アホの力 2-1.アホ、移り住む
場を創る…何だろ…何かカッコいい。
自分の中で妄想が膨らんだ。自分の周りに、地元からも市外からも人が集い、そこがボランティア活動の拠点となったり、街づくりのアイディアを産み出していったり。
何だか凄ぇぞ!!!そんな楽しそうな場、絶対創りたい!!!
でも…そこでふと気づく。
『どうすりゃ創れんの?そんな場は?』
そりゃそうだ。今までそんな事、考えた事は無かった。
まるで興味が無かったのだから。
営業職の経験は有ったくらいなので、人とのコミュニケーションは嫌いではなかったが、場を開いて中心に立つなんて事は、学級会で議長をやって以来経験が無い。
でも、移住する事は決めていた。いや、決めちゃってた。
南相馬に住みたかったから。
そう!私は南相馬に住む理由を探していたのだ。
そんな中で、場を開く事を思いついたのである。
そんじゃあこうしよう…普通に働きながら、空いてる時間で場づくりの勉強をしよう。勉強しながらどこかのスペースを借りて、仕事の時間外に場をオープンさせよう。
それで何とかなるだろ!
幸いにして、当時の南相馬にも、私に出来そうな仕事のクチが幾つかあった。地元の知り合いを通じて、そうした仕事を紹介してもらえるような話はしていた。
見切り発車も良いトコだった。
そんな時だ…不意に悪魔がささやいた。
当時のテント村に、Hさんという人が何度か来ていた。Hさんは震災前から街おこしの活動をしていた人で、分かり易く言えば『街の顔役』的な人物だ。そのHさん曰く
『凄い事になりそうなんだ』
との事。
訊けばHさん、街づくりに関する新たな事業を立ち上げようとしていて、そのプランで企画書を書いたら申請が通り、助成金が下りる事になったとの事。
その新たな事業とは『コミュニティカフェ』だった。コミュニティカフェとは、市民が気軽に集まれるカフェを創り、その場を利用して、セミナーや様々なワークショップを開催して、新たなコミュニティづくりを行おうという活動の事である。
何と、事業として行うので、きちんと給料も出るとの事。
このおっさん…凄ぇ!
何でこのタイミングで、私が欲しい場の提供を申し出てきた?
エスパーかこの人!?
Hさんの『やってくれないか?』と訊かれる前に、私は『やる!』と言っていたような(笑)。
この頃だった。私が南相馬に関わる仲間達から『軍曹』なるクールな通り名を頂戴していたのは。
米軍の払い下げで購入した作業ツナギを着て、スコップを手にドロ出し作業をするその姿が、塹壕を掘ってる軍曹といった雰囲気だったというのが、名づけの理由らしい。
私の本名である『戸田光司』と言ってもピンとこないが、『軍曹』という通り名は知っているという人が、少しずつ増えていた。
地元は、どこの馬の骨とも知らない私を…想いはあってもスキルは一切持ち合わせていないアラフォーの独身男を…温かく受け入れてくれてる!
仲間と呼べる存在も出来た!
ここでまた『思い込み』と『勘違い』モードのスタートである。
これ…やらなきゃならんでしょ!
このチャンスを逃したら、波に乗り遅れるっしょ
チャンスの神様は、前髪しかないという。通り過ぎてから捕まえようにも、掴むところが無いわけだ。
だったら…いつ捕まえるの?今でしょ?
という訳で、自分の中では移住決定だ!
アラフォー独身男の移住なんて、身軽なモンだ。しかも仕事も直前に辞めている。
同居していた母親を説得出来れば、後は家を探せば良いだけ。
しかし…母親には精神的負担をかけてしまう。一人暮らしをさせる事になってしまうからだ。これはなかなかに気が重い。
長期滞在していた南相馬から埼玉の実家に帰ったのは、ちょうど母親の誕生日だった。母親の誕生日には家に帰ろうと決めていた。
そして、移住の相談をしようと…。
すると、その事を知った南相馬の仲間が、たくさんの土産を持たせてくれた。
『これはおふくろさんに食わせてやってくれ。』
『お前は食うな!』
という但し書きのついた土産の数々…。
果物に野菜にお菓子に…。
『ふざけんな御前ら!』
『こんな事されたら、俺が泣いてしまうだろうが!』
そんな事を想いつつ帰路につく。
2011年9月の事だった。
2か月ぶりの実家は、何も変わってはいなかった。ただ、福島の浜通りの9月とは違い、埼玉の9月はじっとりと暑かった。
母親は元気だった。
久しぶりだった訳だが、何だか落ち着いた雰囲気があった。
父親が死んで3年、だいぶん元気を取り戻していた頃だった。
お盆に姉貴一家が泊まりに来たらしい。孫が来て賑やかだったと話していた。
仲間が持たせてくれた、南相馬からの土産を渡す。
母親は感動のあまり泣いていた。
そしてその時、全てを悟ったらしい。
『南相馬に移住したいと思ってる。』
『そう言い出すと思ってた。』
姉貴と話していたらしい。
『光司は福島の人になるんじゃないか』
と。
参った!
すべてお見通しである。
そして、二つ返事で
『行きなさい』
と言ってくれた。
こっちはもう泣きそうである。だがこれは、道を見つけたならその道を行きなさいという意味だ。泣いてる場合じゃない。
その時見えてた道はまだ草ぼうぼうだ。だが、送り出してくれたからには、絶対に何とかしたい。いや!何とかしなきゃ!
それからは、引っ越しに向けての具体的な作業だ。
当時の南相馬は、賃貸物件は、復興作業員の宿舎や避難者向けの『みなし仮設住宅』としてことごとく借りられ、空き物件は無かった。
普通に不動産屋を回っても、どこの店でもにべも無く断られた。ネットの電話帳に載っている南相馬の不動産屋全てに声をかけたが、結果は同じ。
空き物件は、物件情報だけでも、最多で140件待ちだった。
という話を、南相馬でお世話になっていた、Hさんとは別の顔役に話したところ、なんとその情報待ちの列に割り込ませてくれたのだ(笑)。知り合いの不動産屋に声をかけてくれて、物件を案内してくれたのだ。
『現在、南相馬で唯一の空き物件です』と言われて案内されたその物件は、部屋の形が四角形じゃなく、五角形をしていた。
…ペンタゴンじゃん!
軍曹がペンタゴンに住むんだ!
仲間の一人がそう言った。
…むぅ…確かに。
ウマい事言いやがる。
かくして私は、ペンタゴンに移住する事となったのだ。
これが、2011年10月の出来事である。
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