普通の主婦の普通じゃなかった半生 (実話自伝)登校拒否〜身障者〜鬱病からダイバーへ 総集編

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写真 まだ友達だった頃の夫。



初めて持った夢。



手術入院から退院して半年間のリハビリを終え、私はまた歩けるようになりました。

手術前よりも膝のお皿は外れにくくなったとはいえ、完治した訳ではありません。

障害がわかった時と同じ制限は色々とありましたが。

その頃、私はテレビでイルカと泳いでいる女性の映像を見ました。

元々海が大好きで、動物すべてが大好きだった私はその映像に憧れました。

綺麗な海に潜ってみたい。

ダイバーになりたい。

漠然とでしたがそんな夢を持ったはじめでした。

水泳はできるんだから膝の悪い私でも重力の無い海の中では自由になれるはず。

スクーバダイビングとタンクを背負わないフリーダイビングの区別すらついていなかったけど、ダイバーになることは私の夢になりました。

でも、障害を持った私に実際可能なことなのか?もわからなかったし、お金も無かった私には、まだ遠い遠い夢でした。



母が紆余曲折の末たどり着いたついた日本舞踊の家元という仕事。



その頃の母は日本舞踊の指導に馴染み、体調を崩していた叔母の代稽古をするようになりました。

まもなく叔母は身体の不調を理由に母に「吉野流」家元の座を譲りました。

岐阜の小さな流派とはいえ、当時は100人近いお弟子さんが居ました。

母の経済的な困窮はそれで救われることになります。

母の初舞台は4歳です。

それからずっと続けてきた日本舞踊、それは母の唯一の財産でした。

母の芸、母の舞台は身びいきを除いても引き込まれるほど美しく素晴らしいものでした。

舞台に立つ母を見るときだけは母を心から尊敬できました。

日本舞踊を教えることは母の天職だったと思います。

母も自分が持つ能力以上に日本舞踊の指導という仕事に必死になっていました。

キャバレーでのショーやクラブ歌手やブティック経営、何をやってもうまくいかなかった母にとって、自分の芸にかけるしか、もう道は無いと母も思っていたんだと思います。

でも、それまで叔母についてきたお弟子さんたちが、いきなり家元を継いだ母をすんなりと認める訳はありませんでした。

叔母の指導方法と母の指導方法との違いも大きかったように思います。

ほとんどが女ばかりの世界、叔母のすぐ下で幹部をしていた人たちとの確執もありました。

母の神経はすり減っていきました。

その頃の母にはまだ「家元」という看板が重すぎたのだと思います。

母は自律神経失調症になりました。



母との世界放浪の旅のはじまり。



自律神経がおかしくなり、ふらつきで仕事に支障が出て母は困っていました。

そんな時、お医者さんから気分転換に旅行にでも行きなさい、そう勧められました。

それまでの母と私がした旅行といえば2度だけで、そのうちの一度は前に書いた父に会いに行った横浜、もう一度は一泊で鳥羽に行ったことがあるだけでした。

関係性の薄い母と子、私の手術入院の時すら病院にたまにしか顔を見せなかった母です。

母からどこか一緒に旅行に連れて行って、と頼まれた時は複雑でした。

気分屋で気難しい母と二人で旅行、じっくり話したこともないのに?

母ははじめ北海道に行ってみたいと言いましたが、旅行会社で色々調べてみたところ、北海道に行くのとハワイに行くのと変わらない料金でした。

母の時代の人の憧れの地は断然ハワイだったようです。

母は「一生に一回でいいからハワイに行ってみたい。」

そう言いました。

それくらい海外旅行をするなんて、その時の母には現実離れしたことだったのです。

私は母と旅をすることにしました。

母と行くのは不安だけど連れて行ってもらえるなら、私もハワイに行ってみたかったから。

そして、こんな母子でも、やっぱり母のことが心配だったから。


6日間のハワイ旅行はとても楽しいものでした。

見るものすべてが珍しかったです。

6日間も朝から晩まで母とずっと一緒に居たことは生まれて初めてでしたが、母はとても機嫌が良く、気難しくはあるけれど笑い上戸でもあった母はよく笑いました。

あの旅が母と私の関係修復、いや?絆を作っていくきっかけになりました。

母と私ははじめて親子らしい会話をし、はじめて親子らしく二人で食事や買い物を楽しみました。

それでも、母がいきなり「お母さん」になったというにはちょっと違います。

母と私は少しづつ心が通い合いはじめ、ここからやっと親子になっていったように思います。


写真 初めて行ったハワイで母と。


一生に一回でいいからハワイに行ってみたい。

最初で最後のはずだった海外旅行はこのハワイをきっかけに行けるだけ世界各地に行ってみたい。に変わりました。

それほど、このハワイ旅行は母にも私にも楽しいものでした。

家元になりお弟子さんをたくさん抱えるようになった母は、やっと経済的にも余裕ができてきていたのです。

そして母も娘である私と一緒に旅をすることで結びつきを強くしていきたい。

そう思い始めてくれていたように感じます。

それから、母と私の世界放浪が始まりました。

お稽古の時間をやりくりしては海外に飛びました。

ドイツ、イタリア、スペイン、フランス、ギリシャ、アメリカ西海岸、メキシコ、オーストラリア、いろんな国に母と私は出かけるようになります。

もちろん優雅な旅ではありません。

安いエアチケットと宿だけ押さえて行った先で旅行者用の電車の乗り放題チケットなどを買い、本を片手に行き当たりばったりの旅でした。

今、思うとかなり無謀なことをしていました。

ネットも無い時代にろくに英語も話せない母子が身振り手振りで本だけを頼りに世界を旅していたのだから。

母は若いうち行けるうちに遠い異国に行きたい、そう思っていたし、

私は歩けるうちに行けるうちに遠い異国に行きたい、そう思っていました。

海外で歩けなくなったら、その時はその時だ!そう開き直っていました。

そう思っているのは、実は今も変わりません。

今もいつ歩けなくなるかもしれないのだから。


どの旅も良い想い出です。

どの旅も印象深く楽しいものでした。

何より母と私の距離はどんどん近くなっていきました。

遠い異国で頼りになるのはお互いだけです。

お互いをわかりあおうとするようになりました。

口喧嘩もたくさんしました、でも、喧嘩すらしたことがなかった母と私はその度に親子らしくなっていきました。

はじめて行くいろんな国でいろんな経験をあの時期に母と共有できたことは、何よりの私の宝として残っています。



結婚。



夫と私がつきあい始めたのはいつだったのか?

いい加減な話しですが定かではありません。

夫が大学1年の18歳の頃から友達だった私たちは、あえて話さなくてもお互いのことを知っていたし、お互いの彼氏彼女とその遍歴すら知っていました。

私の部屋が友達たちのたまり場になっていた頃から夫はそこに居て、最後まで残ったのが夫だった。

まったくロマンも何もない話しですが、そんな感じでした。

出会ってから10年近い年月が流れて、ふと気づけば私の隣に居たのは夫だったのです。

付き合ってくれと言われたこともありません。

夫はその頃、まだ誰も名前を知らなかった会社に就職していました。

夫の家の家業は食堂でした。

小さな食堂を夫の両親が経営していました。

夫と夫の両親はその食堂の二階のたった二間に住んでいました。

夫も裕福とはいえない育ち、いや、はっきり書けば私たちは二人揃って貧乏育ちでした。


私が歩けるようになって母と旅をしだして母との関係を築き始め、母の仕事を手伝いだした頃でした。

私はボロアパートで一人暮らしをしていました。

正確には幼い頃から大好きだった猫、捨て猫だった黒猫たち「ピキオ」と「ビー」一人と2匹暮らしでした。

夫がいきなりこう言ったのです。

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