本当にあった海外留学すると必ずあると言われる逆カルチャーショック

著者: Suzuki Takuya


    

高校まで割りかし不良社会にいて、最初のキャリアはとび職。その後にIT企業で法人営業をしていたのだがバカ過ぎてやばいと思い大学に行くことを決め家族の支援もあり留学し最近卒業した。

▼大学に入学するまでの経緯:【本編】もし元とび職の不良が世界の名門大学に入学したら・・・こうなった。カルフォルニア大学バークレー校、通称UCバークレーでの「ぼくのやったこと。」の話

http://storys.jp/story/9679

卒業し日本で仕事があったので帰国したのだが、噂に聞く逆カルチャーショックがマジであったのでそれについて書いてみた。

帰国

僕はアメリカの大学で勉強するために、5年間留学した。

海外留学して日本に帰ると逆カルチャーショックがあると聞いていた。

正直僕には無縁だと思っていた。だってコテコテの日本人だし、24歳まで日本で生活していたし、日本社会に溶け込んでいたからだ。


久々に生まれ育った地元に帰り中学からつるんできた友達と会って話をしているとなんだか距離感がある。


「なんか変だな。。。」


一通り話をし、こんなことを学んだ、こんなことがしたい、など話したらやっぱり違和感があった。

そう、逆カルチャーショックを受けたのだ。



アメリカで学んだクリティカル・シンキング


     


僕が勉強していた大学は、無条件に受け入れてしまいそうなことに対して


「なぜそうなんだろう?」


という問を常にかけることで無意識に感じることを意識化したり言語化することを徹底的に鍛えられる環境だった。僕は政治経済を勉強していたので授業でも、


「本当に政府は正しいのか?」

「平等とはなにか?」

「自由とはなにか?」

「貧困ってなにか?」など哲学的なことを問う。


それに対して自分なりに考え、内容をまとめ他の学生とディスカッションしたり論文にまとめたりする。論文では簡潔に書くが、ディスカッションでは逆に話を膨らませアイデアを発展させたるように会話を沢山する。僕はまじめな性格だったこともあり、そういった事を考えるのが好きだった。周りにもそんなことが好きな友人が多くプライベートでもそんな話をする機会が多かった。


物事を批判的にとらえ、思考することは極めて重要だと学んだ。だからどうでもいいような事でも


「これってなんでだろう?」


と考えたり、自分なりの答えが思いつくと周りと話をしていた。それを帰国した時に地元の友達にもやっていたのだ。


「なぜこんなに熱いのにスーツを着るのか?」

「どうしたらそれを改善することができるのか?」

「家族愛ってなんだ?」とかいろいろ。


ただ、そんなことを声にだすかどうかは話が違うのだと日本に帰ってから気づいた。


理由を口に出すと理屈っぽい人になる

英語で会話をすると何かを発言した後にほぼ必ずbecauseがつく。どんなしょぼい内容でも理由を常に探しながら会話をすることがとても多かった。

慣れ親しんだ仲間のいる地元に帰り昔話をしたり色んな話をする。僕は当然いつものように疑問が沢山あがる。なぜそう思うのか?なぜ?なぜ?なぜ?一度問を思い立つのそれについて会話の途中でも考えてしまう。自分なりに考えがまとまるとそれを口に出し話す。「これって要するにこういうことなんじゃないかな!」するとどうなるか。


ウザがられる。


普通の会話からはじまり「アメリカはどうだった?」とか「これからどうするの?」とか聞かれそれに答えていく中で自分的にここだけは譲れない領域の話題が起きるときがある。そうすると自分が全力で考えたことを共有しようと頑張って伝える。するとどうなる。


ウザがられる。


それだけじゃない。もはやこうなってしまうとすぐイラつかれるので「これいいね!」という発言のあとに「だってさー」と理由をつけ始めると周りの反応はどうなるか。


やっぱり、ウザがられる。


僕は悩んだ。「いったいどうすればいいのだろう」


僕が留学する前に知り合った、ちょっと意地悪で怖いインテリな人は他人を理詰めして攻撃したり上から目線で話をしている光景などを見た記憶が蘇った。


そして気づいた。


今僕がやっていることは当時ちょっとうざいなーと思ったインテリの人と同じだった。

そりゃウザがられる。


相手はただ僕に共感してほしいだけなのに理屈を話してしまっていた。


僕は全力で、必死にアメリカの環境、僕の通っていた大学に適応しようと努力した結果、もっとも大切で自分の強みであったはずの人間力を失いつつあったと気付かされた。相手を思いやり話を聞いて心から共感することができなければ人といい関係なんて作れない。そんなことを地元の友達は教えてくれ帰国しょっぱなの出鼻をボコボコにへし折られ初心に帰る準備をすることができた。


コミュニケーションとは


                  


僕が理解していたコミュ力は伝える力だった。うまく考えを伝えるには無意識を意識化しその情報を構造化してわかりやすく順序だてて伝えていく。時には演繹的で帰納的だったりする。いずれにせよ論理的で理屈っぽい。


というか理屈そのものだ。


でも本当に必要なのは相手を尊重し理解し共感することで自分の意見を論理的に構造的に伝えるのはごく限られた場面だけでいい。

僕はこう思う!っていうメインアーギュメントだけ言えばよくてそれを証明する理由、トピックセンテンスや例題をわざわざ口に出して話す必要なんてない。人の意見を聞いてそれに対し


「おれもそう思う」とか

「それいいね!」とか

「熱い!」とか自分が純粋に思うことだけを言えばいい。


余計な理屈を普段の会話で言う必要なんてない。そんな当たり前なことが僕にとっての逆カルチャーショックだった。

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