『河 岸(カシ)』父親と暮らした記憶がない、半身の私が、人生の旅に出たストーリー

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 おばあちゃんの実家の親戚に、私の事を紹介する時、

「順司の子だわ」

と冷たい感じで紹介された。

 従姉弟と私とでは、おばあちゃんが孫に対する扱い方に違いがある事はわかっていたが、たまにしか、会うことがないせいだとばかりおもっていたが〝順司の子だわ〟の一言は

子供心にも、不思議な疎外感を強烈に感じてしまった。


 今の時代、母子家庭も父子家庭も珍しくない世の中だが、当時は、学年に一家庭、居るか居ないかぐらいで、母親が働きに出ている家庭も少なかった。


ー私は、父親と暮らした覚えがない。


 幼い頃、お父さんが、朝、突然帰って来て、家の食卓で塩辛に一味をかけ、それをおかずにしてたべていた記憶がたった一つあるだけだ。

 だから、父親が居ない生活があたり前で、父親が居なくて寂しいなどと感じた事もなかったが・・。

 その時代、小学校の学年が上がるたびに、学級名簿が学校から配布された。

保護者の欄の、父親の欄が空白で、母親の名前だけが載っていた。しかも、母親の名前が〝ひらがな〟だったので、父親が居ないのが、あからさまだった。

気恥ずかしさから、毎年イヤな気持ちにはなった。

 父親が居ないからといって、イジメに会う事もなく、父親が居ない事を問われる事もなかったが・・

一度だけ、中学生の時に、近所のYちゃんと喧嘩をした時に、喧嘩がエスカレートしてしまい、

「ててなし子のくせにー」

と野次られた。私は腹を立てて、相手の子の顔を殴り、傷を負わせてしまった。

その夜、Yちゃんの母親はYちゃんを連れて、家に怒鳴り込んできた。

理由を問い詰められが、黙り込んでいた。お母さんは、台所に私を呼んで、理由を問いただした。

言いたくはなかったが、仕方なく『ててなし子』と言われた事をいうと。お母さんは、Yちゃんの母親に向かって毅然とした態度で、

「お宅の子に、娘が『ててなし子』と言われたそうです」と言いのけた。

その親子は、分が悪そうにそそくさと帰った。

『ててなし子』と言われたぐらいで殴ってしまい、お母さんが、父親が居ない事を私が気にしているのでは、と勘違いしたらどうしよう!

と心配したが、かばってくれた事も嬉しかった。

 高校生ぐらいになると、なんとなく友達どおしで家庭の話しになった時

「私の家、母子家庭だからさぁー」と話すと

「ごめん、変な事聞いちゃって」

周りの反応は同情的であった。

気にされる気持ち悪さから、あえて自分から話す事は面倒になり辞めた。

母子家庭というのは、当然、母親が仕事に出ているせいもあり、自分だけの自由な時間が多かった、怒られる事もなく、自由気ままだった。


ー母子家庭万歳!


との思いが、私的にはあったので、母子家庭が同情される事がかえって不思議だった。

そもそも、最初から、家に父親が居ないのだから、私には、それが普通だった。

父親とたまに会うと

「女の子は女らしく」

「髪の毛を切ってはいけない」

「スカートをはきなさい」

などと言われ窮屈に思えた。

あの人が、もし家に居たら、逆にゾットするぐらい思っていたのかも知れない。


 ある程度の年齢になって、父母は離婚している事に気づいたが、

なんで離婚したのか?

いつ離婚したのか?

という事は、誰にも聞くこともなかったし、考えた事もなかった。


 ただ、高校生ぐらいの頃だと思うが、記憶がふと蘇った事があった。

小学校に上がる少し前の幼稚園の頃。

久しぶりに、父、母、兄弟で、母方の親戚の家に行った。

親戚の家には、姉や兄と、歳の近い従姉弟も居たので、私は喜んだ。

しかし、久しぶりに出かけたというのに、

「ママとパパは、お話しがあるから、みんなで遊んでいてね」

と父と母は、母の実家へ出かけてしまった。

はしゃいで従姉弟どうしで遊んでいたが、夜遅く迎えに来てくれた時の、お母さんの寂しそうな顔を思い出した。

そういえば、あの時、離婚について、二人で話しあったのか、

もしくは、母の実家に報告したのではないか、

と確信した瞬間があった。


 とりわけ、母子家庭だからといって苦労した覚えがないのは、お母さんの一方ならぬ愛情が伝わっていた事が大前提にある。



 幼い頃、お父さんに、遊園地や海水浴に連れて行ってもらった思い出はある。

私は、その日ばかりは、お父さんに甘えた。

最後に行った遊園地は、たしか、私が幼稚園の年中組さんの頃だった。

私は、遊園地の乗り物が怖かった。

お父さんの大きな手が、私の小さな手を〝ずっーと〟握っていてくれた感触は、今だに覚えている。

 帰りの車の中で、私は、お父さんの運転する車の助手席に座り、後部座席には、お母さん、お姉ちゃん、お兄ちゃんが座って居た。

私は寝たふりをした。

「真理、疲れて寝ちゃったね。楽しかったんだね」

と優しいお母さんの声が聞こえた。

私は、日常では味わうことが出来ない、普通の家族というものに浸っていた。


 幼稚園の年長組の頃、近所の同級生のKちゃんのご家族に、お母さんと私だけ、海水浴に一緒に連れて行ってもらった時があった。一人っ子のKちゃんは、お父さんに、わがままを言ったり、遊んでもらったり、肩車をしてもらっているのを見て、ものすごくうらやましくなった。

うらやましさから、私は終始ふてくされていた。

せっかく、連れて行ってもらっているのにと、お母さんが困惑していた事を覚えている。


 その年の、家族で行った海水浴では、お父さんに、肩車をせがみ肩車をしてもらった時の


ー嬉しかったこと嬉しかったこと。


肩車をしてもらって写真まで撮ってもらった。

お父さんは、泳ぎも上手だった。

ブイのあるロープの所まで泳いで行った時は〝すごーい〟と目を丸くした。

海水浴場にあった飛び込み台も〝ザブーン〟と飛び込み


ーかっこよかった。

 最後に行った海水浴は、私が小学校一年生の時だった。

民宿で一泊の旅行だった。

行きは、お父さんの車で行ったが、

「仕事があるから帰りは電車で帰りなさい」

とお父さんは泊まらず帰ると言い出した。

「年に一度ぐらい、子供と一緒に居てあげれないの?」

と、お父さんとお母さんは、言い争いになりそうになり、私は慌てて

「電車で帰りたい、電車に乗ってみたい」と言った。

お母さんは、お父さんに対して腹立たしい思いもあっただろうが、私は必死に、明るくふるまった。

めったにない、家族の時間を大切にしたかった。

  末っ子のせいか、親の顔色をよく見て、我ながら、そういう時は 天才子役  だった。




 お父さんの出で立ちは、いつ見ても、シワ一つ無い、三つ揃えのスーツ姿で、靴もピカピカだった。

ー真夏でもだ。


俳優の石原裕次郎に似ていた。

 小学校に上がった頃から、数か月に一度ぐらい、家に突然やって来た。

 家でダラダラくつろいでいる時に、突然、スーツ姿のお父さんがやって来ると、恥ずかしいような、緊張した覚えがある。

構図としては、ダラダラしている、ちびまるこちゃんの家に、突然、石原裕次郎が訪ねてくるようなものだから、ちびまるこちゃんとしても、あたふたしてしまう始末みたいなものだった。

来た時は〝チラッ〟と顔を玄関先まで見に行ったが、会話もなく、お父さんも家に上がる事もなく、すぐさま帰って行くのである。

 何度かの内、お父さんの帰り際、黙って手の平を出し、こずかいをせびった時もあったが、パシンと手を叩かれ一円すら貰えなかった。

 たまにしか会えないのに、自分の事を可愛いと思ってくれているのであれば、少しのこずかいぐらいくれてもいいのにと計った。


 大人になってから気づいたのだが、

今の時代とは違い、毎月の養育費は振込という訳にはいかず、毎月、お金を持って来ていたのであろう。

だから、私が居る時とは限らなかったが、数か月に一度、顔を見ることがあったのだと思う。

私が中学生ぐらいまでは、度々、家に突然来た覚えがある。

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