高校時代は日本の教育に疑問。今は教育業界で働くワーキングウーマンの話し。
附属校で大学受験を回避する目的で選んだ高校時代
幼稚園から大学まである都内の一貫教育の私立女子校で育った私。
この肩書きだけ聞くと人の多くは、「お嬢様だね」と言うわけですが、本人はものすごく親の敷いたレールの上を歩くことへの苦痛をひたすら感じる日々だったということを前提としてお伝えしておきます。
その私立女子校(厳密には小学校までは男子が数名いる)は素晴らしい学校でしたが、中学からその校風に合わなくなり、こんな環境を敷いた親に反抗する感じで高校受験をすることを決意しました。
中学はなぜだか優等生の部類に入っていて、学級委員とか取りまとめ役に任命されることが多かったのですが、それは私にとって苦痛以外の何者でもありませんでした。
小学校は単なるムードメーカー的なところで学級委員に選ばれ、のほほんとのんきに日々クラスを盛り上げて楽しくやってればよかったのが一転、真面目キャラに仕立てられた中学時代はどうにも自分らしくは過ごせず、一人孤独に苦しみました。
そんな状況を打破したいという一心で高校受験という山に挑んだと言っても良いかもしれません。とにかく状況を変えたかった。新しい自分として出直したかったんですね。
それで受験に挑んだわけですが、全落ちしても仕方ないような受験の仕方で、なんとかギリギリセーフで中央大学杉並高校に受かりました。
女子高育ちであった私は、共学であることにもワクワクしていましたし、何より新しい自分として再スタートできることを嬉しく思っていました。
ところが・・・
自分でも予想以上に、高校に馴染めなかった。。
追い打ちをかけるように、高校1年の7月、母が他界。
私が中3の秋に発症した膵臓癌が手術後悪化し、あっけなく死んでしまいました。
花の女子校生ライフを描こうなん一瞬夢見たのも束の間、私はネガティブで暗い、自分の殻に引きこもった冴えない女子高生となりました。
たった1人の親友とともに乗り越えた日々
「世の中は理不尽だ」。
そう思いながら日々過ごしていた私は、ものすごいマイナス思考でした。
全然楽しくない高校生活に、絶望すら感じる時もありました。
唯一の救いは、1人だけ高校でできた親友の存在です。
彼女と毎日一緒にいて、飽きずにいろんなことを話し、漠然とでもドデカイ夢を語り合ったして日々やり過ごしてました。
そして2人とも附属高の特権でありながらも、中央大学にまったく自分の進路を見いだせずに、何がしたいんだろう?何が自分には合うのだろう?と悶々ともがくことになるのです。
高校2年までドン底の成績。絵の道に進みかける
無気力全開の高校1、2年の頃は、当然ながら成績も奮わず、本当にやる気が微塵も起きませんでした。
クラスの下から1番・2番を争う勢いで、ひどいテストの点数をたくさん自分史上に刻みました。
学校の勉強から逃れるように、昔から習っていた「絵」に没頭するようになり、油絵をいつしか本格的にやっていました。
そして、いつしか「絵の道に進もう」と思い始める自分がいることに気がついたのです。
しかし、美大出身の父親に相談するも、あっなく反対される始末。
娘には同じような道を歩んで同じような苦労を味わわせたくなかったか、
「少し頑張れば希望の学部に行ける中央大学で4年制大学というものを経験してみて、合わなければ軌道修正すればいい。」
それが父親からのアドバイスでした。
私は悩んだものの、自分の絵の実力にも自信が持ちきれない、なんとも煮え切らない状況だったので、高校3年になったタイミングで中央大学への進学を決めました。
高3で成績を劇的にアップさせるも時すでに遅し
附属校のメリットは、普通の受験生よりも断然楽に大学に進学できることですが、その代わり高校1年~3年の成績ALLで順位付けされ、希望の学部への進学可否が決定されてしまうのです。
頑張って勉強に本腰入れて、クラスメイトをごぼう抜きで成績を上げるも、時既に遅し。。
過去の自分の悪い成績が足を引っ張って、希望してみた総合政策学部や、文学部の心理学科などは募集人数も少なく、入るのは難関。
希望順位の高かった学部には見事に進学できませんでした。
この高3の頃、自分が希望の学部に行けないムシャクシャ感も大きかったとは思いますが、私は猛烈に日本の教育に疑問を感じ始めていました。
「なぜ、社会のことも良く分からないのに、学部や学科という専門分野をこんなに早くに決めなくてはいけないの?」
「なんで、大学卒業生の多くが銀行に就職しているの?学部で学んだことはどう生かされるわけ?!」
大学の勉強の何が将来につながり、大学は一体何のために機能する場なのか、高校でそれがおのずと見つかると思っていたのは大間違いで、なかなか自分に何が向いてるのか見つけられない自分にもヤキモキしていました。
またやる気が出ない大学時代の幕開け
結局、進んだのは商学部 商業・貿易学科。
意志とか関係なく、上から順番に決まって自分が行けたのはココという状況。
これはもうなんていうか、自分でこの学部に進む意味や意義や理由を見出すのが大変でした。
なんせ、何を学ぶ学部かもイマイチ分かっていませんでしたし、ちょっと高校時代にかじった簿記も自分には本当に向いてないなと思うほど苦手で、なんでこの学部に来てしまったんだろうと入学早々に凹みました。
それに加えて、サークルの勧誘の嵐に見舞われテキトウに入ってみたサークルの飲み会の激しさと品の無さに、かなり引いてしまった自分がいました。
「えっ・・・これが日本の高等教育?」
こんな時間とバカ騒ぎのために、大学はあるのか?
とマジメかって感じですが、当時の私は何か得体のしれないショックを受けたわけです。
昔から、海外ドラマを見まくり、海外の大学なんかに憧れていた私は、もっと自立したオトナの集まりが大学であると信じていました。
ところが目の前に広がるコミュニティは高校の延長のような、なんとも私が好きでない雰囲気が広がっていて、周りは大学がゴールとなり、入学早々に桜の木の下で飲み過ぎて救急車で運ばれたりして、意味が分からなかった・・・。
このあたりからさらに強く、強く「日本の教育」の在り方に疑問を持ち始めました。
海外の大学を見に行ってみた
やっぱり日本の大学は自分には合わないんだと確信した私は、
思い立ったが吉日、友人のいるサンフランシスコへ飛び、彼女の狭いドミトリーに転がり込みました。
そしてたった1週間だったけど、サンフランシスコ州立大学の講義を聴講しまくったりして、
どっぷりサンフランシスコ州立大学生気分を味わいました。
そこで出会う学生らの自立した姿に圧倒されたのを覚えています。
「ここで学びたい。」
よくわからないけれど、とにかく素直にそう思ったのです。
渡米する決意固まり帰国。
退学届と休学届どちらの申請がいいかなんて考えていた矢先、父親の事業が倒産。
まるでドラマのように、取り立て屋に追われるようにして、夜逃げ同然。
思い出のマイホームを失い、あらゆるモノを失い、一家離散。
散々でした。
天変地異で中央大学にステイ
緊急奨学金を組まれた私は日本の大学にステイすることになりました。
とにかく当時は、日々をこなすのに必死で、留学の夢に蓋をして日本の大学でできる限りの元を取ろうという気持ちになんとか切り替えて何とか過ごしていました。
「ジャーナリズム研究会」というマニアックなサークルに入ったりもして、欧米の大学と日本の大学を比較研究を続け、校内誌で独自の記事を掲載し続けました。
私の中に高校時代からあった「日本の教育は何かおかしい」という思いは、
いつしか「日本の教育を変えたい」という思いへと変化していきました。
自称教育ジャーナリストとして教育現場を取材
モヤモヤする思いを解消したいという思いから、私は大学3年の頃、取材活動を開始しました。当時住んでいた世田谷区を中心に、ありとあらゆる学校現場を取材して周りました。
日本の教育はどこから違和感を覚えるようになってしまったのだろう?
今の実際の教育現場はどうなっているのだろう?
自分の目で確かめて、何か自分の進むべき道のヒントにしたいと、始めたフィールドワークです。
最初のとっかかりを見つけた小学校の校長先生から、テレフォンショッキング風に、次の先生を紹介してもらうやり方で、様々な教育現場での取り組みを紹介いただきました。
これが、おもしろかった!
気がつけば取材先は100件以上。
そして、私の商学部とはまったく関係ない
「若者は地域活性化と教育の架け橋になれるか」というテーマで、卒業論文を発表するにいたりました。
自分でも想像以上の大作となり、もはやエッセイ。
中央大学商学部長賞という栄誉ある賞までいただき、卒業することになりました。
日本の教育を変えたい一心で教育業界へ
「日本の教育を変えたい」と、大きなことを思って突入した就職活動でしたが、思うようにはいきませんでした。
教育業界に行こうか、マスコミで教育ジャーナリストのような道を目指すか、迷いが私の中では渦巻いていて、うまく自己PRなんてできなかったのです。
ある新聞社の10対1の最終面接では、社長が横に座っている部下らに向かって
「こんな生意気な子入ったら、君たち扱えるの?」
とまで言われ、あっけなく落とされるほど、残念な就活生でした。
ちなみに、今働いているベネッセも新卒で就職活動していた当初は、あっさり落とされてしまった経験者です。
ですから、ここにこんなに日本の就職活動に馴染めなかった私の例があり、今はとはいえベネッセにご縁あって働いているわけですので、就職活動に漠然とした不安を抱いている人、今真っ只中でやってられない思いに駆られている人、安心してくださいね。
もがいていれば、道は開けるもんです。
最初の会社を選んだ理由
1社目はセールスプロモーションの代理店で営業職という形で新卒入社しました。
この会社は新卒を採用するのが初めての会社で、外資系のようなインタビュー型の採用試験で、会社の雰囲気がなんだか合うなと思ってもはや直感的に選びました。
今でこそ珍しくないかもしれませんが、エージェントを介した就職活動に切り替え、自分に合いそうな会社をいくつか候補としてもらい、その中から選んだという経緯です。
2社目は資格学校が立ち上げた株式会社立大学の広報に。
これは内定をもらってたけど入社はしなかった会社の社長が、1社目を辞めてくすぶっている私に、「うちに来てくれ」と声をかけてくれたのがキッカケです。
何の縁が救ってくれるか本当にわからない、それが人生です。
そして3社目で今のベネッセに転職活動をして入社し、今に至っています。
1社目を選んだのは、「教育」を面白く変えるためには、世の中にモノを「売れる仕掛け作り」を考える会社に入ったらヒントがあるのではないかという、自分なりに無理やり意味付を持たせた理由から。
3度目の正直のごとく3社目でベネッセに入り、日本の教育業界の第一線に身を置いているわけですが、「日本の教育を変える」ほど大きな仕掛けはまだ実力不足でできていません。
この「ひとコレ」というプロジェクトの始動
ですが、この「ひとコレ」というプロジェクトを進めている一人は、紛れもなく私自身であったりします。
大学時代の取材活動を通じて、「高校」という地域=社会との接点が最も薄くなるタイミングに何か世の中の仕掛けが足りないと結論に至りました。
そして、文理選択や塾に通い始める前に、自分がホントにどんな将来を描きたいのか、自分の可能性をどの方向に持っていきたいのかを考えるヒントになりうる出会いやキッカケが必要であると確信しました。
ベネッセに入り、この世代へのアプローチがいつしかできないものかと思って早5年以上が経過してしまったのですが、STORYS.JPさんとの出会いにより、第一歩が踏み出せたこと、すごく嬉しく感じています。
まだまだ最終形にはほど遠いですが、あらゆるリアルな人生モデルをちょっと先を歩く先輩が語ることで、悩めるティーンズが将来を考えるときのヒントになれたら・・・と願い、始動しました。
高校生に伝えたいこと
今は私の高校時代よりも比較にならないほど、ソーシャルメディアも発達し、情報収集へのハードルは劇的に下がったのではないかと思います。
けれど、当時も今も変わらないなと思うのは、ちょっと先を歩く先輩との接点は、高校時代になかなか持つことは難しいということ。
アルバイト先での出会いはあるかもしれないけれど、リアルな大学生のイメージ、その先の社会人の姿、憧れ、こうなりたいと思える身近な像はそんなに簡単には見つけられない世の中であることには変わらないと思います。
だからこそ、貪欲に自分の理想とする将来像を描き、その像に近い人を高校時代に探し続けて欲しいと思います。どんどん身近な大人たちを反面教師にしたり、参考にしたりして、自分のミライをどうしたいか、イメージを膨らませて欲しいです。
周りに流されて何となく大学受験しなくたっていいと思います。
自分に合うのは海外の大学かもしれないし、専門学校かもしれない、はたまた弟子入り修行かもしれないじゃないですか。いろんな可能性を大学に行ってから探そうではなく、大学に行くと決める前に模索して納得のいく人生を切り開いて欲しいなと願っています。
著者のIijima Rieさんに人生相談を申込む