累計出荷本数3億本が目前!「ピエトロドレッシング 和風しょうゆ」ヒットの軌跡(後編)
一軒の小さなスパゲティレストラン「洋麺屋ピエトロ」で、パスタが茹で上がるのをお待ちいただく間にお出ししたサラダのドレッシングが評判となり、1981年に販売をスタートしたピエトロドレッシング。2023年4月末には、おかげさまで累計出荷本数(※)が“3億本”を突破する見込みのロングセラー商品です。(※自社調べ)(前編はこちら)
後編では、ピエトロの運命を大きく変える出来事となった初めてのテレビ出演、そしてドレッシングが全国展開の看板商品に成長するまでのストーリーを、株式会社ピエトロの代表取締役会長である西川 啓子氏へのインタビューを交えながらお届けします。
●まったく期待していなかった「テレビショッピング出演」で爆発的ヒット。一気に全国展開への布石を打つことに
1984年、福岡を飛び出し東京の日本橋三越でも販売をスタートしたピエトロドレッシング。しかし、思ったようには売上がふるいませんでした。そんな時、気をまわしてくれた担当者から「日本橋三越のテレビショッピングに出演してみませんか」と声を掛けられます。
――初めての「テレビショッピング出演」の反応はどうでしたか?
(西川)正直、ほとんど期待していませんでしたが、創業者の村田が出演のため一人で東京へ向かいました。「1ケースを10本入りとして、何ケースくらい注文が来るだろうか」と不安に思いながら番組の控室で出番を待っていると、テレビショッピング常連の出演者から「そんなに期待できるものじゃない。1ケース10本なら100ケース、1,000本もいけば御の字だよ」と追い打ちをかけるように言われ、不安は募る一方でした。
予定通り出演を終えた村田が福岡に戻ってきたところで、三越の担当の方から「“940”の注文が来た」と伝言があったことを、電話番をしていたスタッフに聞かされました。とっさに思ったのは、「940本」。10本入りが94ケース。それなら、控室で言われた数字とも同じくらいですから。お礼がてらさり気なく確認をしようと、村田が三越の担当の方へ電話をかけました。私はお店の作業をしながら待っていたら、電話を切った途端、村田が勢いよく振り返って叫んだんです。「急いで材料の発注!悪いが、みんな今日から徹夜で仕込みぞ!」
なんと、「940“本”」ではなく「940“ケース”」。つまり「9,400本」もの注文が、まったく期待していなかったあの日の出演で入っていたんです。
――その出来事が、「ピエトロドレッシング全国展開」への布石となったのですね。
(西川)当時、ドレッシングの生産本数は多い月でも1,500本程度のペース。しかも1週間の納期で9,400本と聞かされ、思ってもみなかった大反響にスタッフ全員が衝撃を受けました。それからというもの、いつも通りレストランの営業もしながら、毎晩空が明るくなるまでドレッシングづくりに追われる日々が続きました。今思えば信じられないようなスケジュールでしたが、注文をもらえたことがとにかく嬉しくて、無我夢中で乗り越えた気がします。
これをきっかけに知名度は一気に全国区へ広がり、1985年に株式会社ピエトロを設立。翌1986年に、今やトレードマークとなったオレンジ色の丸キャップ付きオリジナルボトルを作りました。日本各地の百貨店での販売を順調に広げ、1990年、福岡県古賀市にドレッシング製造工場を竣工し、数年後には年間の生産本数が1,000万本を超えるほどになりました。
▲(左)1988年完成のピエトロ本社ビル(当時)、(右上)古賀工場竣工式、(右下)古賀工場外観(竣工時)
●類似商品の登場で運命の選択を迫られる!?断り続けてきた量販店での販売をついにスタート
ドレッシングの店頭販売開始から10年が過ぎ、順調に知名度を全国に広げていた矢先のこと。大手量販店がピエトロドレッシングによく似た商品を大々的に売り出し、ピエトロは運命の選択を迫られます。
――類似商品が登場した時のことを教えてください。
(西川)「百貨店にだけ置く」という売り方を守りつつ、ドレッシング事業が大きな柱として成長してきた1993年。大手量販店が、ピエトロドレッシングによく似たプライベートブランド商品を大々的に発売しました。
いくら認知度が上がってきたとはいえ、大手量販店に本気でぶつかって来られたらひとたまりもありません。売り場には「比べてください味と値段」と書かれたポスターが掲げられ、見た目もそっくりで価格はピエトロのおよそ半額。私たちも試食してみましたが、一般のユーザーであればわからないくらいに味もよく似せられていました。村田は「大した問題じゃない」と表向きは平気なふりをしていましたが、やっぱり気になるのでしょう、毎日社員に売り場をチェックしてもらっていました(笑)。
――その後、ピエトロはどのような選択をしたのですか?
(西川)幸い、ピエトロドレッシングの売上に影響はなく、徐々に類似商品の売れ行きはスピードダウンしていきました。とはいえ、この出来事は氷山のほんの一角に過ぎず、いつかまた同様のことが起きてしまうでしょう。こちらも戦法を変えていかなければいけないと考え、1995年、量販店でも売り出す決断をしました。
「ピエトロのレストランと百貨店でしか買えない」という付加価値はそのままブランドのイメージとなっていたので、量販店での販売は大きな賭けでした。そこで、サラダはもちろん、パスタやお肉、魚料理のソースとして使えるなどプラスアルファの食べ方提案をしたり、容易に価格を下げずキャンペーンとつなげてお店側にも私たちにもメリットのある企画提案をしたり、全国の営業担当社員にいろいろな販売の工夫を続けてもらった結果、心配していた大きな価格崩れも起きませんでした。
こうして量販店での販売も順調に進んだ1998年、戦略の1つとして俳優の小林薫さんを主人公にしたドラマ仕立てのテレビCMを全国ネットで放映し、ピエトロドレッシングの売上は右肩上がりに加速していったのです。
▲大反響となった全国ネットのテレビCM放映
●レストランの店頭販売からまもなく42年。累計出荷本数3億本が目前に迫るピエトロドレッシングが今も大切にしている「こだわり」
一歩ずつ成長を重ね、お客さまに愛され続けたピエトロドレッシングは、2023年4月末におかげさまで累計出荷本数が“3億本”を突破する見込みです。1981年の発売からまもなく42年を迎えようとしていますが、全国展開のロングセラー商品となった今でも、変わらず大切にしている「こだわり」があります。
▲ピエトロの工場では今でも寸胴鍋でドレッシングを仕込んでいる
――ピエトロドレッシングが大切にしている「こだわり」とは何ですか?
(西川)小さなお店の厨房で生まれたピエトロドレッシングは、今では年間約2,000万本製造するほどに成長しました。それでも、工場で味の仕込みに使っているのは大型タンクではなく、1つあたり約180本しかつくれない「寸胴鍋」なんです。
「このサラダにかかっているドレッシングがおいしい」とレストランでお客さまにご好評いただいた味は、大量生産では決して生み出すことはできません。たまねぎはひとつひとつ人の手でカットして品質をチェックしていますし、その他にも本当にたくさん、手づくりの工程を残しています。どんなに会社が大きくなろうとも、レストランの厨房でつくるのと同じように、“少しずつをたくさん”繰り返し、手間ひまをかけて丁寧につくっています。だから、私たちは工場のことを“大きな厨房”と呼んでいるんですよ。
▲インタビューに応える西川氏
――西川会長にとって、ピエトロドレッシングはどんな存在ですか?
(西川)手塩にかけて育てた「孝行息子」でしょうか。ありがたいことに「ピエトロドレッシングで子どもの野菜嫌いがなおった」という嬉しいお声を本当にたくさんいただいています。“累計出荷本数3億本”と言うととてつもなく大きな数字に見えますが、お客さまが手に取ってくださった1本1本の積み重ねです。
一軒の小さなレストランからスタートしたピエトロも、今ではたくさんの社員が手間ひまを惜しまず、創業当時から続く味づくりをきちんと守り続けてくれています。
お客さまが「おいしい」と使い続けてくださり、社員一人ひとりがバトンを繋いでくれている大切な商品だからこそ、決して慢心に陥ることなく、時代に合わせてこれからも磨き続けていかなければならない。あらためて、そう強く思っています。
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