10ヶ所転移の大腸癌から6年半経っても元気でいるワケ(3)
信じたくはないが、私の癌は天下のがんセンターの初診で指1本触れることなく「3期から4期」というお墨付きを貰ってしまった。普通だったら落ち込んで黙り込んでしまうところだろうが、私は片っ端から友人に電話してSOSを求めてしまった。
3Lサイズの体型からして健康的とは言い難いものの、普段元気印の人間が突然電話してきて悲痛な声で「私がんになっちゃったの。」と言われてもにわかに信じがたいのは当たり前。それがホントだと分かると絶句する人、電話口で泣き出す人・・・。
今から考えればなんとも迷惑な話だ。普通ならこっそり入院して、退院してから「実は」というのが大人の対応というものだっただろう。しかし、私はとにかく現状を伝えたかった。言わずにはおれなかった。
大学時代の友人のH子は私よりも8ヶ月早く癌の告知を受けていた。彼女ががんを患っていたのを知ったのは、ほんの2ヶ月ほど前のことだった。年に2,3回は電話で話していたが、その年はなかなか連絡が付かないまま、月日が過ぎていた。
11月の終わりに突然彼女から「実は直腸がんだった」と打ち明けられ大変驚いた。そのとき既に私は毎月少量の下血がありそのことも一応話してはいた。
それから2ヶ月。突然の大量下血、そして進行がんの診断。もちろん彼女にも電話した。大変驚いてはいたが、自分自身も元気になっているし、癌友ということでお互い助け合い頑張っていこうと励まされた。「癌友」という言葉はそのとき初めて聞いたが、なんとも心強かった。
がんセンターに行った翌日、2月14日は中学校の保護者会だった。息子の担任のN先生は6歳上の娘もお世話になったことがあり、ざっくばらんで何でも話しやすい先生だった。個人的に話したいことがあるからということで終了後に時間を戴いた。まずガンと診断されたことを伝えると大変驚かれていた。入試までは息子には内緒にするつもりだが、その後のサポートをよろしくお願いしますと申し出た。 話しているうちに涙がこぼれた。泣くつもりはなかったけれど、まだ15歳の息子を遺して万一のことがあればと思うと胸が締め付けられる思いだった。N先生も今にも泣き出しそうな表情で、でも「しっかりサポートしますから治療に専念してください」と励ましてくださった。
その夜、いよいよ夫が帰宅。決してばれないように演技に力を入れなければならない。その日はバレンタインデーということで手作りのチョコレートケーキを準備し、明るく振舞った。
自分でもやたらにハイテンションなのが分かった。とんでもない事実を隠すためには必要以上に明るく振舞うしかない。「大したことないみたいで良かったなあ」という夫に「ホントに良かったわ」と笑顔で答えていた。演技というより『嘘だったことにしたい』という願望が自然と笑顔を作っていたのかもしれない。
病院の検査予約は2月末から入っており、3月19日が最終診断発表日ということでそれまでの間かなり頻繁に病院に通うことになる。
一方、主人は大学勤務ということもあり、入試関係が終了する2月下旬からは在宅が多くなる。毎年3月下旬の学会に向けて忙しくはなるが、大学に出向かなくとも机があれば出来ることなので、在宅日が多くなるのが例年のスケジュールだ。いつどのタイミングで打ち明けるべきか?病気そのものに対する心配よりも息子の入試が終わるまで家庭内を如何に平穏に保つか?そのことで頭がいっぱいになった。
その翌日、私は都内の某神社に足を運んだ。そこは娘の幼稚園時代からのママ友Hさんに紹介された神社で、神主さんが鑑定を行っていた。それまでも判断に苦しむ時、年に一度くらいは鑑定をお願いしていた。
有名人や会社経営者なども足繁く通うという知る人ぞ知る由緒ある神社。「大先生(おおせんせい)」と呼ばれる神主さんが的確なアドバイスを下さり、事あるごとに助けられてきた。主人もこの神社を信頼していた。もっとも、進学その他、家族に関する相談が主で私自身のことを相談することは殆どないまま、もう十数年お世話になっていた。
自分の健康について以前に相談していればもう少し早くに手を打てたのでは・・・という思いもあった。後悔しても仕方がない。とにかく今までそこで言われたことがことごとく当たっていて、難問をクリアしてきた経緯があったため、絶対的な信頼を寄せていた。
本当なら「がんと言われたけどどうしたら良いですか?」と質問するべきだったが、がんという病名を口に出すことにためらいがあった。「おなかの病気になってしまい、手術するのですが大丈夫でしょうか?」となんともぼやけた質問になってしまった。
それに対しはっきりと一言、力強い声で「あなたは大丈夫!病気と仲良くできるから!」と断言された.。しかし、「病気と仲良く」という言葉に私は再発は免れないのだろうと直感した。それでも最終的に助かるのなら良し!これで命の保障は戴いた。「ありがとうございます!」というお礼の声が震えた。
すると思わぬことを助言された。「ハワイに行ってらっしゃい。」病気の相談に来ているのに何故?と意外な顔をしていると再び「とにかくハワイに行ってらっしゃい。」と笑顔で促された。「手術は4月が良い。その前に行って来たって良いんだよ。」
「大丈夫!」と断言された上にハワイに行くように勧められ、心は晴れ晴れとしていた。『とにかく助かるんだ!ハワイに行けば良いんだ!』もう治ったも同然という自信が心の底から湧き出てきて、笑顔で神社を後にした。信じるものは救われるというが、絶対的な信頼を寄せている神主さんからのお託宣は何よりの励まし、自信に繋がった。
鑑定結果に励まされ、私は手術に向け着々と準備をすることになった。まず、医師に厳しく言われたとおり、約2ヵ月後の手術までの間にダイエットに励まなければならなかった。2000gの未熟児で生まれたのに小4からはデブだった私。デブ暦40年以上。ダイエットも何度も経験したが、リバウンドを繰り返していた。
進行がんとなれば精神的にも食欲が落ちるのは当然。これは何よりのダイエットだ。試しに普段食べている食事のカロリー計算をしてみたところ、軽く3000キロカロリーを超えていた。これでは体重上昇が止まらないのは当然である。私は意を決して必要最低限の1200キロカロリーに抑えることにした。
医師からは運動を勧められていたが、運動音痴の私は何をどうやったらよいものか思い浮かばなかった。そこに妹が新聞の折り込み広告を手に、スポーツクラブ行きを勧めてきた。オープン記念で入会金無料、1か月分会費無料、更に2人で入会すれば月会費も割引だという。場所も2人の家の中間地点。共に電車で10分ほどの駅前。通うにも都合が良い。早速見学に行くことになった。
スポーツクラブといえばマッチョなお兄さんたちがバーベルを手にしている姿しか思い浮かばなかった。ところが、生まれて初めて足を踏み入れたスポーツクラブの光景は信じられないものだった。平日の昼間ということもあってか、おばあちゃんだらけだったのである。受付のあるフロアには様々なマシンが並び、皆が汗を流していた。
進行がんの診断を受けていた私はやはり精神的に追い詰められていた。人間は追い詰められるとなんとも醜い心が顔を出すものである。私は必死で運動しているおばあちゃんたちを見てなんともいえない気持ちになった。それはムカつきにも似た感情だった。
『そんなに長生きしたいのか~?1年ずつで良いから命くれよ~!』本気でそう思った。
しかし、ムカついてはいられない。気を取り直して入会手続きを済ませた。ここのクラブはプールもマシンも使い放題。私は全く泳げないが、プールの中で体操をやる「アクアビクス」や、水中ウォーキングが効果的だという。こうなったら『命くれよ~』なんて馬鹿なことを言ってる場合じゃない。頑張るしかない。かくして私は52にしてスポーツクラブデビューを果たしたのである。
食事制限と運動でダイエットも順調。私と娘の名演技により、ガンであることは夫にもばれず、公立高受験直前の息子にも気付かれることなく、全てはうまくいっているかのように見えたのだが・・・・。
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