普通の主婦の普通じゃなかった半生 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ 総集編

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「一緒に暮らせばここよりずっと良い社宅のマンションに住めるよ!」と。

私にすればいい加減な話しですが半分成り行きでした。

それで私たちとピキオとビーは同棲生活を良いマンションではじめました。

同棲生活がはじまって半年ほど過ぎた頃でした。

今度は夫は私にこう言いました。

「年内に入籍すれば税金がたくさん戻ってくるよ!」と。

それが夫の私へのプロポーズでした。

ものすごく生活感にあふれたプロポーズでした。

それで私たちは年内の12月12日ワンツーワンツーの日に入籍しました。

ワンツーワンツーの日にしたのは、その先に明るい未来に繋がる一歩にしたかったからです。


こうして書くと私が良いマンションや戻ってくる税金に目がくらんで入籍したみたいですね。

でも、もちろんそれで夫との結婚を決めた訳ではありません。

私が夫に惹かれたのは、夫がそれまでに出会ったどの男性よりもハングリー精神が強く、仕事熱心で、何が何でも成功してみせる!そんな意欲にあふれた人だったからです。

現状に満足するのではなく、いつも上を見て上を目指して夢に向かって努力する、そんな夫に私はかけようと思ったからでした。

夫が私を選んだ理由はイマイチわかりませんが、聞くと「好きな音楽や映画や感性が似ていたから。」だと言います。

一緒に人生を楽しめると思ったからだと。

好きだったからだと言わせたいと常々思っていますが、夫の口からその言葉は残念ながら言われたことはありません。


順序は逆になりますが入籍した私たちは翌年の1月にハワイで結婚式を挙げました。

優雅に感じられるかもしれませんが、何故、ハワイだったかというと二人ともほとんど貯金が無かったからでした。

その頃、日本でウエディングドレスをレンタルするとそれだけで20万円以上かかりました。

ハワイだと買っても1万円くらいからで、挙式費用も小さな教会で挙式すれば写真付きで6万円ほどでできたのです。

私たちは新婚旅行もかねて、夫の両親と私の母とみんなでハワイに行き、セントピータース教会という小さな教会で無事夫婦の誓いをしました。

1995年1月でした。


写真 ハワイでの結婚式。



夫の両親との同居と鬱病(パニック障害)のはじまり。



結婚してから2年間、私は良いマンションで順調で幸せな日々を夫と猫2匹とで過ごしました。

夫が理解のある人だったので、母との親子旅行も続けていられて、母との関係も良好でした。

夫の会社は急成長していき、夫の仕事は忙しくて家に居ない日も多かったけど、生活も安定して私は生まれて初めてのんびりと毎日をおくっていました。


だけど、また私に波乱の波が押し寄せてくることになります。

それは夫の両親との同居でした。

夫の実家がそれまで住んでいた食堂の二階の借家暮らしから、新築で家を建てることになったのです。

土地は夫の父が買ってくれていました。

だけども上物は夫の名義でしかローンが組めません。

そうなると、夫と私は二重にローンを組むことはできないので、持ち家を持つことは不可能です。

なので二世帯住宅を建てようという話しになったのです。

それで、私たちと夫の両親は二世帯住宅を建て、そこで同居生活を始めました。


今から思うと最初からそれは無理な話しだったのです。

普通の家族というものに囲まれて育ったことのない私です。

中1から一人ぼっちだった私です。

ずっと自分のペースでしか生活してこなかった私です。

その私がいきなり夫の両親と一緒に生活をはじめてしまいました。


同居を始めてから二世帯住宅とはいえ、私のプライベートな時間が無くなったのがすべての原因でした。

夫の母は大家族の末っ子でした。

プライバシーという概念がありませんでした。

何の悪気も無いのですが、昼夜関係なく私たちの部屋に度々入ってこられました。

夫の母はむしろ私を気遣って、私とうまくやっていこうとして好意でしてくれていたことだと思います。

でも、自分でもさほどそうは思っていなかったのだけれど、私にはそれが我慢できないくらい苦痛だったのです。

同居して何年か過ぎた頃に私は夜中に猛烈な吐き気に襲われて何度も吐き続け、救急病院に運ばれました。

その時は食あたりということで吐き気止めの点滴を朝までして家に帰りました。

でも、また1週間後に同じ症状で同じ病院に運ばれたのです。

不審に思ったお医者さんが動脈採血をして、私の病気は食あたりではなく過呼吸の発作、パニック障害であること、心療内科で治療を受けなくてはいけないことを告げられました。

そして心療内科を受診した私は鬱病の診断を受けます。

たしかにその頃の私は無表情でまったく笑えなくなっていたし、睡眠も夜中に1〜2時間おきに起きてしまって十分にとれず、いつもダルく疲れていました。

自分を自分でコントロールすることが不可能になっていました。


それが長く付き合うことになった鬱病の始まりでした。


子宮摘出。



鬱病が長く続く原因になったのは夫の母だけではありません。

もっともっと大きな原因がありました。


30代後半、私は妊娠をしました。

何故?そんな年齢まで妊娠しなかったかというと、できなかった訳では無くて、私は子供が欲しくなかったからでした。

正確には欲しくなかったというより恐かったのです。

母になって自分がやっていける自信が無かった。

ネグレクトで育った私が自分の子を同じようにしてしまうんじゃないかと、そう思っていました。

幼いとき、父にも母にも愛情をもらえなかった私が、自分の子に愛情を注げるかとても不安だったのです。

だけど、30代後半になってやっと自分に子供を育てる自信ができた時、やっと妊娠することができた時には、手遅れになっていました。

私の子宮には握り拳ほどもある大きな筋腫ができていました。

同時に子宮内膜症も見つかりました。

私たちの小さな赤ちゃんは私の筋腫に挟まれて大きくなれずに亡くなりました。

妊娠4ヶ月の時でした。


二回目の妊娠はありませんでした。

私の筋腫はとても大きく、生理の時の出血が多すぎて血液の量が普通の半分になっていました。

常にひどい貧血状態でした。

怪我をして出血すればすぐに命に関わる、そんな状態で内膜症もあった私は筋腫だけ取り除くことが不可能で、お医者さんに子宮の摘出を勧められました。

子宮を取ってしまうことは女でなくなってしまうこと。

もう子供は望めないこと。

子宮摘出手術は歩けなかった足の手術をする時よりもずっと辛い決断でした。

でも、選択肢は他になかったのです。

私は子宮摘出の手術を受けました。

手術が終わって麻酔から覚め、付き添ってくれていた夫が仕事に行ってから、私は生まれて初めて人前で看護師さんたちの前で声をあげて泣きました。

しゃくり上げるほど大泣きしました。

恥も外聞もありませんでした。


ごめんね。産んであげれなかった子供に。

ごめんね。父親にしてあげれなかった夫に。

ごめんね。孫を見せてあげられなかった母と夫の両親に。

それまで我慢していた感情がこらえきれなくなって押し寄せてきて、私はただただ悔しかったです。

辛かったです。

それはいろんなことがありすぎた私の人生の中でも一番辛かったことでした。


身体の傷は癒えても心の傷は長いこと癒えませんでした。

私は夫に八つ当たりをするようになりました。

夫が悪いわけではない、それは重々わかっていました。

だけど、心のジレンマをぶつける相手は夫しか居なかったのです。

私は子供の時と同じように現実から逃げていました。

そして度々パニック発作をおこしました。

夫はできるかぎりのことをしてくれました。

散歩が良いと聞けば、早朝でも深夜でも散歩に連れ出してくれ、

私の心が安まるように、休みを取ってリゾート地に旅行に連れ出してくれました。

ただ海を眺めのんびりする旅でした。

海を見ていれば私の心は落ち着きました。

昔の彼と同じように夫は私を海に連れて行ってくれました。

海が海だけが私を癒やしてくれると夫は知っていました。

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