昔、友人が自殺した。身辺整理も手伝った。

著者: Kato Keiichiro

彼が亡くなったのはこれを書いているちょうど二年前。

2012年9月21日に亡くなりました。今日は2014年9月21日です。


自分自身への贖罪という意味合いもあります。これが、贖罪になるかどうか、わからないですが。むしろ逆かもしれません。

どちらにしても、許されないでしょうが。


この文章で一人でも自ら命を断つ人間が減ることを願っています。

このPさんの別の話

アルコール依存症とその末路

http://storys.jp/story/12150


トラブルメーカーとして扱われていた彼。

 彼のことをPさんと呼びます。Pさんは大学の時に私が三年生のとき研究室に入った時に出会いました。うちの大学としては、とても優秀な方でした。共同研究として学習支援システムを、彼の友人と数万行のコードを書いて、サーバをクラスタリングし、運用していました。

 いろいろと問題を起こす人であり、周囲からトラブルメーカーとして扱われていました。締め切りを守れなかったり、急に怒ったり、とても遅刻したり、留年したり、学生結婚したり。様々な噂がありました。

 彼自身もそれについて、恐らくは悩んでいたのだろうと思います。もともとは、陽気な人でしたから。


 留年して、大学院に進むとなった時に、当時彼と中の良かった教授と揉め、また、聴講していた授業もいかなくなりました。それで、違う大学の大学院に進むことになりました。

 彼は、学習を専門にしていました。彼は、高校を卒業しておらず、検定試験で大学に入った人なので、それもあるだろうと思いますが、人のためになることをする。そうは直接は言ってはいませんでしたが、なんとなく、そのために動いているような気がしました。

 私と彼は、コンピュータが共通語で、こういう新しいサービスがあるといった、そういう会話をしていました。彼はアマチュア無線もやっており、家にアンテナを立てて、無線で通信していました。その話をするのは楽しそうでした。「コールサインっていうのはCQ!CQ!っていうんだよ~」という感じで。

 彼は常日頃、「明日死ねるから、今日生きられる」と言っていました。それだけ、辛かったのでしょう。

 彼は学生結婚して、妻と住んでいました。子供もいました。彼の親との関係や、彼の周りとの関係が上手く行かなくなり、アルコールに走るようになりました。アルコール中毒になるまで、時間はかかりませんでした。アルコールが飲めなくなる(アルコールを摂取すると気分が悪くなる)、抗酒剤という薬を飲んでいました。また、他の内臓系も悪いらしく、食後には内科と精神科の薬を合わせて大量の薬を飲みながら生活していました。薬の副作用も辛かったように思えます。

 アルコール依存により、妻に対してDVに走り、夜逃げされてしまします。それは、それでショックだったのかもしれません、妻の方は離婚を希望していましたが、彼はできるだけ離婚したくなかったようです。

 彼は新しく友人を作りました。Wさんと名付けようと思います。Wさんは双極性障害で、躁状態になると、語感がとてもきつくなり、また、彼とすぐ仲が良くなったため、Wさんの躁状態の罵声を浴びることに度々なります。それは、かたらわからみていても、とてもキツイ単語がならなんでいて、彼の家に泊まりに行った時に、チャット中に抑うつ状態で動けなくなってしまうほどでした。

 あるとき、スカイプでこう言われました「限界が来た」、と。つまり自殺しようと思う。ということです。本気なのかと聞いたら、そうだ。と帰ってきました。「明日死ねるから、今日生きられる」と言っていた彼でありますし、当時私も死にたいと思っていたので、とても、止められませんでした。それは、今では悔やんでいますし、死ぬまで、考え、悩み続けることでしょう。それは、私に対する罪であり、背負わなければならないものだと、考えています。


身辺整理

 身辺整理を始める。ということになりました。妻が家に度々訪れるため、少しずつ少なくしていく。というところで、本や物を譲ったり、売ったり。少しずつしていきました。

 これから、訪れる人が少なくなる。というところで、一人暮らしでは広すぎるという名目で、どんどん物を捨てたり、売ったり、譲ったりしました。私が今メインで使っているモニターは彼から譲り受けたものです。私は収集家なので、わりと多くのものを譲ってもらいました。

 その代わりとして、いえ、代わりではなく、前からきまっていたことではありますが、彼のレンタルサーバーをできるだけ長く保守し続ける。ということになりました。サーバー代金は現在時点で残り8年分すでに前払いされてあります。それだけ、彼はいろいろなことに関わっていましたし、それがストレスにもなっていたのでしょう。

 少しずつ家から物がなくなっていく。引っ越しではなく、死ぬために。それを手伝いつつ、とても虚しい感じがしました。人の死は静かなものだという、感覚が得られた気がします。

 

最期

 最後、片付けたものの、捨てるゴミが多すぎたので、ごみ収集の業者に頼むことにしました。庭先に大量に積んであったゴミが、一気になくなっていきました。

 決行日が近づき、最後に何かしようということで、カラオケをすることにしました。私は以前心因性失声症を患っていたので、彼とはカラオケに行ったことはありませんでしたし、私の歌声を聞いてみたかったのでしょう。

 リビング件キッチンには布団と小さな机と、ノートパソコン、インターネットするのに必要な少しの機器のみが残されていました。彼に会った最後の日、「それではまた」みたいな、また会えるかのような、そういう別れ方をしました。恐らく、お互いそれが一番辛くなかったのでしょう。

 決行直前まで、チャットをしていました。どうでもいい会話でとぎれて、こちらから、発言しても返事はありませんでした。

 翌日、Wさんから連絡があり、Wさんに最後に通話していた。ということで、警察から電話が入ったそうです。彼は苦しまず、静かに亡くなった。と警察から聞いたと、言っていました。その時初めて泣きました。チャットごしにWさんも泣いていたようです。とても、とても悲しく、辛かったように記憶しています。

 後日、彼のお母様から、電話があり、FAXしたいとのことで番号を教えました。少しすると、FAXが送られてきて、お母様からの手紙と、彼のエンディングノートの私宛のページが送られてきました。

 彼から、以前から、インターネット系とサーバについて聞いていたのと相違ないものでした。私は、それに基づいて、mixi、Facebook、Google+、彼のサイトなど、彼が亡くなったことを私の署名入りで告げました。

 私の名前が残っていることは、罪ある人間だからであり、仕方ないことだと思います。

 たまにインターネット上で「死ね」という単語を見ることがありますが、私がその単語を使うことは、リアルでもネットでもないでしょう。死ぬことの辛さを知っている人間なのですから。

 もちろん、精神的にあれていて、暴言を吐くことはありますが、その単語を使うことはありません。


 私はどんなに嫌われても、憎まれても、仕方のない人間だと思っています。しかし、やはり人間なのでそれで、他人を憎しむこともありますが。

 人というのは、難しいものですね。私はいつも悩んでしまいます。


 自分自身、絶望することもありますが、より多くの人が、希望を持ち、自ら命を絶たないことを願っています。



この文章は、経済評論家・勝間和代様より、「両方読ませていただきました。Pさんのご冥福をお祈りします。」との言を頂きました。


<了>


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