中2の時に両親が離婚した話
子供の頃はいわゆる「いい子」
「俺」という人間を形成してきたモノは何だったのだろうか。
ここでいろいろな事を書いていくうちに、自分自身の内面を見つめている自分がいる事に気がついた。
今の俺。他人との距離の取り方が下手くそ。八方美人(だいぶ改善されたが)。NOと言えない。要は人に嫌われる事を極端に恐れている。だから、俺を受け入れてくれる(と思しき)存在を、こちらも無条件で受け入れてしまうのだ。その結果、あとで裏切られてひどい目に遭う。そんな事があっても傷つかないように、また心にバリアを張ってしまう。
子供の頃は恐らくいい子だったはずだと記憶している。初孫と言う事で祖父母(特に祖母)に可愛がられ、すくすくと育った。小学校では学級委員、児童会役員にも選ばれ、市の陸上大会では大会記録を作り、成績も優秀で、県の健康優良児童5名の中に選出されたりと、恐らく周囲の大人たちの期待を一心に受けていたはずだ。
そのまま中学校にあがり、模擬試験では学年で5位以内(1位を取った事もある)、陸上でも相変わらず、長距離では3年間地区大会で優勝し、2・3年は大会記録も更新した。3年時は生徒会長も務め、客観的にはいう事の無い「いい子」だったはずである。
しかし。
中学2年のときに、両親が離婚した。原因は母親の浮気。パート先のパチンコ屋のマネージャーと関係を持ってしまったのだ。
俺の父親は婿養子で母の実家に入った。この離婚で父親は自分の故郷に帰りたがったが、俺が名前が変わる事を嫌がったために、名前はそのままで俺が生まれた町に残ってくれた。
母親と一緒には暮らしたくなかった。母親のところに行く事は、即ち家庭を壊すきっかけになった男との同居を意味するからだ。俺は父親と2人で暮らす事を望んだ。2つ下の弟は母親のところに行った。家庭は真っ二つになった。
中3の時、進路に県内1の進学校を希望した。模擬試験の結果からは十分望みはあったが、学区外だったために担任は反対した。第2希望として工業高専を挙げたが、これも担任は反対。俺は一気に勉強をやる気を失い、中3の12月からは一切勉強をしなかった。
地元では一番の普通高校に入学したが、失った意欲は取り戻せず、そのまま高校2年の夏に中退した。
その頃から、ずっともがき続けていたような気がする。自分の悶々とした気持ちをどこにぶつけていいのか分からないまま、ただ無駄に時間を過ごしてしまったような気がする。
ファッションに興味があり、高校を中退してすぐ東京に出て当時人気のあったファッションメーカーで働き始めた。しかし、給料は安い。月12万ほどの給料で、店で着るための服を買ったら手元にはほとんど残らない。バブルの真っ只中、周りはうなるほど金を持っている大人たちばかりなのに、自分はいつもスッカラカンの金欠だった。練馬の4畳半の安アパートで暮らし、貧乏ながらも友達と楽しくやってはいたが、どうすれば周りの大人たちのようになれるか、ずっと考えていた記憶がある。
結局、1年ほどで貧窮生活にギブアップし、自ら申し出て仙台にあった支店に転勤させてもらった。仙台なら電車で1時間半ほどで故郷から通えるからだ。しかし、その時には父親は既に実家に帰り、やむを得ず母親の元に身を寄せた。両親の離婚の原因となった男とも一緒だ。
その頃はちょうど同級生たちは高校3年の受験シーズン。俺は仕事が終わると、家には帰らず同級生の家に入り浸るようになった。そこで一緒に勉強をし、大検を受ける事にしたのだ。遊び半分、友達の家で居候しながらの勉強だったが、大検は2年がかりで合格した。大学にも行きたいと思うようになっていたが、その頃付き合った彼女が妊娠し、そのまま結婚する事になる。
今、こうやって振り返ると、本当に行き当たりばったり、流浪の青春時代を送っていたと思う。
ちなみに、両親が離婚したとき、弟は小6。そのまま中学に入ってすぐ弟はグレ始め、その学年の番格として名を馳せ、高校には行かずに社会に出た。幼かった分だけ両親の離婚の影響をモロに受けてしまったのだろう。
俺と同様若いうちに結婚したが、ヤンキーの方が根性があるようで、結婚後はマジメに暮らし、今では職人として人を使っていると聞いている。俺よりもよっぽど真っ当な人生を送っている。
ある意味、いろいろな葛藤や不満を吐き出しつくした弟の方が、腹に残らずに済んだのだろうか。周囲からいい子だと思われ、その期待に応えようとしていた分、俺は出遅れてしまったのかもしれない。そして、感情をストレートに出すことも上手に出来ないまま、年だけ取ってしまった。
これからがリハビリだ。やっと客観的に自分を見れるようになってきた。こんな俺を導いてくれる仲間も出来た。今年中にメンタルブロックを外しまくってやるつもりだ。
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