あの時結婚しなくて良かった!〜今もシングル幸せを実感する私の本音

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2011年3月11日



京都。


人工呼吸器が装着されている患者さんの個室にいた私は

患者さんが見ているテレビで何かが起こったことを知った。


その日は職場でトラブルがあり、私の意識はそちらへ向いていた。


東北が大変なことになっていることを知ったのは翌日だった。

私が勤めていた診療所があるM市や暮らしていたI市

知っている場所が次々に報道されていた。


私は2009年春までの約3年間 宮城県で暮らしていた。


最初の1年を暮らしていたI市は甚大な被害を受けていた。

そこはかつて結婚するつもりだった彼が住んでいる。


彼は生きているだろうか?


無事だろうか?

彼の家は海岸からかなり距離があったはずだ。

でも地震が発生した時間は仕事中だったのではないか?


すべてが大混乱している中で

彼の生存を確かめるのか 確かめてどうするのか?


苦しかった・・・



大事なひと


彼とは2004年の秋に出会った。

初めてバイクで東北を旅した時だった。


彼に出会って私は「生きていて良かった」と思った。

世界が輝いて見えた。

宮城と京都で遠く離れていて 月に1回会えれば良い方だった。



半年も経った頃だったか彼の様子が変わってきた。

彼には精神的な病気があった。

健康的な部分が多かったから、いずれ良くなると思って見ていた。

看護師という知識からも個人的な願いからも。


ところが状態は悪くなるばかりだった。


受診をして薬は飲んでいるものの、原因から距離を置くとか完全に休養するという

具体的な解決への環境づくりをする気が本人に全くなかった。


お家の問題 仕事のこと そして私とのこと。


彼はすべてをパーフェクトにしようとしていた。


近くにいて自由に会える状態になれば彼の負担が減るのではないかと思った。

両親も彼も彼の家族も反対したが、私は彼の住むI市へ引っ越した。



東北での暮らし



京都から離れて暮らしたことがなかった。

それでも彼と毎日でも会えると思うと、馴染みのない街で暮らすことは楽しかった。

彼の家から車で30分 電車の駅まで10分弱 

買い物や役所の手続き 日々新しい環境の中で暮らしを整えてゆくことが

希望に満ちていた。



反対していた彼も彼の家族も受け容れてくれて、しばらくは彼の調子もよく

私は嬉しかった。



しかし彼の調子が良い状態は長く続かず、不安定な状態がひどくなっていった。



彼の受診に付き添って医師と話したり

仕事を休んで1日付き合ったり

彼のお母さんとも話したり

・・・彼はやがて私を疎ましがるようになった。



彼の側に来てみて初めて分かったことは

こういう状態は初めてのことではなく何度も繰り返してきたということだった。



春に宮城に来てその年の冬には、お互いに限界が来た。





その後京都へ帰る気力もなく I市を離れてT市へ移った。

仕事がその時の私を支えてくれた。


東北は寒い期間が長く夏が短い。

地域によってはかなり保守的で街中でなければ、女性のひとり暮らしはほとんどないようだった。

職場以外に知っている人もなく 私は孤独だった。



やがて両親の健康上の問題、アパートの契約更新での問題があって

京都に帰ることにした。




「アンタは運の強い子や」


もし彼と結婚していたら

もし京都に帰ってこなかったら

私は今ここにいなかったかもしれない。


一緒に働いていた人や患者さんが何人も亡くなっている。

勤めていた診療所は膝まで浸水して、レントゲンや心電図は全てダメになったそうだ。


被害状況が入ってくる度に足が震えた。

恐ろしくてテレビは見ることができなかった。



彼の安否を確かめるか随分悩んだが

あれから連絡も一切取らず全くの他人が、こんな大変な時に確認することは

非常識に思えたことと

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