真剣に考えて答えるのは大変だと思いながら読み進めていくと、こんな質問があった。

「命にかかわる重大な話を聞くときには、あなたは、どうしたいですか?

①一人で聞く / ②配偶者と一緒に聞く / ③配偶者に聞いてもらう / ④家族に聞いてもらう」

ドキリとした。

「あなたは死ぬかもしれないんですよ」と書いてあるような気がした。

先生ががんだと言っても切実に感じなかったけれでも、このときようやく自分が「がん患者」なんだということを自覚したんだ。

急に肌寒くなった。

鳥肌が立った。

胸がドキドキするのを感じながら、「配偶者と一緒に聞く」を選ぶと、母さんの顔が浮かんできた。

そうしたら、泣けてきた。泣けて、泣けて、どうしようもなくなった。

父さんはほんとうは怖かったんだ。すごく怖​かったんだ。とても受けとめきれなかったんだ。

あの日、父さんは、ずるずると鼻をすすりながら、アンケートを書いたんだ。


   *    *    *


8月、お盆休みの間もずっと日赤に通って検査ばかりしていた。

小学校最後の夏休みの思い出にと、サチと約束していた山登りや海釣りにも行けなくなったよね。あのときは、父さんの意思とは無関係にまわりが急に動き始めていて、ついていくのが精一杯になっていた。

日赤に行くたびに血液検査をした。

胸のレントゲンを何枚も撮った。

肺活量を何通りかの方法で測ったり、ゼリーのようなものを胸に塗ってエコー検査もした。

造影剤を使ったCT検査もしたよ。

CTというのは横になって体を輪切りにするように撮影する医療機器。造影剤は人によっては吐き気や動悸、頭痛など副作用が出て、まれに呼吸困難や意識障害に陥ることもあるらしいけれども、輪郭がはっきりと映るようになる薬らしい。

先生からそんな説明を聞いて同意書に署名をした。

検査技師に促されるままにCTの上に横になって両腕をバンザイをするみたいに上げる。

父さんが所定の位置にセットされると、看護師が、

「今から造影剤を入れますね。」

点滴の針から薬が体に入って、胸の真ん中あたりから下っ腹に熱いものがざざっと走った。多少ショッキングだったけど父さんは大丈夫だった。

MRIの撮影もしたよ。

強力な電波を使って、体の中にある水分に作用して断層を撮影するらしい。

がんを早期発見するのに最適だというPET-CTという最新の機器での検査もした。

PET-CTは検査が終わってから一時間、薄暗いリカバリールームで安静にしていなければならなかったので、回遊魚のように動き回る性分の父さんには、とても長い待ち時間だった。

頭頸部・耳鼻咽喉科へ行って甲状腺の検査もした。

血液検査の結果を見た呼吸器内科の先生が甲状腺の機能低下を気にしたらしいんだけれども、耳鼻科の先生の診断でも異常は見あたらなかった。

1ヶ月の間、週に3日は日赤へ行って検査をした。

父さんは、インフルエンザの予防接種さえ面倒くさいと思うくらいだから、こんなに検査を受けたことはなかった。見るもの、聞くものすべてが目新しく、どれだけ待たされても退屈はしなかったけれども、ゴホゴホと疲咳き込んでいる人を見ると、息詰まるような不安を感じることがあった。

そのことを母さんに話すと、

「普通の人はな、人間ドッグに入って、高いお金払って検査するのに、あんたはな、がんのおかげで、全部、保険診療でできてるんやよ。」

笑顔で言う。

「あんたは大丈夫やわ。乗っている飛行機が落ちても、あんただけは助かる。そんな人やで。」

母さんは強い。

「悪運強いし。そんな気がするもん。」


   *    *    *


10年日記を買ったよ。1冊に、10年間書き綴る。

筆不精な父さんにとっては、小学生のときの絵日記以来のことだったから、ちょっとした思いつきだった。日赤に行ったときには診断結果を書きとめようと思ったんだ。

たとえば、

「7月27日、伊勢日赤、呼吸器内科、初診。レントゲンと造影剤CT検査。」

生まれて初めて自分の命と向き合うことになった父さんにとって、10年日記を書くということは、これからの10年間を絶対に生き抜くという決心だった。

肺がんの本を何冊も立て続けに読んだ。

肺がんの知識を猛烈に詰め込んだ。

二人に一人、がんになる時代であることや、がんは治癒できる病気なんだと書いてあった。

毎晩2時や3時までインターネットを見ていた。

検索キーワードは、肺がん、症状、治療、原因。

名古屋で単身赴任をしている父さんは、夜はずっと一人だから、朝までキーワードを追い続けたんだ。

肺には神経がないので肺の病には痛みがないそうだ。消化器系の病気は軽症でも激痛、呼吸器系は重症でも無痛。肺がんの場合、初期の段階では痛みがない。骨などに転移して痛みを感じるようになる。

「5年生存率」や「1年生存率」という言葉があることも知った。

肺がんは、悪性腫瘍の大きさや転移の状況によって、Ⅰ期からⅣ期までのステージに分けられる。

腫瘍が5センチ以下、転移していないⅠ期ならば、5年生存率は70から80パーセント。

肺門リンパ節に転移したⅡ期は、50から60パーセント。

肺がんの5年生存率は低い。

Ⅳ期になると手術をすることが難しい。

抗がん剤治療を行っても、約半数の患者が1年間生きられない。

2人に1人が1年以内に死ぬ。

父さんは、ステージⅠ期かⅡ期であってほしいと祈るような気持ちだった。できれば、がんであるということが間違いであってほしかった。しかし、その気持ちとは裏腹に、検査が進めば進むほど、うつむきがちになる結果が次々と出てきた。

胸部単純X線写真では、右上肺野に異常影が認められた。

断層写真では、異常影がより明確になった。

CTでは、腫瘍の辺縁はケバ立っており、肺がんに特徴的な像を示していた。

その日の10年日記に、父さんは書いた。

「8月13日、呼吸器内科の最終診断。肺がん可能性、極めて高い。次回診察は8月21日。外科医から開胸生検手術のリスクを聞く。」


   *    *    *


外科医は青い手術着だった。

「松本さんですね。本人確認のために、お名前と生年月日を言ってもらえますか。」

坊主頭、無精ひげ。

細い目の奥の眼光は鋭い。

呼吸器外科の執刀医として生死を分ける瞬間をいくつも見てきたのだろう。内科の主治医とは違って、金属的なメスの臭いがするような気がした。

「松本晃一です。昭和35年10月…」

その日は、母さんと一緒だった。

がんの告知を受けた日のアンケートに、命にかかわる重大な話を聞くときには、配偶者と一緒に聞くと父さんが答えていたからだ。

「現段階での診断は、肺腫瘍です。」

外科医は、単刀直入に切り出した。

「間違いなく言えることは、右肺の上葉に腫瘍があるということです。腫瘍とは、良性のものも悪性のものも含めて、体にできるデキモノの総称です。問題は、このデキモノは一体何かということですが。」

病院の社用便箋に青鉛筆で「肺腫瘍」と書いた。


「悪性であったとしても、どのような状態で、どのレベルまで進行しているのか、それがわからなければ、今後の治療方針は立てられません。では、その解決法は?それは、その腫瘍の一部をとって顕微鏡で診ることです。病理診断です。」

そして、肺の絵を描いて、右肺の上葉を赤鉛筆でマークした。

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