余命3ヶ月の末期ガン。ガンは消えたけど◯◯は消えなかった話。
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何の為の共働きで、何のためにあなたは単身赴任してるの? と間違いなく怒られる。そう思ったが相談せずにはいられなかった。そしたら妻は1日だけ考えさせてと一言。そして翌日結論を出してきた。
はたまた快諾である。考えている暇があったら行動あるのみといった感じでディーラー巡りまで付き合ってくれた。大変ありがたくもあり申し訳ない気持ちもあったが正直嬉しかった。
あいにく新車は買えなかったものの、父の欲しかった車リストの一つにあったLEXUSのスピード納車が決まった。おそるべく理解のある妻だ。全ては父のナチュラルキラー細胞を活性化させ
「生きること」への希望の架け橋をまた一つ突貫工事する為に。
はたまた妻と私の思惑通り、気分を乗せる作戦はばっちり功を奏したようだ。今まで俺に運転は無理だと言っていた父親が、率先してハンドルを握り母親を助手席に乗せている。
父は明らかに心が踊っていた。
通院も何かあってはいけないと、はじめは家族が同行したものの、後々は自ら通院。
1日30分の陽子線照射治療を受けては足湯につかり、身体を温めて免疫力を高める。そんな行動が日課となっていった。そして無事終了にこきつけたのである。
※ちなみにこの病院は基本保険適応外治療のため入院施設はなく、敷地内のホテルに連泊するか指宿市内で温泉旅館に連泊するか、通うというスタイルである。
9.人生最大の決断
指宿での治療も終わり自宅療養を行うこととなった。自宅療養といっても普段通り生活するだけである。
変わったことといえば唯一、大きな決断があった。人生のイベントの中で5本の指に入るであろう大きな決断であった。
生涯のほとんどを寝る暇も惜しみ捧げてきた自分の会社をたたみ、休養に専念する決断をしたと言うことである。
「愛する妻のため残された時間を過ごしたい」そんな想いを父は語っていた。
そんな想いと、母の「父を笑わせ続け幸せにする、元気にする」という想いの歯車が、最初は噛み合わずに空回りしていたところもあったが、ついに綺麗に噛み合い着実に前に進みだした。
後に聞いたが父は頻繁に私の妻に相談の電話を入れていたらしいのだ。看護師ゆえの的確なアドバイスと、すごく癒される励ましだったらしい。誠にGOOD JOB!である。
そして還暦を迎えた1月24日。親族が集まりお祝いが開かれた。もちろん親族にも父の病気のことは話してあるので、もしかすると元気な姿で会える最後の誕生日会になるかもしれないとの想いで来られた方もいたかもしれない。
そこには多くの人が集まってくれた。
しかし父はここであるコミットをした。
目標と希望を持ち、誰かのためにそして自分の為に生きることを強く願った瞬間だった。
10.初孫
間もなくして弟の子供が生まれ、おじいちゃんとなる夢も叶った。
初孫は非常に可愛いそうで、遠方にいる弟の息子を見る為にもっぱらタブレット。
しかしそれだけでは物足りず、実物に会いに行くため自らハンドルを握り300キロ離れた孫の元に遊びにいく父。
かくして更なる生きがいを手に入れたのだった。
11.ストイックな毎日
会社を興し管理運営してきた父は自分の体調管理についても非常にストイックだった。
徹底して本を読み、病院でも先生と食事や運動についてしっかり相談し自分のルーチンを決めていった。
ルーチンは以下の通りだ
1,朝起きたら足湯で身体全体を温める。
2,毎日ウォーキングマシーンに乗り1日も欠かさずウォーキング。
3,お酒は一切口にしない。
4,たんぱく質は極力植物性に切り替え摂取。
5,自給自足の野菜生活。米も勿論自家栽培。頂くときは玄米で。
意識して抗ガン作用のあるといわれる食品を摂る。これに関しては本を読みながら食べ合わせ。
6,早寝早起き。
7,ストレスは発散しよく笑う。※ちまたでは抗ガン作用が増えるのだとか。これに関してはポジティブ母親がかなりの貢献度を示している。
8,食事では補えない栄養価はサプリを使ってしっかり補給。
この生活を1年続けたのだった。
しかし、努力したのは父親だけではなかった。先進医療が効かなかった場合、抗ガン剤治療を受けずに悪化したら緩和治療(モルヒネ緩和)のみを希望していた父に、母親もタダでは転ぶまいと必死だった。
私の妻が言っていた、
この前向きな提案をばっちり受け止め、底抜けに明るい立ち振る舞いで父親の笑顔、そして家族の笑顔を作る立役者となってくれていた。
12.消失?
3ヶ月に1回ほど市民病院で定期検診を行いメディポリス国際陽子線治療センターに検査結果を送ってもらっているのだが、その病院で主治医より思いもよらぬフィードバックがあった。
2015年11月の事だ。
このような話になりはじめて父親は本当の余命を知ることとなった。
しかし生きる希望に満ち溢れた父は
何を言われても動じなくなっていた。そして10年という目標を語るのが口癖となり今に至る。
もちろんその時も母親は最高の笑顔だった。
あとがき
結果としてここで、何をすればガンが治るという明確な提示はできなかったものの、必ずしも末期ガンが悲しい結末を迎えるわけでは無いという事。何事も諦めてはならない、希望を持って本気で取り組めば払拭出来ることもあるということを書き残したかった。
辛い事があったら隠さず本当の事を言えばいい。自分のやり方が間違ってるかどうかは意固地になって自己判断せず、専門家に聞いた上で判断し行動する。人生を楽しく生きれるようポジティブシンキングになる。
この1年で父は背中を使って奇跡を勝ち取る為の教訓を教えてくれた。
容態的にはまだまだ油断はならない状況なのかもしれないが、心も身体もここまで人は変われるのだと言う教訓も教えてもらった。
そう。まるで以前本で読んだデールカーネギーの名言のようだった。
”最悪の事態を受け入れてしまえば、もはや失うものはなくなる。裏を返して言えば、どう転んでも儲けものなのだ。”
私にもこれから先、計り知れない困難が待ち受けているかもしれない。
しかしその時は必ず父の事を思い出し”笑顔”を忘れず、妻とそして家族と手を取り合って立ち向かって行こうと思う。
そんな”笑顔”にまつわるガンの体験をシェアさせて頂きました。最後まで長文をお読み頂いた読者の皆様に感謝申し上げます。
以上、余命3ヶ月の末期ガンの「ガンは消えたけど家族の絆は消えなかった話」でした。
優介
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追記
お陰様で余命3ヶ月と診断され、もはや絶望的とも言われていた父の容態も徐々に良くなり2年目を迎えました。
この件があるまでは、家族をかえりみず仕事一筋になりがちだった私ですが、徐々に価値観も変わりつつあります。一番変わった事は「家族との絆や思い出を大切にしなければ」と思うようになった事です。
そして今では我々夫婦と私の両親で、共に思い出作りの旅に出るようになりました。
ただ初めから上手くいった訳ではありませんでした。仕事の調整をはじめ色々な障壁を乗り越え、思い出作りができる環境を整えていく事ができるようになっていきました。また、父や私どものその後の生活や実践していることなど、色々なお問い合わせも頂きましたので、お手紙という形でまとめております。よろしければご覧下さいませ。
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