ピアノの先生

著者: Noz O
「私は音楽が嫌いなの。でも、私にはピアノを教えることしかできないのよね。」
彼女はそう言って、グラスの酒を飲んだ。
両親は音楽家で、本当に幼い頃からピアノを教えられてきた。
「子供って親を喜ばせたいって思うでしょ。
 だから、ずっとピアノを練習して、コンクールにでて、
 それで、音大に行ったわ。でも、自分がなにになりたいとか、
 そういうことは考えなかったのよね。
 気がついたら、ピアノの先生しか出来なかったの。」
私は黙って聞いていた。
「笑っちゃうよね。」

親は自分の子供にこうなってほしいとか考える。
自分のような辛い経験をさせたくないとも考える。
そういう思いに子供は応えようとする。
でも、そのレールが、子供の幸せにつながっているのかは誰にもわからない。

「小さい頃から絶対音感があって、全部音符に聴こえちゃうの。
 だから、オーケストラはうるさくて聴けないわ。」
「そういうもんなの?僕はわからないけど。」
「そうよ。」彼女は軽く答えた。

静かなバーだった。
私はギネスビールを注文した。
滑らかな泡を口のまわりのにつけながら、ちびちびと飲む。
「イギリスにいってた頃いつもこれ飲んでたんだよ。」
「そう、あなたは、自分の思うように生きてきたのね。」
「たいして選択肢があったわけじゃないけどね。」
「私よりはあるわよ。」
「音楽が嫌いっていったけど、好きな曲はなにもないの?」
「ひとつだけあるわ。ホロヴィッツのピアノ」
「ホロヴィッツ?」
「そう。作曲された当時を感じさせるように弾けるのは彼だけね。」
「今度聴いてみるよ。」
「この後私の家で聴く?」

私はクラシックを好んで聴いていたわけではないが、
彼女がかけたピアノ曲は、なんとの言えず心地よかった。
曲を聞いている間中私たちは無言でいた。
殺風景な部屋の窓から月がみえた。


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