高校も大学も中退し、就活もしていない波瀾万丈な人生を歩んだ私が、学校教育を変えたいと決意した話

1 / 5 ページ

私は、せっかく入学した高校を、理不尽なことがキッカケとなり高校2年の時に自主退学し、その年に大検(大学入学資格検定)を取得し、大学へ進学するも、家計の事情により仕事をせざるを得なくなり、大学も中退しました。


元々福岡出身だったのですが、出稼ぎのため茨城の工場で半年間みっちり仕事をし、家計の問題を解消させ、福岡へ帰りました。


世間を賑わせた派遣切りが起きる1年半ほど前だったので、頑張れば頑張るだけ稼ぐことができました。

社宅があったので、基本は職場と家の往復ばかり。

休みの日でお財布に余裕がある時だけ、社宅の近くのホテルから出てる高速バスを使い、片道2時間半ほどかけて東京へ遊びに行ってたもんです。


性格的に都会っ子のようで、茨城の社宅周りでは全然満足できず(茨城の方、失礼…。)、新宿を始めとするターミナル駅周辺を見まくっていたんですが、ふつふつと東京で仕事がしたい!と思うようになり、出稼ぎを終えて福岡へ戻った1年後に、再度上京することになります。


IT系の仕事で国内企業から外資、ベンチャーまで経験した後、学校教育を変える事業に興味を持つわけですが、本ストーリーでは、卒業で言ってしまうと「中卒」であり、社会が良しとしてきたレールから外れまくり、多分、波瀾万丈な人生を歩んできた私が、何故、巡り巡って学校教育を変えたいと決意するまでに至ったのかについて書いていきます。


いわゆる普通の人生を歩んでいないが故にできた様々な経験は、今ではとてもよかったと思っているし、カネもコネもない自分ができたこと、やってきたことを自伝のように公開することで、似たような境遇だったり、辛く感じてる人の何かのお役に立てればいいなと思っています。


■SMAPすら知らないゲーム少年

生まれは鹿児島だが、物心ついた時は、福岡に住んでいた。

いたってフツーの子供(しいていえば、レゴブロックが大好きだった)で、小学校に入ってからはゲームに夢中な日々。

今では当たり前に子供が夢中になっているポケモンも、当時はブーム前であり、ゲーム好きな私がクラスで流行らせたなぁ。


その頃はあまり意識していなかったけど、我が家は裕福だったらしい。

欲しいゲームはなんでも買い与えてもらえてたし、テストで良い点を取ったご褒美として、当時発売されたばかりのドラクエ6を学校をズル休みしてやりまくっていた。

…もちろん、クラスメイトにはゲーム目的で休んだとバレていたが。


望みはなんでもやらせてもらえていたが、ポケモンの全国大会だけは参加させてもらえなかった。

たしか、東京は危ないところだから、という母親の意見だった気がする(笑)

あの頃は福岡では敵なし(自称)であり、テレビで見るだけだった強者との戦いをやってみたかったのだ。


このように書いても酷さがわからないと思うが、夏休みなんかは、起きてる間ずっとゲームをしていた記憶がある。

当然ゲームばかりだったため、J-POPなんて知らず、テレビもロクに見ないため、友達との話題もゲームになる。

J-POPなんて知らなかったし、SMAPすら聞いたことがあるレベルだった(笑)



そんなゲーム少年は小学校時代、2回の転校をして、3つの小学校を経験する。

ゲームばかりで人と感性が違ったせいか、3つ目の小学校では、いわゆるいじめにあい、ちょっとした不登校にもなった。


■野球に大ハマリ。そして家族の転換期

そんなゲーム漬けも小学校の終わり頃には一旦落ち着き、今度は野球になっていた。

何故野球か?


ようやくJ-POPやテレビというものに興味を持つようになった榊原少年は、イチローにゾッコンになってしまったからだ。

「将来の夢はプロ野球選手!!」と小学生あるあるwww的な夢を語りだし、バッティングセンターにも通って特訓を開始。

ゲームもコナミの「実況パワフルプロ野球」シリーズなど、野球モノばかりになった。


中学校では野球部に入り、学校以外は野球か、ドカベン(野球漫画)を読むか、プロ野球とかスポーツニュースを見るか、という生活を送っていた。

イチローに憧れ、外野手を希望していたが、ドカベンを読んで、白新高校の不知火守にも憧れ、ピッチャーに転身。

ホント我ながら単細胞である。



とはいえ、学校が合わないのは相変わらずで、中学2年の時には既にクラスで浮いていた。

嫌々ながらも通い、勉強も程々に野球に打ち込み、日常のストレスを発散させていた。


そして中学3年を迎え、2学期のとある日、学校へ急に電話がかかってきた。


「母親が倒れた---」


!?


最初はワケがわからなかった。

当時は学年集会のようなイベントで3年生が全員体育館に集まっていた時、1人荷物をまとめて帰宅する。


母親は昔から身体が強く、風邪一つ引かない人だった。

今思うと、固定概念が強く、思い込みや間違った認識もあったが、とにかく家族のために尽くし、食べ物も一番良いところを私に与えてくれていた。


小学校2年の頃、父親がバイクで大事故にあい、二度と歩けないと診断が降った時も、毎日病院への往復(徒歩)と、家事炊事洗濯をこなしていた。

ちなみに、父親は奇跡的に回復し、今は普通に歩けている。


そんな母親が倒れたわけだから、驚かないハズがない。

割りと自宅に近い病院で一次診療をしてもらった結果、違う病院へ行くことに。


向かうことになった先は、『独立行政法人国立病院機構 九州がんセンター』



これまでの無理が祟ったのか、よく吸っていたタバコが原因だったのか、母親は肺ガンだった。

それも重度の。


さすがに強かった母親も、精神的に参っていた。

そして学校でのいじめもだんだんエスカレートし、私自身も参っていた。

母親がたまに私に当たりだす。

今考えると当然かもしれない。構って欲しかったんだろう。

だが、当時の私はそんな気持ちなど露知らず…。


ストレスの矛先を恋愛に向けていた。

相手は、学校のマドンナに近しい人だった。

笑顔がとにかくキュートで清楚で、勉強もすごくできた(主要5教科のテストで500点満点中、480点は余裕で超えていた)。


当時の榊原少年は何を血迷ったか、クリスマスプレゼントを渡して告白しようと考えた。

家庭科の先生から個人的に教わった下手くそな裁縫スキルで、手編みのマフラーを作った。

血迷いすぎて我を失った私は、ダイエーに駆け込み、ダイエーの商品でもないのに包装をお願いする。



だがろくな手順など知らない私は、前日に身体が縮こまるほどの勇気を振り絞って電話し、

その子が通っている塾の近くのカフェに呼び出した。


だが、暗くて浮いてた私が急に呼び出したせいか、不安がったその子は、友達(しかも同じクラス)を連れてきていた…。


その子の友達はその時だけ空気を読み、二人きりにさせてくれたが、プレゼントは受け取ってもらえず、木っ端微塵に玉砕した。

更にあろうことか、その子の友達がお喋りなクラスメイトに「榊原くんが○○さんに告白して振られた」と吹聴。

なにやってくれたんだよ…。


家にも学校にも日常を感じることができなくなった私は、木っ端微塵に砕け散ったクリスマスイブの日、家出した。

とはいっても、適当なマンションの駐車場で一晩を明かしただけである。


だけど捜索願いが出されていたらしく、クラスメイトも協力して俺を探してくれていたらしい。


翌日、自宅へ帰り、怒られはしたものの、事情を理解してくれた親に助けられ、あまり深く追求されることはなかった。


母親がガンで精神的に負担をかけてはいけない時期に、なんてことをしてたんだ俺は…と今では深く反省している。

それにしても、その才色兼備の美女は今どうしているのだろうか。

たまにFacebookでも検索してるのだが全然出てこない。

知っている方居たらご一報して欲しい。



■中学校卒業と母親の死

3学期---

初日に学校へ行ったが、どうやら学年全体に俺がそのマドンナに玉砕したことが伝わっていたらしく、異様な空気だった。

そんな空気に耐えることなどできるはずもなく、完全に不登校になる。

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。