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まもなく累計出荷本数3億本。「ピエトロドレッシング 和風しょうゆ」ヒットの軌跡

著者: 株式会社ピエトロ


1981年の発売以来、野菜嫌いをなおす魔法のドレッシングと言われている「ピエトロドレッシング 和風しょうゆ」が、累計出荷本数3億本(※)に迫ろうとしています。

※ピエトロ調べ


「ピエトロ」 のはじまりはドレッシングではなく、一軒のスパゲティレストランでした。小さなお店の厨房で、ドレッシングがどのようにして生まれ、なぜ全国展開の看板商品にまで成長したのか。創業者である故・村田 邦彦氏とともにその店を立ち上げたメンバーの一人であり、 現在、株式会社ピエトロの代表取締役会長である西川 啓子氏へのインタビューを交えながらお届けします。

「博多の人間が10分も待つかい!」スパゲティが茹で上がるまでの時間をもたせようと考えた季節のサラダとドレッシング

ピエトロのはじまりは、1980年12月に福岡市・天神三丁目の路地にオープンした小さなスパゲティレストラン「洋麺屋ピエトロ」。当時は珍しかった”茹でたてのスパゲティ”と、”和と洋が融合したオリジナルテイスト”を楽しめるお店を目指しました。しかし、そこには1つの大きな課題が。そしてその課題こそが、ピエトロドレッシング誕生のきっかけとなったのです。


▲インタビューに応える西川氏


――ドレッシング誕生のきっかけともなる、レストラン創業前に浮上した「課題」とは何だったのですか?


(西川)当時のスパゲティといえば、茹で置きのソフト麺のようなパスタを温めなおして、上からソースをかけるか絡めるというものでした。そもそも、九州で麺といえばコシがなくやわらかいうどんが主流です。ピエトロが目指したのは、日本人がふだん食べている食事の感覚で、茹でたての、絶妙に芯を残したアルデンテのスパゲティを楽しんでもらうこと。でも、博多っ子はせっかちです。レストラン創業前から相談にのってくれた友人たちの反応は良くなくて、「博多の人間が、10分も麺が茹であがるのを待つかい!(待つわけないでしょう!)」と、口を揃えて皆が言うんです。そこで、麺が茹であがるまでの時間に前菜として召し上がっていただけるよう考えたのが、季節のサラダ。そしてそこにかけたのが、シェフである村田が厨房で仕込んだ、“しょうゆベース”のオリジナル和風ドレッシングだったんです。


――なぜ、しょうゆベースのドレッシングをオリジナルで作ったのですか?


(西川)ピエトロが和と洋の融合するオリジナルテイストを模索していたことと、村田の好みです(笑)。村田は酸っぱいものが苦手で。当時市販されていたドレッシングはフレンチタイプが多く、その酸味が日本人には不向きだなあと思っていたんです。だから、村田はいつも生野菜にしょうゆと果汁をかけて食べていました。しかしレストランでしょうゆをそのままかけるわけにもいかないので、しょうゆベースのドレッシングをつくることに。基本のドレッシングは、調味料にお酢やレモンの絞り汁などの酸味を合わせますが、試行錯誤してピエトロが辿り着いたのは“たまねぎの搾り汁”でした。たまねぎの搾り汁をあわせると、しょうゆの旨みが引き出されるんです。さらに味わいを深めるために、すりおろしたにんにくやしょうがを足してみたり、彩りもかわいらしく赤いピーマンを入れて、香りの良い黒オリーブも入れて…と、いろいろな組み合わせを試すうちに、今と同じ“和風しょうゆ味”のドレッシングが誕生しました。

「サラダにかかっているドレッシングをわけてほしい」という声から、ドレッシングだけを店頭販売するように

何とかオープンを迎えた洋麺屋ピエトロでは、当時では珍しい「茹でたてのスパゲティが来るまでサラダを食べて待つ」という新しいスタイルが見事にヒット。満席になったすべてのテーブルにサラダが出るほど浸透しました。そんなある日、サラダにかけた“ドレッシング”にスポットが当たる出来事が起きます。


▲(左)創業当時の「洋麺屋ピエトロ」外観、(右)キッチンに立つ村田氏と店内の様子


――“ドレッシング”が注目されるようになったきっかけを教えてください。


(西川)お店のオープンから2、3ヶ月が過ぎた頃だったと思います。ランチタイムの混雑が一段落したくらいの時間に、お一人のお客様がお店に入って来られました。そして、「ここで出しているサラダのドレッシングをわけてもらえませんか?」とおっしゃったんです。続けて嬉しそうに、「うちの子は野菜が嫌いなんですが、ここのサラダはおいしいと言ってよく食べるんです」と。もちろん、その頃は販売もしていませんでしたから、専用の容器もなかったので、お店で出していた小さいサイズのワインの空き瓶に入れてお渡ししました。「お代は?」と聞かれたので、「400円でいかがでしょう」とやり取りしたのがきっかけです。


そのあと「驚いたけれど、嬉しいこともあるものだな」なんて思っていたら、誰かが言い出すのを待っていたかのように、「ドレッシングをわけてほしい」というお客様が続々とお店に来られるようになったんです。今でもたまに思い出すのですが、空の一升瓶を提げたおじいさんが、「生野菜にかかってる“ソース”をここに行ってわけてもらって来い、と家のもんに頼まれた」とおっしゃって、遠方から自転車で来られたこともありました。


――その後、どのくらいでドレッシングは商品化されたのですか?


(西川)次第にドレッシングだけを買いにお店に来る方も増えてきて、「さすがにワインの空き瓶では失礼なのでは?」と村田と相談し、専用の容器を探しに行きました。たまたま、オレンジ色のとんがりキャップが付いた市販の容器を見つけたので、それにドレッシングを詰めてお店のレジの横で商品として販売をはじめたのが、1981年6月。オープンからちょうど半年が過ぎた頃でした。



「スパゲティ屋のオヤジで終わるつもりはない」。ドレッシングの事業展開を決意し、百貨店での販売も開始

レストランでの店頭販売をはじめた「ピエトロドレッシング」。少しずつ口コミで評判が広まり売れ行きは好調、深夜まで仕込みに追われる日々が続きました。そんな時、村田氏が事業家である大先輩から「事業を展開するならドレッシングじゃないか?」とアドバイスを受け、自分のお店以外でも販売する決断をします。


――洋麺屋ピエトロの店頭販売以外では、どのような売り方をしようと決めたのですか?


(西川)「地域一番店にだけ置いてほしい」、それが村田のこだわりでした。ドレッシングが売れるなんて夢にも思っていない、それこそお店がオープンするよりも前から、「オレはスパゲティ屋のオヤジで終わるつもりはない。事業として展開していくつもりだから、社長と呼んでくれ」とスタッフに言っていたくらい、商売人として一流を目指していた人でした。だからこそ、自分のお店と百貨店でしか買えないという付加価値をドレッシングに持たせたかったんです。当時はドレッシングの仕込みはもちろん、ボトルに詰めてキャップを締め、ピエトロのシールを貼るまでのすべての工程が手作業。作れる数が限られているのだから、最も注目度が高く、最も品揃えにこだわるお店に置いてほしいという思いもありました。


▲百貨店で販売したギフトセット


――百貨店での販売を開始して、ドレッシングの売れ行きはどうでしたか?


(西川)1983年10月、一番にお話を持ちかけてくださった博多大丸で販売をスタート。翌年の1984年には福岡を飛び出し、東京の日本橋三越でも販売を開始しました。でも、日本橋三越では思うように売上がふるわなくって。私も東京へ行って試食販売をしましたが、地下の一角、生鮮食品の売り場だけは活気がなかったんです。今でこそデパ地下は、たくさんの人で賑わっていますが、当時の百貨店は贈答品や海外のブランド品を買いに行く場所という感じで、生鮮食品の売り場では人を探すほうが大変だったくらい。


あんまり売れないものだから、担当の方が気をまわしてくださったのか、販売から半年ほどした頃に「日本橋三越のテレビショッピングに出演してみませんか」と声をかけてくれました。せっかくだからと試しに出演してみることに。ところがそのテレビ出演が、ピエトロの運命を大きく変えることになったんです。

まったく期待していなかった「テレビショッピング出演」で爆発的ヒット。一気に全国展開への布石を打つことに

1984年、福岡を飛び出し東京の日本橋三越でも販売をスタートしたピエトロドレッシング。しかし、思ったようには売上がふるいませんでした。そんな時、たまたま出演したテレビショッピングで思いもよらぬ大ヒットを記録します。


――初めての「テレビショッピング出演」の反応はどうでしたか?


(西川)正直、ほとんど期待していませんでしたが、村田が出演のため一人で東京へ向かいました。「1ケースを10本入りとして、何ケースくらい注文が来るだろうか」と不安に思いながら番組の控室で出番を待っていると、テレビショッピング常連の出演者から「そんなに期待できるものじゃない。1ケース10本なら100ケース、1,000本もいけば御の字だよ」と追い打ちをかけるように言われ、不安は募る一方でした。


出演を終えた村田が福岡に戻ってきたところで、三越の担当の方から「940の注文が来た」と伝言があったことを、電話番をしていたスタッフから聞きました。とっさに思ったのは、「940本」。10本入りが94ケース。それなら、控室で言われた数字とも同じくらいですから。


お礼がてらさり気なく確認をしようと、村田が三越へ電話をかけました。私はお店の作業をしながら待っていたら、電話を切った途端、村田が勢いよく振り返って叫んだんです。「急いで材料の発注!悪いが、みんな今日から徹夜で仕込みぞ!」


なんと、940本ではなく940ケース。つまり9,400本もの注文があの日の出演で入っていたんです。


――その出来事が、「ピエトロドレッシング全国展開」への布石となったのですね。


(西川)当時、ドレッシングの生産本数は多い月でも1,500本程度のペース。しかも1週間の納期で9,400本と聞かされ、思ってもみなかった大反響にスタッフ全員が衝撃を受けました。それからというもの、いつも通りレストランの営業もしながら、毎晩空が明るくなるまでドレッシングづくりに追われる日々が続きました。今思えば信じられないようなスケジュールでしたが、注文をもらえたことがとにかく嬉しくて、無我夢中で乗り越えた気がします。


これをきっかけに知名度は一気に全国区へ広がり、1985年に株式会社ピエトロを設立。翌1986年に、今やトレードマークとなったオレンジ色の丸キャップ付きオリジナルボトルを作りました。日本各地の百貨店での販売を順調に広げ、1990年、福岡県古賀市にドレッシング製造工場を竣工し、数年後には年間の生産本数が1,000万本を超えるほどになりました。


▲(左)1988年完成のピエトロ本社ビル(当時)、(右上)古賀工場竣工式、

(右下)古賀工場外観(竣工時)

類似商品の登場で運命の選択を迫られる!?断り続けてきた量販店での販売をついにスタート

ドレッシングの店頭販売開始から10年が過ぎ、順調に知名度を全国に広げていた矢先のこと。大手量販店がピエトロドレッシングによく似た商品を大々的に売り出し、ピエトロは運命の選択を迫られます。


――類似商品が登場した時のことを教えてください。


(西川)「百貨店にだけ置く」という売り方を守りつつ、ドレッシング事業が大きな柱として成長してきた1993年。大手量販店が、ピエトロドレッシングによく似たプライベートブランド商品を大々的に発売しました。


いくら認知度が上がってきたとはいえ、大手量販店に本気でぶつかって来られたらひとたまりもありません。売り場には「比べてください味と値段」と書かれたポスターが掲げられ、見た目もそっくりで価格はピエトロのおよそ半額。私たちも試食してみましたが、一般のユーザーであればわからないくらいに味もよく似せられていました。村田は「大した問題じゃない」と表向きは平気なふりをしていましたが、やっぱり気になるのでしょう、毎日社員に売り場をチェックしてもらっていました(笑) 。


――その後、ピエトロはどのような選択をしたのですか?


(西川)幸い、ピエトロドレッシングの売上に影響はなく、徐々に類似商品の売れ行きはスピードダウンしていきました。とはいえ、この出来事は氷山のほんの一角に過ぎず、こちらも戦法を変えていかなければいけないと考え、1995年、量販店でも売り出す決断をしました。


「ピエトロのレストランと百貨店でしか買えない」という希少価値がブランドのイメージだったので、量販店での販売は大きな賭けでした。そこで、サラダはもちろん、パスタやお肉、魚料理のソースとして使えるなどプラスアルファの食べ方提案をしたり、価格を下げず、お店側にも私たちにもメリットのある企画提案をしたり、全国の営業担当社員にいろいろな販売の工夫を続けてもらった結果、心配していた大きな価格崩れも起きませんでした。


こうして量販店での販売も順調に進んだ1998年、戦略の1つとして俳優の小林薫さんを主人公にしたドラマ仕立てのテレビCMを全国ネットで放映し、ピエトロドレッシングの売上は加速していったのです。


▲大反響となった全国ネットのテレビCM放映

レストランの店頭販売からまもなく42年。累計出荷本数3億本が目前に迫るピエトロドレッシングが今も大切にしているこだわり

一歩ずつ成長を重ね、お客さまに愛され続けたピエトロドレッシングは、2023年春頃におかげさまで累計出荷本数が3億本を突破する見込みです。1981年の発売からまもなく42年を迎えようとしていますが、全国展開のロングセラー商品となった今でも、変わらず大切にしているこだわりがあります。


▲ピエトロの工場では今でも寸胴鍋でドレッシングを仕込んでいる


――ピエトロドレッシングが大切にしているこだわりとは何ですか?


(西川)小さなお店の厨房で生まれたピエトロドレッシングは、今では年間約2,000万本製造するほどに成長しました。それでも、工場で味の仕込みに使っているのは大型タンクではなく、1つあたり約180本しかつくれない「寸胴鍋」なんです。

「このサラダにかかっているドレッシングがおいしい」とレストランでお客さまにご好評いただいた味は、大量生産では決して生み出すことはできません。たまねぎはひとつひとつ人の手でカットして品質をチェックしていますし、その他にも本当にたくさん、手づくりの工程を残しています。どんなに会社が大きくなろうとも、レストランの厨房でつくるのと同じように、“少しずつをたくさん”繰り返し、手間ひまをかけて丁寧につくっています。だから、私たちは工場のことを「大きな厨房」と呼んでいるんですよ。



▲ファンから寄せられた嬉しい声を期間限定でボトルに掲載している(計10パターン)


――西川会長にとって、ピエトロドレッシングはどんな存在ですか?


(西川)手塩にかけて育てた「孝行息子」でしょうか。ありがたいことに「ピエトロドレッシングで子どもの野菜嫌いがなおった」という嬉しいお声を本当にたくさんいただいています。“累計出荷本数3億本”と言うととてつもなく大きな数字に見えますが、お客さまが手に取ってくださった1本1本の積み重ねです。

一軒の小さなレストランからスタートしたピエトロも、今ではたくさんの社員が手間ひまを惜しまず、創業当時から続く味づくりをきちんと守り続けてくれています。

お客さまが「おいしい」と使い続けてくださり、社員一人ひとりがバトンを繋いでくれている大切な商品だからこそ、決して慢心に陥ることなく、時代に合わせてこれからも磨き続けていかなければならない。あらためて、そう強く思っています。











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