若年性脳梗塞になってみた その7 ~ 病院愛憎劇場終幕 大事なことは検査でもわからないけど側にある ~
前回の両親からの言葉がショックで、しばらくはこのことは夫にも話せませんでした。
なんで話せなかったのでしょうかね?やはり『いくらなんでも信じてもらえないかもしれない』という気持ちと『あれは夢だったのだ』という親に対しての最後の信頼があったからかもしれません。
そもそも彼らはあの言葉には悪意は全くないのです。もし、私が死んだり、何もできなくなった場合の話でむしろそれが善意の気持ちだったのがそうとうややこしい。
というのも父は田舎育ちの両親のもとで長男として育ち、「長男長女は優遇されて当たり前、跡取りなのだから」という教育で育ちそれを当たり前として生きてきた。
母は田舎の農家の出身。「長男長女以外はそのサポートをし生きるのが当たり前」という教育で育っています。
いまどきあり得ない考え方なのでしょうがまずは長女でその次に次女という考えが気が付かずともある様なのです。
また「家」単位で物事を考えますから短絡的に「次女が死んだり家事が出来なければ夫くんが困る。その際は長女と結婚すればいい。それで家は続く」と当たり前のように考えたのでそんなことを言ったのだと今になると分かります。
しかし今は「個」の時代、そんな言い分では傷付く人がいるわけです。
現に私には「早く死ね」とか「家事が出来なければ離婚しろ」と思われているのかと思いショックを受けたわけです。
ただいえることは両親はそろって「非常に考え方が『家』に拘りすぎる」ことと「言った言葉が相手を傷つけることがある。」「言っていいかどうかより自分の気持ちや常識を(親しい人には)最優先にしてしまう」という悪癖があるのは確かでしょう。
実際には昔の負の遺産の考え方に振り回されたかわいそうな二人だとは思います。
そのことを理解し、その中で苦しんできたこともあったかもしれないことは認めはするが許さんけどな!!(笑)
さて話をその日に戻しましょう。3時間のお茶で帰ってきた親はすぐに帰りましたが、もう面会時間終了間際。その日はほとんど夫としゃべれず終わってしまいました。
なんだかずっと砂利を噛んでるようなそんな変な気分でした。
翌日の月曜日、「今日からリハビリ始まりますね」と研修医の鹿児島君(仮名)に言われました。
作業療法45分、理学療法45分のフルコースです(笑)
なおリハビリ中だけは絶対安静が解けるけど基本的にトイレ以外病室にいて安静にすること、移動は全て車いすは変わりませんでした。
ただ指に着けた酸素濃度計のセンサーがはがれて一安心。片手が自由に使えるのが嬉しかったのをよく覚えています。
初めてリハビリ室に入った時に愕然としました。
みなさん、もっとひどい状況なのに真剣にリハビリに望んでいます。
それを見て私はかなり軽い方なのだと自覚をするとともにますます弱音は吐けない、と思いました。
まずは作業療法から。程度を見極めるために字を書くことに。
入院時は字すらちゃんと書けなかったのですが、書けるようになっていて一安心でした。ただ最初はかなり大きい字でした(今もノートのBだと書くのがきついですね・・・大きく書く分には大丈夫です)
どうやら手の麻痺は薬指と小指がややひどいこと、右手に力が入り辛くなったこと程度だったのです。これは正直本当に助かったと思いました。
というのも鉛筆も包丁もお箸も親指と人差し指だけでにぎる変則的な持ち方をしてたのでほとんど生活では困らなかったのです。(散々親や周囲には治そうとさせられたがなおらなかったのがよかった珍しい例w)
次はブラインドタッチ。これはひどかったですね。
左手は問題なく動くのに右手が動かない、脳の中にあったパソコンの地図が吹っ飛んでしまったようでした。
イラついて思わず自分の右手を叩いてしまいましたが治るわけでもありません。
リハビリで一番初めの難関「できることが出来なくなっていること」を受け入れるのは少し時間を要しました。
続いては理学療法。作業療法が生活のこまごまとした手の動きのリハビリをするのに対してこちらは歩いたり自転車乗ったりの体を動かすリハビリです。
いままでトイレと室内くらいしか歩いてないので立てることは分かっていましたが、歩くのはどうなのか・・・
平行棒と呼ばれる手すりに挟まれた空間に行き、手すりを使い歩いてみると時折ガクリと右ひざは抜けたり、右足が蟹股で変な方向に行くものの『とりあえず歩ける』ことが判明。これにもホッとしました。
あとはリハビリや生活を続けることで生活は何とかなるだろう・・・と光明を見出した時でもありました。でもどこまで回復するかはわかりません。
病気をする前に思いっきり走っとけばよかったな・・・とその時に思いました。
今では杖さえ突けば普通の生活が出来ますがさすがに走ることは無理です。
時々、もっと走っておいてその感じをもっともっと覚えておけばよかったと思っています。
まあそれ以来、入院中は土日以外はリハビリを毎日受けることになりました。
リハ室はなかなか面白かったし、退屈の入院生活では結構楽しみではありましたが、困ったことが一つ・・・
HCUに居た時から起こっていたことなのですが「眠くなる時間がバラバラ」なのと「お腹が減る時間がバラバラでお腹が減ってないときには無理しても食べれない」ということが起こってきていました
消灯が10時でも寝付くのは4時とか、逆に昼間に眠くなってしまい眠いのに無理やり回診や検査、リハビリに行くのはちょっと辛かったです。
また食事も時間が決まってますが、予定外の時間にお腹が減ったり(10時半と4時にお腹が減る)するのですが予定の時間まで我慢すると今度は食事が出てきても入らなくなったり・・・
退院してから読んだ本で「脳が傷をつくと場所に問わず脳の伝達物質の増減の異常が起こり日内時計が狂ったり鬱状態や自律神経失調症になることが非常に多い」ということを知りました。
最初は甘えかと思いなんとか昼間寝ないようにしてもやはり寝付くのは3時4時・・・
で、7時には朝ご飯が来るのでいつも睡眠不足状態。お腹が減らない時間に食事が出ても大食漢だった自分が半分くらいしか食べれずいつもギブアップ。
これは多少良くなりましたがやはり今でも悩んでいる症状ではあります。
でも体重増えもしなきゃ痩せもしなかったのが一番の謎(笑)
入院中はいろんな検査をしました。血液検査、造影剤を使ったMRIをはじめ神経伝達速度テスト・・・
神経がどれだけ生きているかを見るテストで弱い電流から徐々に強い電流にしてどれだけ感じるかを見るのですが・・・痛い・・・涙が出るくらい痛い。
最初に見てくれた女の先生がやってくれたのですがそれ以降内心「女王様」とその先生にあだ名を付けたほど(笑)
検査に問題はなかったですが自分にM素質がないこともわかった検査でした(爆)
その他ピルが原因ならば足に多くの血栓があるはずということで受けた足のエコー検査も全くの問題なし。
かなり健康的な血管をしていたそうです。やはり定時制で仕込まれた料理の腕は健康にかかわるのかな~?なんて思いつつも脳梗塞になっちゃったんだから関係あるんだかないんだか(笑)
もう一つは経食道心エコー。これは胃カメラのように口から飲みこみ、エコーのソナーを食道の裏に持っていきエコーを取るもの・・・
最初普通の心エコーで問題がなかったので取らないはずだったのに、他に原因疾患が見つからないため取ることに・・・
ほら今は胃カメラって結構小さいでしょ?でもエコーのソナ―だからでっかいでっかい!
胃カメラもうけたこともないのにいきなりハイテンション過ぎる!
しかも一番苦しい心臓の真裏で止めてエコーを取るのですよ。いやもう、自分Mっ気ないんでなしでお願いします!というくらい嫌だったし苦しい検査でしたorz
(これが機械ですが右側の丸い方がソナーです。うずらの玉子よりはでかかった気がします・・・)
もう涙と涎でぐちゃぐちゃの検査の結果、「問題のない程度の軽い心臓弁膜症。心臓の中隔には穴はなし」という良い検査結果。
検査後、喉は嗄れるし痛いわで「この苦しみの持って行き場がないわ!」とふてくされたのもいい思い出・・・(に早くしたいと思っている)
あ、結構のど飴って薄荷が入っているでしょ?薄荷は軽い痛みどめの効果があるのでもしこの検査を受ける方はあるといいかも・・・
私もネットで知り、終わった後はずっとのど飴なめていました。
さて、そんな検査、リハビリ三昧な日々でしたが親や姉は数日に一度は来ます。
正直来ると笑うことしか、おちゃらけることしかできない自分には重すぎる人でした。
入院して一週間が過ぎ、心電図も外されました。と同時に病棟内なら自由に移動してよいことになりました。これからはシャワーも浴びれるし、何より親か夫に頼まざるえなかった洗濯が自分でできます。
なので電話で「絶対安静が解けて洗濯もできるようになった。来るのも大変だと思うしお金もかかるし時間もかかるしお見舞いは来なくていいよ」と言ったところ、「私が行きたいんだから行ってあげているの!!お前の意思は関係ない!!」と怒鳴り返される始末。
もうここで私の気持ち<母の気持ちになっています。
来ても何もせず「早く元気になれ」とか微妙に圧力をかけてきます(本人はその気がないんでしょうが)
夫がいれば私そっちのけで夫と話すことばかり。そして微妙に「ホントうちの不詳の娘が病気ばかりでごめんなさいね」と落ち込ませる・・・
本当にあの時は寝不足と精神不安定でどんどん自分が壊れてきているのを感じていました。
看護師さんには「Kaoさんの所のお姑さんよくきてくれますね~(^^)」と言われる始末。
「あー、あれ実母なんですよー。」と答えたら看護師さんが止まってしまったこともありましたね(笑)ゴメンネ、看護師さん。
それくらい他人が見ても私<夫だったのでしょうね。
入院して10日目頃の休日だったと思います。
母が見舞いに来ました。その日、夫は休日出勤で夜来ることになっていました。
開口一番「あれ、夫君は?」
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