高校も大学も中退し、就活もしていない波瀾万丈な人生を歩んだ私が、学校教育を変えたいと決意した話

2 / 5 ページ


保健室が居場所だった。

保険の先生は、それまで怖い人という印象だったが、私が事情を洗いざらい話すと、全てを受け入れ包み込んでくれた。

たまに担任の頑固な先生が私を連れ戻しに来るが、保険の先生が形相を変えて私を守ってくれた。

だんだん申し訳なく思い、私は学校にも行かなくなっていった。


母親が入院する国立九州医療センターに共に寝泊まりする日々が続いた。

学校も塾も行かなくなり、高校受験も2ヶ月前ぐらいを迎えたあたりから、急に成績が伸び始めた。

これまでわからなかったところが途端にわかるようになったり。

お陰で、高校受験は、最低限受かりたかったところへ受かることができた。


中学の卒業式だけは未だ覚えている。

その日だけは、俺を含め、不登校になった人たちが集結した不思議な日だった。

式が終わり、校庭で仮の解散となり、あとは各々が写真撮ったり話したりしてる中、俺だけは足早に学校の門を出て、家路へ急いだ。

こうして嫌で嫌で仕方なかった中学時代は終わった。



高校は自宅から自転車で1時間程のところにある。

その頃、母親は抗がん剤や放射線治療が効いてきたのか、快調に向かっていた。

でもまだ安心できない。


当時は中学3年の1割ぐらいが携帯電話を所持し、私のように高校に上がるタイミングで携帯を買ってもらえる人が多かった。

当時は学割のCMで安さをアピールしていたauの携帯電話を買ってもらった。


本当は学校へ持ち込むことはできなかったが、担任の先生に母親の事情を話し、特別にOKをもらっていた。


義務教育と違う高校教育は新鮮で楽しかった。

クラスメイトも、いわゆるいじめをやるような連中は居なかった。

少し安心していたゴールデンウィーク明けの5月7日---

急に母親の病室でアラーム音が鳴った。


医師が急いで駆け寄った。

私と父親は病室に入れず、外で待つよう言われた。


本能的に嫌な予感がしたが…それは当たっていた。

様態が急変し、大量の吐血と共に意識を失い、そのまま亡くなった。


身内の死というのは、少しばかり実感できず、だんだん現実と感情が一致してくると、途端に悲しみが増大し、止まらなかった。

そのうち目を覚ますんじゃないかとずっと思っていた。

そんなことあるはずないのに、何事もなかったかのように起きるんじゃないか、起きてほしい、と思っていたのだろう。


結局、母親には親孝行らしい親孝行はできなかった。

与えてもらったものと返したものだったら、比較できないほど与えてもらった。

だから今は、美味しいお店を見つけたら、更にそこから選りすぐりなところに父親を連れて行ったりしている。

親孝行、したい時に親は居ずって言葉もあるぐらいだから。



■恋、恋、恋。そして高校中退

高校時代は、人並みに恋もした。


まず、担任の先生。

ドラマではありがちな展開だ。

担当は英語で、一回り年上だったが、綺麗で素敵な先生だった。

告白して玉砕したが、なんだかんだ優しくしてくれ、先生の母親とも仲良くなり、よくしてもらえた。


高校2年になって担任も変わり、その先生も当時の彼氏と結婚を控えていたあたりから、違う恋をようやくするようになった。

ふと小学校の頃にいいな~と思っていて、仲がよかった子に会いたくなった。

当時の卒業アルバムには、今では想像できないだろうが、卒業生の住所と電話番号が書いてある。


その子は、身体が病弱で、自宅に居る時は酸素ボンベが手放せない子だった。

小学校3~4年の頃に一緒だったが、たまに体調不良で学校を休んでいて、当時は家が近かったからプリントを届けてそのまま遊んでいた。


その子への恋は、私がすごく重い存在になっていた。

気を使うことが悪い方向へ向かい、相手が重たく感じるほど尽くしてしまったことで、それがかえって負担に感じさせ、その恋がうまくいくことはなかった。


順序が逆になってしまったが、高校2年になり、野球もゲームも趣味レベルになって以来、何故か書店通いをするようになった。

理由は覚えていない。

でも漫画や小説ではなく、自己啓発本を立ち読みしまくっていた。

マーフィーの法則シリーズだったり、○○才までにやっておきたい○○、などだ。



そういうものを読みあさるうちに、高校の勉強に疑問を抱くようになった。

高校1年の頃、好きだった担任の先生に猛アピールするため、勉強しまくり、クラス2位、学年6位を叩きだしたが、全国模試では悲しいくらいの成績だった。

その時に思ったのは、学校のテストで高得点を取るための勉強と全国模試や大学入試で高得点を取るための勉強法は違う、ということだった。


そして高校2年からの選択授業が、それまでの学力テストの結果が考慮されていなかった。

日本史か世界史かを選択する必要があり、日本史に人気は集中。

私も日本史を選択したが、選択者が多すぎて、世界史を選ぶことになった。


加えて、私が通っていた高校は、卒業生の半分が福岡大学へ進学していたためか、カリキュラムが高校2年から福岡大学受験寄りになっていった。


決定打となったのが、高校2年の時の担任の先生が課した理不尽な連帯責任制度だ。

学校は今も昔も変わらず、縦横綺麗に机を並べて座っていると思う。

それに対して、自らが座っている列の"誰かが"宿題を忘れると、"その列全員に"ペナルティの課題が出される。

その課題は、古文の単語を300回ずつ書いてくるといった、全く何の意味もないものだった。

しかも当時の私が座っていた列には、宿題をよく忘れるやつが居た(笑)


別にその宿題を忘れるクラスメイトを恨んではなく、どちらかというとそのような変な連帯責任制度を作った担任を恨んでいた。


学校のテストと大学入試テストの差、選択制授業とカリキュラム、理不尽な連帯責任…

それらがリンクした時、「退学したい」と思って行動していた。


退学という決断に踏み込めたのは、自己啓発本や受験勉強本のお陰もある。

これらの本のお陰で、高校に行かなかったり、高校を辞めたりしても社会で生きて行けている事例を知ることができていた。

もちろん事例としては少ないだろうし、確率で言うと低いかもしれない。

でもできた人いるんだから、私にだってできるって思っていた。

明確な根拠があったわけでもなく楽観さもあった。それが功を奏したのかもしれない。


父親は、最初は反対だったが、説得したら何も言わなくなった。

学校側も、担任の先生だけは最後まで反発していた。

後で知ったことだが、既に自主退学者が1名居て、私が2人目になる。

退学者が出るとボーナスに影響が出るらしい。


ちなみに学年主任の先生はむしろ、

学年主任
やりたいことが見つかった故の退学なら歓迎すべきじゃないですか!!

と言っていたそうな。

今考えると、すごい良い先生だった。今なら惚れる自信ある(おじさん先生だけど)。


担任の先生は

高2担任
高校の時の繋がりは一生モノだから、今学校を辞めるとそういう友人たちとの繋がりもなくなる。
今辞めたら、10年経った時に絶対後悔する

などあの手この手で言ってきたが、私からすると、

榊原
高校を辞めたぐらいで繋がりがなくなるような友人は最初から要らない


と思っていたからなんともなかった。

そして今はFacebookがある。

高校2年の頃、3ヶ月ぐらいしか繋がりがなかった人ともFacebookやLINEで繋がれ、今も仲良くしている。


結局、3ヶ月ぐらい辞めるまでにかかってしまったが、無事に退学し、自由な世界で生きることとなった。

著者の榊原 正幸さんに人生相談を申込む

著者の榊原 正幸さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。