普通の主婦の普通じゃなかった半生 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ 総集編
突然の母の病。
そんなやっとやっとの落ち着いた日々に突然それは起こりました。
去年の1月頃から母は右胸の下の方の痛みを訴えるようになりました。
その前の年の人間ドックは胆石があるだけで健康。なにも異常なしでした。
総合病院に受診したところ、ちょうど胆石がある場所だったので胆石が動いたことによる軽い炎症での痛みで様子見ということでした。
なので私は大して心配していませんでした。
でも、その痛みは少しづつひどくなっていきGW前にはキリキリと痛み寝返りがうてなくなりました。
また受診しましたが、結果は前と同じ大きな胆石による痛み、抗生物質で炎症を抑えましょう。そう言われました。
GW中、母はずっと薬を飲んでいましたが、痛みは日に日にひどくなって我慢できない痛みになりました。
さすがに心配になった私はGWが開けた次の日に母について総合病院に行きました。
そこで詳しく検査をしていきなり母と私は宣告を受けました。
「末期の肺癌です。」と。
痛みを訴えだしてから3回目の大きな総合病院での受診です。
前の年までは綺麗な肺ですと言われていた母です。
そんな馬鹿な!
私は動揺してどうしていいのか?わからなかったけど、母はとても冷静に医師の話しを聞いていました。
診察が終わって入院が決まり、心細かった私は慌てて仕事中だった夫に来て貰い、食事に行って3人で話しました。
母はこう言いました。
治らない病気なら一切の延命治療はいらない、入院もしたくない、家で過ごしたい、9月のチャリティの踊りの会は自分が役員で会長だからやり遂げる、お稽古も休まないと。
母は落ち着いていたし、しっかり自分の意思を持っていました。
母は痛みがひどくなってから自分の病気が悪い病気だと気づいていたようでした。
一人暮らしでは心配だから、せめて私の家に来て。
そう言った私にもきっぱりと、お稽古があるから今まで通りで大丈夫、心配しなくていい。
そう言いました。
ただ、もう一度旅に行きたい。
時間を作ってソウルに連れてってくれる?
私は「うん、わかった。」それだけ言うのがやっとでした。
次の日から母は検査入院を2週間ほどし、自分の意思通り延命治療を一切拒否して退院して自分の家に戻りお稽古を続けました。
延命治療をすれば入院生活を続けなくてはいけなかったし、副作用で仕事ができなくなるからでした。
私は母の意思を尊重するしかなかったです。
それまで通り、私は母の仕事を手伝いに母の家に通い食べ物を運びました。
検査入院での診断結果は余命2ヶ月だったけど、それは母に言えませんでした。
結果通りなら母は7月までの命だったから。
9月のチャリティの踊りの会の舞台に立つことはできない。。。
辛かったです、とても。
心配だったです、とても。
でも、母は病気に負けていませんでした。
去年の7月の始め母のお稽古の合間に、母と夫と私は三人で大阪旅行に行きました。
痛み止めにモルヒネをつかっていた母は海外に出ることができなかったからです。
それならば、故郷の大阪がどう変わったか見てみたいと母は言いました。
大阪のいろんな場所を観光して回りました。
母は元気でよく食べよく笑いました。
それまで行ったどの旅行よりも母ははしゃいでいて楽しそうでした。
写真 母との最期の親子旅行になった大阪で。
だけど、母の病気は確実に進行していました。
去年の8月のはじめ、一緒にお昼を食べに行った時にまったく食べられなくなった母に気づきました。
その数日前までチャリティの踊りの会の打ち合わせに出ていた母です。
私は驚きました。
そんなに病気が進行しているなんて。。。
母は一人で我慢に我慢を重ねていたのです。
次の入院は最期の入院、もう病院から出ることはできない入院。
母も私もわかっていました。
でも、まったく食べ物を受け付けなくなった母に私は入院を勧めるしかなかった。
母も限界だったのでしょう。
末期治療のホスピスにその日、母は入院を決意しました。
それでも入院してからも母は仕事の資料を持ち込み、病室で仕事を続けていました。
どうしても9月の舞台に立つ、私にはやらなくてはいけないことがまだ残っている。
母はそう言いました。
私はそこまで母が自分の仕事に日本舞踊に命をかけてまで打ち込んでいることをはじめて知りました。
母は動くことや話すことができなくなるまで仕事を続けました。
ベットから自力で起き上がることができなくなっても、手だけで振り付けをしていました。
動けなくなっても母は泣き言一つ言いませんでした。
母が動けなくなってから私に頼んだことは仕事のことと、
髪を染めて欲しい、マニキュアを塗り直して欲しいそれだけでした。
身体の自由がきかなくなっても母は「あっちゃん、その服いいね。」と言いました。
元気でお洒落だった頃の母のままでした。
辛かっただろうに、母は最期の最期まで私にすら甘えませんでした。
「痛い?しんどい?」そう聞く私に、母はずっと大丈夫だと言いました。
けれど、母は急激に衰弱していきました。
入院してから2週間しか過ぎていないのに、動くことも話すこともできなくなっていきました。
母が話せなくなってから、私はただただ母に「ありがとうねママ。」そう言い続けました。
意識も朦朧としていた母はそれでも小さく頷いてくれました。
最期まで毅然とした美しい人でした。
母はずっと演じていたんだと思います。
母はずっと女優のままでした。
そして、去年の9月5日、入院たった1ヶ月で母は逝ってしまいました。
眠ったまま笑顔さえ浮かべていました。
母の葬儀は陰気くさいことが嫌いだった母をできるだけ華やかに見送りたくて、できる限り盛大にしました。
「日本舞踊葬」として母の女優時代の美空ひばりさんと共演している映像や母の代表作の日本舞踊の舞台も参列していただいた方々に観ていただきました。
祭壇の花々も母が好きだったピンク色にしました。
母が親交のあった芸者さんたちは生演奏で三味線や笛や歌を披露してくださいました。
参列してくださった方々に心のこもったいいお式でしたと言われました。
母は喜んでくれたでしょうか?
私は自分を忙しくすることで、悲しみに押しつぶされそうになるのをこらえるのに必死でした。
写真 母のために私が最期にしたことは花祭壇のデザインでした。
母が亡くなって、私は血縁上、天涯孤独になりました。
夫や友人たちは私を心配し気遣ってくれ、旅行に連れて行ってくれたり、飲みに付き合ってくれましたが、茫然自失だったのでしょうか?あまり記憶がありません。
だけど、母の四十九日が過ぎた頃、幼い頃以来ずっとどこに居るのかもわからなかった父から突然電話がかかってきました。
ずっと探していた父でした。
それがひょんなことで居場所がわかり、私が手紙を書いたのがきっかけでした。
私はすぐに父に会いに行きました。
腹違いの妹2人と弟1人も来てくれてみんなで食事しました。
私にまた血の繋がった家族ができました。
それから妹たちや弟は私に良くしてくれています。
父は私がまた会いに行くのを楽しみにしてくれています。
それは母が私が寂しくないようにとしてくれた最期のプレゼントだったように思います。
余談。
猫の天は母の病気がわかった次の日、去年の5月7日に、知り合いのカフェの天井から落ちてきた子猫でした。
真っ白でフカフカで天使みたいな子。
「天井から落ちてきた」「天使みたいな」そして母のことを「天に祈る」気持ち。
それで「天」と名付けました。
小さな天があの時期に居てくれたおかげで私は家で泣いている暇がありませんでした。
8月に入院するまでちょこちょこ家に来ていた母は天を抱いてこう言いました。
「あなたは私の分まで元気で長生きするのよ。」と。
家の子になるために生まれてきてくれた子のように思います。
天は本当に天からの授かり物だったように思います。
写真 家の子になった頃の天。
読んでくださったすべての方へ。
ありがとうございました。
この私におこった物語が、今、いろんな問題を抱えているすべての方々の励みになればと思います。
そして、私が今ここに居ることに感謝し、
この物語を母に捧げます。
「ママ、産んでくれてありがとう。」
私は今、幸せだよ。。。
母の遺骨は半分はお墓に、半分は母の好きだったグアムのタモンビーチの沖合いに散骨しました。
海は繋がっています。
どこで潜っても私は母と一緒です。
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