『河 岸(カシ)』父親と暮らした記憶がない、半身の私が、人生の旅に出たストーリー
あなたには、岸の向こうに何が見えましたか?
そして、何を感じましたか?
ー教えてください
1970年 戦後、日本が高度経済を成し遂げる最中。
ちょうど大阪万博が開催された年に、私はこの地に生を享けた。
私は、お母さん、5歳上のお姉ちゃん、3歳上のお兄ちゃん、私との4人家族である。
小さい頃のお姉ちゃんは体が弱かった。
性格もおとなしく真面目で、気の弱いところもあり、医師から20歳まで生きられないと言われたと聞いた事がある。(今では、2人の子の母親として元気でいるが)
お兄ちゃんは、女の中のたった1人の男だっったせいか、気の優しいお兄ちゃんだった。
私は、末っ子で甘やかされ、小さい頃から落ち着きがなく、自由奔放な性格だったと思う。
(今でも変わらないが・・・・)
お父さんとは、一緒に暮らして居なかったが、毎年、お正月の元旦には、父方の、おじい様の家に兄弟で行くのが恒例であった。
おじい様の屋敷は、自宅からバスで20分ほどの所にある。
両扉の大きな門の横に出入口があり、そこから出入りする。
門には、松が植えてあり、庭の池には錦鯉が泳いでいた。趣きのある割と大きな屋敷であった。
屋敷の横には、おじい様の営む会社の印刷工場が隣接していて、屋敷と会社の事務所が繋がっていた。
正月の元旦は、おじい様の家に孫達が集まった。
おじい様に、一人ずつ、三つ指をついて、新年のあいさつをすると、お年玉がもらえた。
それも、かなりの金額だった。小学生の私に、5万円程あり、時には10万円も入っていた年もあった。
おじい様は〝 厳格な人だった 〟であった。
あいさつ以外に話しをした覚えもない。
話しかけづらく、向こうからも話しかけてこなかった。
ー少し怖かった。
おばあちゃんは、話し好きで、サバサバしていたが、少し冷たい感じがした。
お父さんの兄弟姉妹には、まずお兄ちゃんがいた。
その叔父さんの子供は、男の子が2人いた。
従弟にあたる健一君と浩二君だ。2人共とても背が高く、おじい様の屋敷の鴨井に、いつも頭をぶつけそうだったのを覚えている。
私が高校生の時、お正月に、叔父さんは見覚えのない着物をきた奥さんらしき人を連れてきた。
叔父さんは、小さな女の子を抱っこしていた。
叔父さんは、お父さんと違って、愛想が良くいつもニコニコしていた。
お父さんには妹が2人いた。
恵子叔母様と京子叔母様。
恵子叔母様には、女の子と男の子の、年子の2人の子供がおり、顔立ちは日本人離れをしていて、綺麗な姉弟だった。
上の女の子の清香ちゃんは、色白で、フランス人形のように可愛く、クラッシックバレエを習い、お嬢様の雰囲気があった。
下の男の子の誠君も、無邪気で可愛い男の子だった。
京子叔母様は独身だったが、とにかく美しかった。
容姿端麗という言葉通りの人で、綺麗でいて優しく文句の付け所がなく、圧倒されるような存在感のある方だった。
おじい様に新年のあいさつを終えると、長居はせず、屋敷を後にした。
なんとなく、私達兄弟には、分不相応と言うべきなのか、緊張感があり遠慮がちだった。
そして、もう一人の、お祖母ちゃんの家に新年のあいさつに出かけた。
お祖母ちゃんは、お父さんの兄の叔父さんと同居していた。
お祖母ちゃんは、優しい目で私達を迎えてくれた・・・。
お祖母ちゃんの所に行くと、必ず、台所から七輪が出てきて焼肉を焼いてくれた。
下味を付けた、その焼肉がとても美味しいのなんの、少しピリ辛だったような気もするが、私達兄弟は、ムシャムシャ食べた。
ー今でも、その味が忘れられない。
舌の記憶だけは、今でも確かに覚えている。
お祖母ちゃんと言ったら〝焼肉〟なのである。
だから、父方のお婆ちゃんが2人いた。
今考えると、お婆ちゃんが2人いる事を、不思議に思わなかったのが不思議だが、当時は不思議にすら思わなかった。
お正月は、こういう感じで、おじい様の屋敷と、もう1人のお祖母ちゃんの家に、お年玉目当てに挨拶しに行き、年に一度だけは、お父さんの親戚に顔を見せたが、お父さんの姿はいつもなかった。
毎年、兄弟3人で、顔を出していたが、私が中学生ぐらいになると、お姉ちゃんは顔を出さず、お兄ちゃんと2人だけで行っていた。
しかし、私だけは、従姉弟にあたる、恵子叔母様の子供の清香ちゃんと誠くんと、歳が近いせいだろう、毎年小学校の夏休みなどは、おばあちゃんから家に誘いの電話があった。
学校が休みになると、何故か、清香ちゃんと誠くんは、いつも、おじい様の家で暮らしていたような気がする。
誘いに応じ、2,3日おじい様の屋敷に泊まりに行く事もあった。
清香ちゃんも誠くんも、私に会うのを楽しみにしていた感じだった。
従姉弟と3人で、おじい様の会社の印刷工場を〝うろちょろ〟する事もあった。
工場の1階は、印刷機の音や、塗料の独特の匂いがした。2階は、紙を切断する機械や梱包をする所であり、2階から1階へ、段ボールに梱包された完成品が、ローラー滑り台に載ってトラックの荷台へ運ばれて行く。事務所内には、事務員さんが数人と、叔父さんやお父さんの机もあったが、外回りの仕事なのか、いつも姿は見なかった。
働く大人達を尻目に、いろんな色を生み出す工場は、私には異空間で面白く見えたが、稼働日には、邪魔してはいけないと、あまり工場内には入れてもらえなかった。
屋敷の方で従姉弟と遊んでいると、ほんのたまに、お父さんが事務所から入ってきて
「来てたのか?」と声をかけられ
「あっ、うん」と顔を合わす程度だった、
古株の従業員が
「三ちゃん、居るかー」と事務所から呼びに来たことあった。
(さんちゃん?)
お父さんは順司と言う名だが、お父さんの事なのか?と不思議に思った事があった。
従姉弟と屋敷の近所の釣り堀に行ったり、トランプをして遊んだ。
私が何をするにしても、2人は笑ってくれた。
「次はあれやろう」「次はこれやろう」「次は何したい?」と2人を引っ張ってく、
兄弟の中では末っ子だった私は、お姉ちゃん気取りで、素直なついてくる2人がとても可愛かった。
おばあちゃんは私に
「この子達は何も1人で出来ないから真理ちゃん遊んでやってね」
「友達もいないから真理ちゃん遊んでやってね」等と、よく言われた。
清香ちゃんは、恥ずかしそうに、ふれくされて
「友達ぐらいいるもん」等と反論していたが、綺麗な顔をして、少し気が弱そうな清香ちゃんが実に可愛かった。
おばあちゃんも、清香ちゃんや誠くんには、
厳しい事を口では言うものの、可愛がっているのがよくわかった。
お風呂あがりは、従姉弟の下着や寝巻きが、きちんと畳んで用意されていた。
私は、鞄から自分で出して用意する。
清香ちゃんを三面鏡の前に座らせ、おばあちゃんは、清香ちゃんの長い髪にドライヤーをあて髪を乾かすと、みるみる、髪がサラサラになって髪がなびく。
ー漫画の中のお姫様みたいだった。
見とれている私を見て、
「真理ちゃんも乾かしてあげようか?」と言われるが
「あっ・・・自分でやります」と適当に乾かす
そういう場面で必ず
「真理ちゃんは偉いねぇー」と褒められた。
1人で何でも出来たし、褒められるから、つい、お利口さんの振りをした。
夜になると、おじい様の部屋に、ふかふかのお殿様のような布団を、おばあちゃんが敷いていたが、帰りが夜遅いのか、帰って来た様子は、いつもなかったと思う。
食事も、おじい様には別格の膳が、いつでもおじい様の部屋に運ばれるように用意されていたが、おばあちゃんや従姉弟と私は台所での食事だった。
おじい様のベンツで、おばあちゃんと従姉弟2人と私で、おじい様の別荘に行く年もあった。
おじい様が運転して、助手席におばあちゃんが乗り、決まって私は、従姉弟が喧嘩しないように、後部座席の真ん中に座らされた。
おじい様の別荘は、高速道路を使って山間部の方へ走り、インターチェンジを降りて林道を少し走ると、山の中にポツリとあった。
コンクリート作りの2階建てで、別荘の門にも、門かぶりの松の木が植えられていた。
おじい様は、決まってゴルフに出かけた。その間は、おばあちゃんは、別荘の掃除をしていた。
従姉弟と私も、別荘の庭の池の掃除と称して、おたまじゃくしを捕まえて遊んだりしていた。
別荘から、歩いて直ぐの所にゴンドラリフト乗り場があり、ゴンドラリフトで川を渡ると遊園地があった。遊園地にも連れて行ってもらい従姉弟と私は、はしゃいで楽しんだ。
おじい様がゴルフから戻ると、別荘には泊まらず、別荘近くの高級ホテルに泊まった。
別荘から、おばあちゃんの実家は、それほど遠くなかったのか、おばあちゃんの実家に立ち寄った時があった。
田舎の家で、おばあちゃんの実家の前の川は、とてもキレイだった。
川で遊んだ事などなかった私は、水が冷たいにも関わらず、唇が紫色になりながらも、従姉弟と3人で泳ぎ回った。
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