⑪ 無一文で離婚した女が、女流官能小説家になり、絵画モデルとなって500枚の絵を描いてもらうお話 「ああ、肌色が消えていく」
世界堂の油絵コーナー。
「最初は、このくらいの色数で、いいんじゃない」
「そうだね、色は混ぜて作るし…」
24色セットの、国産の絵の具セットを選ぶ。
「白の絵の具はチューブ入りのを別に買っておこう。なんといっても、白は大量に使うから…水彩で言うと、水がわりだものな」
あれほど、いやだいやだ、油絵なんてまだ早いよ…と言っておきながら、いざ売り場に来ると、彼はいそいそ嬉しそうでした。
「そうよね、白の色を、どれにするかが、問題よね…」
私もあるていど、油絵の具について、本で読んで知識を得ていた。
「シルバーが混じってるのは、発色はいいけれど、毒性があるから指で伸ばせないわ。鉛が多いとヒビ割れて来るって言うし…これが一番描きやすいんじゃない?」
私が手にとったのは、パーマネントホワイトと名前がついた、大きなチューブです。
「そうだね。初心者には使いやすそうだ。とらえずそれにしておこうか」
なにもかもが、手探りでした。
彼が、プラスチックの籠に入れて行く。
「ねえ、先生、この混合の調合油。これ1本で、最初から最後まで描けるらしいわよ」
ラベルを読んで説明すると、
「それを買っておこう」
と彼が言った。
「小さい方にしたらいいのか、大きい瓶をかっちゃったほうがいいのか?」
と、彼が悩んでいる。
「小さな方でいいんじゃない? 最初はお試しだから」
「そうだね」
小さい調合湯の瓶が、籠に入れられる。
「テレピン油と、筆洗いの油は、絶対に必要だな」
彼が呟いて、二つの瓶を籠に入れた。
いよいよパレットだ!!
「これこれ、こういうのを持つのが夢だったんだ…」
彼は嬉しそうに呟いて、木の大型パレットをあれやこれやと手に取った。
彼の最初の師である水谷画伯は、油絵の裸婦で知られた巨匠です。
私も画集で見てすごい! と感動しました。
後年はお目を悪くされたらしく、大胆に描いているのですが、それでも色使いがすばらしく、裸婦が生きています!!
親指が入る穴が開いている、油絵用のパレット。
それは彼が憧れながら今まで持っていなかったものです。
嬉しそうに木のパレットを彼は買いました。
それと筆を幾種類か。
10号と15号のキャンバス。
(すぐに描けるよう布地が張られ白い下地が塗られています)
同じビルにある書店に行って、油絵入門の美術書を3冊買い込む。
人気画家が出している描き方の入門書です。
特に参考にしたのは、美しい女性肖像画で人気の、谷川画伯の油絵入門書だった。
写真つきで、使う絵の具もプロセスも具体的に描かれている。
「これで描ける!」
(油絵習作の一つ・*****レッドを使っています)
ーー油絵で一番最初に描いたのは、ベッドに寝そべった、全裸の裸婦だ。
その全身像を15号のキャンパスに描いたので、ずいぶんと体が小さくなってしまった。
だが彼は、
「裸婦はなるべ全身が入った絵がいい」
と言うのである。
「先生、油絵を描く上で、一番大事なことは、油とテレピン油の比率だと思うわ。最初は油を少なくテレピンを多くしてさらっとした油で描き、だんだんテレピンを少なくして、濃い油の絵の具で描いていくの。これを逆にしちゃうと、絵がヒビ割れて剥離しちゃう」
そうなっては悲しい。
「後世に残る油絵を先生には描いてもらいたいの。油絵は、いくらだって描きなおしが出来るから、どう描くかは、あんまり問題じゃない。だけど、油の比率だけは気をつけないと、絵の具が恐ろしいことにはがれてきてしまう…それだけは、避けたいわ」
岡島と話しあい、ガラスの瓶に目盛りを5個つけた。
最初、輪郭や形を大雑把にとる時は、テレピン3、調合油2のさらさらした油を使う。
それから徐々に、油の比率を増やしていくのだ。
この順序だけは、絶対に間違えないようにした。
最初に描きあげたベッドに寝そべる裸婦は、まだ水彩画の影響がのこっていて、ごくうす塗りに過ぎた。
それと、重大な問題が判明した。
その絵を描きあげてから、しばらく雑誌に載せるためのペン画や水彩の表紙画を描いていたのだが、
「先生大変! 油絵の色が抜けてきている!」
私が発見して叫んだのだ。
肌の赤みが消えていき、緑の美しいビリジャンンの影は、黒っぽく変色しつつあった。
一年もたつと、赤みはすっかり消え、真っ白い肌に黒い影だけが目立つ絵になった。
「絵の具には、色の持ち具合を表す等級が星でついている。この星が重要だったのね…」
彼が水彩画で使っていた絵の具は、油絵だと色が抜けやすく、使えないことがわかったのだ。
絵の具には、鉱物系、土系、科学物質とおおよそ3種類の素材がある。
鉱物系は、発色輝きが美しく色持ちもいいが、毒性のあるものもあり、指を多用して描く彼は使いにくい。
土系の縁具は、アンバーやシェンなーなどが代表で、土から作られているから色持ちは永遠と言っていいほど堅牢。
化学物質系の絵の具は新しく作られたもので、チントとかが名前についている。
化物質系の色も、あせやすい色がある。
試行錯誤のあげく、ビリジャンの緑の代わりには土系絵の具のテルベルトが堅牢でいいことがわかった。
彼が求める輝きもある。
困ったのは肌の基本色として白と混合する赤色だ。
お手本にした谷川画伯の本では、白とインディアンレッドを混ぜて基本の肌色を作っていた。
それに、影の部分はアンバーやシェンナーなどを混ぜて、肌の影色を塗り分ける。
インディアンレッドは、土系の絵の具で堅牢度は抜群。
それにとても美しいピンクに発色する。
ところが岡村は、
「これはまち子の肌色ではない」
がんとして首を縦にふらず使わなかったのだ。
「まち子の肌はクリーム系なんだ。この色ではない」
と言い張る。
なるほど、ピンク系じゃないのか。
それならば…。
ホワイトにシェンナーを混ぜて作ってみた。
シェンナーも土系の堅牢な絵の具。
ちゃんとクリーム系。
だけど彼は、キャンバスの隅にちょっと塗ってみて、
「これはまち子の肌ではない。違う」
とまたも言い張る。
困ってしまった…。
実は、彼の使うバーミリオン・チントの絵の具ではなく、純正のバーミリオンを使えば解決する。
堅牢で美しく、輝きと透明感のある肌色になる。
だけど、チントがつかない純正のバーミリオンには毒性がある。
指で絵の具をぼかす技を多用する彼には使えなかったのだ。
このままじゃ、油絵が描けない。
せっかく彼がやっとその気になったのに。
どうしたらいいの?
ウィンザー社が出しているウィンザーレッド、他の会社のxxレッド、△△レッド…ありとあらゆる赤を試してみたけれど、全部ダメ。
私がいいと思っても、
「この色は違う」
と却下されてしまう。
すべて私の言うことを聞いてくれた岡村。
だけど、絵に関してだけは、頑固だった。
特に女性の肌に関しては…。
これでは油絵が描けない!
頭をかかえた。
その時、ふっと目にとまった美術雑誌の記事があった。
「*****の画家たちは、女体を描くのに*****レッドを使っていた」
(これだっ。これを試してみよう)
*****レッドは土系顔料から作られた絵の具で、堅牢度は申し分ない。
☆五つで永遠に近く色が持つ。
あとはこの絵の具を彼が気に入るかどうか、それが問題だ…。
彼が首を振り続けるので、3ヶ月も油絵はストップしたままだ。
画材店で*****レッドを一本買い、彼のアトリエに急ぐ。
価格は350円くらい。
安いものだ。
「先生、これを試してみて!」
勇んでバッグから取り出したーー。
著者の藤 まち子さんに人生相談を申込む