黄昏泣きに癒されて


去年の夏、父さんは肺がんになったよね。

父さんも、母さんも、小学六年生だったサチも驚いた。

レントゲン検査をしたら胸に影が見つかった。それでも早期発見だったから、手術をして、がんを切りとることができて、ほんとうに運がよかったと思う。

そのときは生まれて初めて自分が死ぬことを考えたよ。

だから、それからの一年は、それまでとは全然違っていたし、一日一日がとても大切なものになったんだ。それなのに今はそのことを忘れかけているように思う。

こうしている間にも、がんが転移して再発しているかもしれないのだから、普通の人よりはずっと、これからまた何かがある可能性が高いとも思う。

だから、父さんにもしものことがあったら読んでほしいことを正直に書いておこうと決めたんだ。

あのとき、肺がんだと日赤の先生に言われても、自分のことのようには感じなかった。

誰のことを言っているんだろうかというくらいに、ものすごく静かな気持ちで聞いていたよ。命が危ないかもしれないと医者から言われるなんてことは、一生の間でもそんなにないことだから、きっとそういうときには、空白の感情のまま受けとめるものなんだろうね。

「右肺上葉部の腫瘍は、肺がんの可能性がきわめて高いです。」

呼吸器内科の先生は、クールなトーンでそう言ったし、父さんも他人事のように聞いていた。

診察室の中では、悲しいとも、辛いとも思わなかった。

父さんには、胸が苦しいとか、咳が止まらないとかいう自覚症状がまったくなかったから尚更だった。こんなに元気なのに、普通に生活できているのに、どこが肺がんなんだろうかという感じだった。

それでも、あの日、それからのことは、今でもはっきりと覚えている。

診察室から出て廊下で待つように先生に言われて、これが「がん告知」というものなんだろうか、こんなにぼんやりとしたものなんだろうかと思いあぐねながら待っていると、看護師がやってきて、

「アンケートをお願いしたいのですが、たくさん質問があります。書けるところだけでもいいので書いてくださいね。」

10ページくらいあった。ボリュームがあるアンケートだった。これからの治療方針を立てるにあたっての意思の確認のようだった。全部真剣に考えて答えるのは大変だと思いながら読み進めていくと、こんな質問があった。

「命にかかわる重大な話を聞くときには、あなたは、どうしたいですか?

①一人で聞く / ②配偶者と一緒に聞く / ③配偶者に聞いてもらう / ④家族に聞いてもらう」

ドキリとした。

「あなたは死ぬかもしれないんですよ」と書いてあるような気がした。

先生ががんだと言っても切実に感じなかったけれでも、このときようやく自分が「がん患者」なんだということを自覚したんだ。

急に肌寒くなった。

鳥肌が立った。

胸がドキドキするのを感じながら、「配偶者と一緒に聞く」を選ぶと、母さんの顔が浮かんできた。

そうしたら、泣けてきた。泣けて、泣けて、どうしようもなくなった。

父さんはほんとうは怖かったんだ。すごく怖​かったんだ。とても受けとめきれなかったんだ。

あの日、父さんは、ずるずると鼻をすすりながら、アンケートを書いたんだ。

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