38キロ地点で待っている家族と仲間へ「必ず会いに行きます」初心者ランナー、抗がん剤治療を乗り越え東京マラソンを完走

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私が所属する「うな勝ランニングクラブ」の応援「のぼり」が立つのは、例年、東京マラソン経路の38キロ地点です。ゴールまであと少し、ここまで頑張ったランナー仲間を全力で応援します。


競争率10倍という東京マラソンに当選はしたものの、突然のがん告知で完走どころかスタートラインに立つまでの道のりがはるかに遠くなりました。…半年の軌跡を綴ります。


【定期検診後のがん告知】

僕の予想と違ったんだよね。治療方針を変えます

2014年7月、七夕の日に初期乳がんの手術を受けました。大きさは5ミリ。

ステージはⅠで、入院もたった3日。術後は5週間の放射線治療を「補助療法(再発予防のため)」としておこなって、おしまい! あとはホルモン錠剤を投薬治療...

…で終わるはずでした。

ところが、手術で切り取ったがん細胞を病理検査した結果わかったのは、

「微小乳頭浸潤」がん。

先生の言葉では「顔つきが悪い」細胞で、再発率が高いのだそうです。

なので、術後補助療法として放射線治療を1週間追加して6週間。さらに抗がん剤治療をする、と言うのです。


抗がん剤治療をするなんてそもそも聞いていないし、今はどこも具合悪くない。


それはしません!


と答え、抗がん剤治療は断固拒否するつもりでいました。

「時間はあるのでゆっくり考えてください」

先生はその日それ以上の話はせず、私も想定外の展開にそれ以上何も言えず、病院をあとにしました。


【53歳初心者ランナー 初マラソン・初完走】

その5ヶ月前の2014年2月、私は前の年から全くの初心者で始めたマラソンで初めての大会--東京マラソンに参加、初マラソン、初完走を果たしていました。

これからも仲間とともにもっともっと練習していこう!

旅ラン、駅伝、仮装などのファンラン、地方の大会...楽しい計画はいっぱいありました。

まさか定期検診でがんが見つかるとは...そんなこと、夢にも思わなかった。


【連続当選の奇跡 医師の意思と私の意思】

医師から抗がん剤治療への治療方針変更の話を受けた数日後、2年連続で東京マラソンに当選したことがわかりました。

東京マラソンの当選倍率は10倍。2年連続だと単純計算で100倍、ということです。


この当選で、「自分は抗がん剤治療を受けない」という気持ちが固まりました。

しかし翌月、術後の検査に病院を訪れると、医師はさらに治療計画を話します。

微小乳頭浸潤という細胞タイプのがんは再発率25パーセント、術後補助療法として放射線治療、抗がん剤治療を併用するとその確率が半分になる、と説明されました。

いえいえ、先生、私はマラソンを走るんです。東京マラソンは、ほとんどの人が当たらない。競争率は毎年10倍以上、2年連続なんてほとんど例がありません。100人に1人の確率なんです。(だから出場します)

こうしたやりとりが、8月後半から10月ぐらいまでの放射線治療(こちらは受け入れた)の間中、続きました。

ただ、私が東京マラソンに出場する決意は当選の瞬間からまったく変わりませんでした。

2015年2月の東京マラソンのスタートラインに立つ。何があっても。


【放射線治療と朝練】

何があっても出場する、という決意があったので、放射線治療が始まってからも練習は続けていました。

遠距離通勤で仕事をしているので練習は最小限。でも最大限の効果を上げようと工夫しました。

平日は週2回朝練1時間10キロ走。放射線治療を受けに行く前の朝4時半〜5時から走り、シャワー、支度、放射線治療、会社、という流れ。土日は20キロ前後のロング走。

放射線照射は平日毎日通う必要があります。それが6週間。その間は長期旅行など行けません。

ある日、放射線医が私に「疲れませんか」と、尋ねたことがあります。患者さんのなかには放射線治療でひどく疲れたり、また、場合によっては続けられない方もいるようです。

幸い、私はステージも早くがんの症状もなかったので、皮膚が乾燥して痒かった以外につらさは感じませんでした。なので、疲れないことはないですが、それが放射線治療のせいだったのか、マラソン練習のせいだったのか...区別がつきませんでした。

これは、ある意味ラッキーなことです。毎日が自分の病気にフォーカスするのではなく、常に「いかにしたら練習時間を確保できるか」ということばかりを考えていたからです。


【抗がん剤治療への決断?】

さて、放射線治療も10月には終わり、いよいよ術後補助療法の最大のキモとなる抗がん剤治療を受けるかどうかの結論を出すべき時がきてしまいました。

何度も何度も話し合い、一旦は「やらない」、と決意して診察に向かうも、結局

「僕は迷いなくやります」

と医師に言い切られ、11月には抗がん剤治療が始まることが決まりました。

マラソンについて、医師と私との会話は...

体力が落ちるだろうから無理だろうね...
では、練習はどうですか?
あぁ、練習ならいいよ。
わかりました。

実は、これでレースに出る決意が固まりました。私にとっては練習もレースも同じようなもの。医師がなんと言おうと「練習の延長であるレース」に出ることはできるはず。

もちろん医師には言いませんでしたが、心に決めました「絶対東京マラソンに出る!!


【ついに抗がん剤治療開始】

11月初旬、入院し、第一回目の抗がん剤を投与しました。抗がん剤は3週間おきに6回投与の計画となっています。

抗がん剤治療では強力な吐き気どめ、抗がん剤、生理食塩水の3種類の薬剤を点滴によって腕の静脈から入れます。


点滴中、末梢神経障害を防ぐために両手にはフローズングローブをします。フローズングローブは、キンキンに冷やした保冷剤でできた手袋です。「ドラえもん手袋」というニックネームもあるそうです。これをすると、つま先が真っ黒になるといった抗がん剤治療による末しょう神経障害、という副作用を避けられるそうです。


とはいえ、両手は氷の中に2時間包まれてしまうわけですから、凍傷寸前になります。痛いです。強烈に痛い。

入院は抗がん剤治療への反応を見るためのものだったので5日間。個室をお願いしていたので病室でユーチューブに合わせてダンスの練習をしたり、資格試験(ファイナンシャルプランナー)の勉強をしたり、夫や娘たちの見舞いを受けたりして過ごしました。つまり、普段どおりの生活ができました。


医師が「どうですかー」と聞きに来てくれます。


普通ですー
そんなもんです。大人しくしててねー。


実は病院は、私が普段練習をしている駒沢公園の隣。クギを刺しておかないと練習に行くだろう、との医師の「洞察(?)」だったのでしょう。

はい、病院を抜け出して走るつもりだったので、確かにトレーニングウェアとシューズは持参していました。どうも見破られているようであきらめましたが...

退院の日(抗がん剤から4日目)は荷物を運びに来てくれた娘たちと渋谷に出かけ、回転寿司を食べに行きました。元気そのもの、と思い込んでいました。「この分なら抗がん剤に勝てる!」と。


しかしながら...実はその頃から、少し体に違和感が生じていたのです。

まず、お寿司が全く美味しくない。味がわからない。

翌日は、さらに体調が落ちてきて、口内炎がいっせいに発生しました。

水を飲んでも痛い。また、歯茎が腫れ上がりました。

それなりにお腹は空くのです。何か食べたい。でも食べたら激烈な痛み。たちまちおかゆすら食べることができなくなりました。

そして発熱。

抗がん剤から1週間後、11月15日(日曜日)はしばらく前から準備していたファイナンシャルプランナーの資格試験当日でした。入院中も勉強し、模試もなかなかいい感触だったので試験もなんとかいける、と踏んでいました。


ところが、全く起きられない

試験を敵前逃亡したのは人生2回目。体調をくずして受験できなかった大学の入試以来です。

ひたすら布団に潜り込み、一日中暗闇の中でスマホで「抗がん剤、副作用」の検索ワードでいろいろな人のがん闘病ブログを読みました。同じような症状の人がいたらどのように対応したか、とにかく検索、読む、検索、読むの繰り返し...

月曜日になり予約なしで病院に駆け込み、白血球数の検査で白血球が減りすぎていることを確認。注射をしてもらいました。

医師は次回からは抗がん剤の量を減らすようにしてくれました。2回目以降の抗がん剤の量は1回目の8割ぐらいになったと思います。

そういえば、「低用量」治療はできないか、と以前に尋ねたことがありました。その時は「効果が疑わしい」ということで受け入れられませんでしたが、結果的に低用量治療となりました。ただ、2回目以降も抗がん剤の副作用がつらいことは変わりませんでした。

口内炎、味覚障害、倦怠感、そして2週間ほどして脱毛…副作用は次から次へと現れました。


【練習再開】

練習は、熱の出ている間はお休みしましたが、それでも身体は元気になろうとします。熱が引いて1週間ほどして練習を再開しました。

ただ、口内炎の痛みでご飯が食べられないので無理をしない程度に再開時は5キロ走。かなり体力は落ちたなと思いましたが、まだ3ヶ月あるので何とか回復させる、と自分に言い聞かせ、少しずつ走る距離を延ばしていきました。


次の抗がん剤治療をする頃には髪はすっかりなくなり、ウィッグのお世話になっていました。



三女が買ってくれたニットの帽子を目深に被って練習をしました。


着替えの時など、被り物のTシャツを脱いだりするとウィッグが取れるので、練習は全て自宅発、自宅戻り。ランニングステーションで着替えたりすることができなくなったため、よく通っていた皇居での練習には行けなくなりました。仲間との練習もなし、です。

とにかく1人黙々と走る日々。心にあったのは「必ずスタートラインに立つ」、ただそれだけでした。


激烈な副作用に襲われた最初の抗がん剤治療からあとはかなり警戒し、口内炎を起こさないよう口内の清潔に気をつけ、多少のだるさは我慢し、12月、1月が過ぎました。


【お正月過ぎ。ハーフマラソン出場】

年内に3回の抗がん剤治療を受け、残り半分となりました。間にお正月をはさみ、1月の年明けにはハーフマラソンに出場しました。体力は低下していましたが、本番前にハーフマラソンと30キロ走はこなしておかないといけないメニューです。


レースはいつも1人ででかけますが、この日ばかりは夫が一緒に来てくれました。ゴール付近で待っていてくれて、とても心強かった...家族とはありがたいものです。

ハーフマラソンは、その前年からは20分以上遅い記録でしたが、何とか完走。このままフルマラソンもいけるかな?と思いました。でも、抗がん剤を打つと、必ずしばらくは体調が悪くなります。味覚障害、だるさ、口内炎、便秘...

まだまだ油断はできません。


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