「客員研究員」という変わった肩書き。
はじめに
僕の社会人デビューは派遣社員からでした。それから暫くはいくつかの派遣先をこなして、そろそろまた自分の作りたいものに打ち込もうと思っていた頃のことです。
フレームワークのプロジェクト
僕が派遣社員として最後に参加したプロジェクトはあるフレームワークを作成するチームだった。それまでの現場もなぜかフレームワークを作る場所にいる事が多く、それなりに経験させてもらった。当時はStrutsが有名なフレームワークとしてもてはやされていて、様々な組織がそれっぽいものを作ろうとしていたりした頃だったと思う。27歳位なので、2004年位の事だろう。
とりあえず面接。そのプロジェクトのリーダーの人と会話して
「何か見せられるコードある?あったらメールしておいて。」そう言われて送っておいた。後で
「綺麗なコードを書くね。」
と褒められて少し嬉しかったことを覚えている。
その人K弟(後で兄も出てくるのでK弟と書く)さんは気持ちは熱いし、自己流だけどクラス設計にも目のある人だった。当時デザインパターン等も勉強していた自分は、その人の仕事をフォローしながら現場に近い所をやるポジションだった。それまであまりクラス設計で他人と相談する事は無かったので、K弟さんとの時間ではどういう設計が良いものかを刺激し合ったと思う。
3年目でもまともなコードの書けない親会社の社員とは全然違うと思った。やはりコードが書ける人は頼りになる。
勧誘
そのプロジェクトで派遣が最後になる予定だという事ははじめの頃に伝えていて、僕としてはプロジェクトが良い形で終わって、はやく自由の身になりたかった。アプリケーションよりもフレームワークを作る事に心が移っていたから、何か新しいフレームワークを自分で作ってみたいと思っていた。
言語はその当時WEBではスタンダードの地位を固めつつあったJavaが適当だろうと思っていた。Eclipseのような環境があってリファクタリングがしまくれる事から、リファクタリングマニアの自分が惚れ込んでしまったという事も理由だった。
そんな未来を妄想して過ごしていてたある日、K弟さんからこんな事を言われる。
「俺、もうすぐ起業する会社の創業メンバーになるんだ。マサシ面白いから一緒に来ないか?派遣やめるんだろ?」
聞けば彼の兄と、その友人達で、ある会社の子会社的な形で会社を作るのだと。親会社からはかなり裁量を任せてもらえるので、自由にやれるという事を言われた。
自分の人生の中で起業というものが関わったのは二度目になった。
お断りさせていただきます
自分としては、またどこか会社に属すれば自分のやりたいことはドンドン遠のくような気がしていて、やはりはやく自由になりたかった。
結局「今やりたい事が他にあって、それに時間を費やしたい」と思っている事を話して、JOINする事は難しいと言うしか無かった。
確か品川プリンスホテルの喫茶店で、K兄弟と、新社長のYさん、アーキテクトのOさんと、新会社の主要メンバーが一同に会した中でこんな話をしたような気がする。
客員研究員
イロイロ話した中でYさんが言った。
「じゃ、客員研究員とかどう?非常勤でその気になったら働いてもらって、会社に貢献できそうな内容があったらお金を払うよ。」
よくわからないが、かなり自由度の高い研究系の社員のようなものだということはわかった。僕としてはこの新会社は面白そうだとは思っていたので、何かしら関係性を持てるならこういう形も良いのだろうと考えて、引き受ける事にした。
よくわからないままに客員研究員というあまり聞いた事のない肩書きでJOINする事になったのだった。
会社設立前夜、そして解散!?
細かい話は割愛するけれど、その会社が登記される事は無かった。裏にはこの会社が子会社であるという事情と、それぞれがどんなポジションで会社に貢献したいかというところの折り合いを付ける事ができなかったという事情があった。
会社設立と思って集まった全員ミーティングで、最終的に設立されない事が伝えられた。なんだか肩すかしを食らった気分だった。
その晩僕らは終電を逃して当時のK兄弟の事務所にいたのだが、Yさん、K弟さん、僕は寝付かれずに話し込んでいた。話しているうちに、なぜか先の子会社とは違う形で会社を作るような話になっていて、次の朝にはそれが決定事項になっていた。規模は小さくなるけれど、結果的に新会社が出来る事になった。
当時ガラケーがかなり発展して、カメラ付きになったりラジオやGPSが使えるようになってワクワクするような環境が出来始めた頃だ。新会社もケータイのアプリを作る会社だった。自分はC++のライブラリやらフレームワーク的なもの、サンプルアプリなんかを作って先行開発的な所を気の向くままにやらせてもらっていた。思ったように画像が出なかったり機種によって動きが違ったりと、デバイスに依存するものは大変だと学んだのはこの頃だ。
客員研究員2
かなり割愛するが、いろいろあってYさんはSという別の会社との付き合いを始め、近くそこの副社長に収まるのだと言う。そして僕にも遊びに来いという話になった。
面白いことに、K兄はそのS社の社長の愛弟子だと言う。K兄は腕の良いプログラマーで、その師匠がどんな人かとても興味がわいた。
S社の社長曰く「面通し」と名付けたその会合に、僕は自分が作っていたRSSリーダー(久しぶりにC++で、プラグインを使いまくる思想でやっていた。)を持って行った。デモはうまく出来なかったのだが、S社の社長Y田さんは僕を気に入ってくれた様子だった。
例のごとく僕は会社にどっぷり浸かる事を嫌がったので、Yさんによって「客員研究員」が提案され、都合この変わった名刺を2枚持つ事になった。
この会社は今ではあまり馴染みが無い言葉かもしれないが「リッチクライアント」という分野の製品をJavaで作っていた。僕はそのメジャーバージョンアップのアドバイザ的な役割を貰った。設計についてのアドバイスや、外部ライブラリの提案、サンプルプログラムや解説のような所を行っていた。基本的に報酬の範囲内を自分の裁量で行動するので(非常勤なので出勤に関しても縛りは無い)、柔軟なやり方で働けていたと思う。
世間一般的な客員研究員がどんな仕事をしているのかはよく知らないが、僕がやっていたのは社内に外の情報を持ってきたり、利害関係の薄い第三者としての目という機能だったと思う。
今回も長くなってしまったが、このテーマ的にはこの辺までかな?続きはまた別の機会に記そう。実はこの時間の中で僕の人生に強く影響している何人かが出てくるのだが、残念ながら書ききれなかった。
こぼればなし
客員研究員の名刺は面白い効果があって、飲み会などの席では好感が高いようだった。そんな名刺を二枚も持っている人もなかなかいないので、ちょっと自分のキャラが立つような感じだったと思う。肩書きのお陰で自分の格好良さ1.5倍みたいな感じだったろうか。都合良く活用させていただいた。
Y田さんは僕が見習いたいと思う経営者の一人。当時、頑固な僕はお酒を飲む度にいつも喧嘩していたけれど、そんな事を些細な事だと笑い飛ばしてくれる器と魅力のある人だ。
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