普通の主婦の普通じゃなかった半生 9 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ
8からの続き。
写真 二十歳くらいの時の私。
写真 この後少しして別れることになった高1からの彼氏。
長い恋の終わり。
足の障害は治ってはいませんでしたが幸いまた歩けなくなることも無く、日々はすぎていきました。
私は22歳になっていました。
高1からの彼氏とはずっと続いていました。
彼は本当に優しい人で、私の願いをかなえられるだけ叶えてくれていました。
彼が車の免許を取って車を買ってからは、毎週のように海が好きな私を海に連れて行ってくれました。
海の無い岐阜県から海は遠くて3時間以上もかかるのに。
夏は泳ぎに、冬はただ海を眺めに。
彼との想い出の多くは海と海に行く車の中での会話や一緒に聴いた音楽です。
楽しい時も喧嘩した時もなにかといえば海に行きました。
海に行けばどんなことがあっても二人で笑顔になれたし、優しい気持ちになれました。
私たちは高1から7年間、ほとんど毎日一緒に居ました。
まわりはみんな私たちがそのまま結婚するものだと思っていました。
友人たちも母も。
私もなんとなくだけど、そうなるものだと思っていたと思います。
だけど、私はそんな優しすぎる彼を当たり前だと思っていたのです。
私は優しくしてもらえることに慣れすぎて、彼が居てくれることを当然のように思っていて傲慢になっていました。
ある日、突然、別れはやってきました。
彼が悪いのではなくて。
私のせいです。
その頃、私は大学のサークルに入っていました。
学歴のなかった私は大学生活に憧れていたのです。
大学に通っている友人たちが楽しそうで、サークル活動っていうものがしてみたかった。
その大学の学生だった訳でもないけれど、サークルに入れてもらって大学生の仲間になったような錯覚をすること、それがとても楽しかった。
彼はそれに反対でした。
毎日、何をするにも一緒だった私たちが私がサークルに入ったせいでで週一くらいしか会えなくなったから。
どんな辛い時でも一緒に居てくれてサポートしてくれてた彼よりも、私はサークルの楽しみにハマっていき、彼のことをないがしろにしていました。
怒ったことなどなかった彼を怒らせてしまいました。
「そのサークルでの遊びか、俺との毎日かどっちが大事なんだ?」って。
サークルには同年代の男の子たちもいっぱい居ました。
そこで浮かれていた私を彼は許せなかったのでしょう。
男の人が考えて口に出す言葉は真剣なものです。
今はそれがわかるけど、その当時の私にはわからなかった。
私は彼が言った言葉を無視しました。
ちょっと怒っているだけだろう。
そんな軽い受け止め方をしていました。
何日か過ぎた夜、サークルから帰ってきた私の部屋の前まで彼は車でいきなり来て、
彼は私に車の中から「さよなら。」を言いました。
走りすぎるテールランプを見ながら、そこまで言わせても、
私はいつもの喧嘩程度にしかとらえていなかったのです。
なんか怒ってるけど、私から気持ちが離れる訳がないって、あまりにも自分勝手な解釈です。
すぐに戻ってきてくれる。
その時、謝って別れたくないと言っていれば、私が反省して彼がしてくれたすべてのことがどれだけ大事なことだったかに気づいていれば、私たちは別れることはなかったでしょう。
でも、私はたかをくくっていました。
彼の怒りが冷めれば元通りになるって。
それどころか、彼が私の元から離れる訳なんてないって思い込んでいました。
どれだけ高慢で嫌な女だったのかと思います。
彼は二度と戻ってきてはくれませんでした。
あの「さよなら。」が最後の言葉だったのだと気づいた時には手遅れでした。
数ヶ月が過ぎて私がなくしたモノの大きさに気づいた頃、彼にはもう新しい彼女ができていました。
私と違って彼をとても大切に彼のことだけを想う彼女が。
彼が私と付き合っていた時から彼のことだけを想っていた彼女が。
その時にはもう、私には入り込む隙間はありませんでした。
彼の新しい恋人のお腹には命が宿っていました。
私は彼に「ずっとありがとう。」の言葉も、「ごめんね。」も「さよなら。」さえ言えずに、かけがえのなかった人を失いました。
いくら後悔しても後戻りはできませんでした。
その時の心の痛みは傲慢だった私を成長させてくれたけれども、取り返しのつかない傷となって残っています。
誰のせいでも無い。
自分のせい。
夫との出会い。
彼と別れてからは何となく、サークルの先輩と付き合ったりしてました。
先輩には悪いけど、強い気持ちは無かったです。
サークルの仲間うちで親しくなってその流れでみたいな感じでした。
私はその先輩と一緒に暮らすようになりました。
でも、二人きりで暮らした期間はほとんど無くて、サークルの仲間やその友達たちがいつも集っていてたくさんの友人がいつも泊まっていました。
シェアハウスみたいな感じです。
その頃知り合った友人の中の一人が夫です。
まさか結婚することになるとは、当時はまったく思っていませんでした。
母とは相変わらず、あまり会話の無い親子のままでしたが、私が大人になった分、思春期のギクシャクした関係ではなくなっていました。
母は当時、小さいながらも日本舞踊の流派を作り家元になって指導していた叔母の手伝いを仕事にするようになっていました。
その頃はまだ手伝いでしたが、その仕事は母が生涯貫き通した天職だったのだけれど。
その当時の私はただ、だらだらと暮らしていたように思います。
流れるにまかせ流れていただけ。
いつもたくさんの仲間が居て寂しくはなかったけれど、楽しく暮らしていたのだけれど、
心の奥はとても空虚で。
暮らしもなんとなく何とかなっていたのだけれど、何かが違う私がしたいことと違う。
そう思っていました。
10へ続く。
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