【Part 6】「とりあえず、統合失調症患者になった自分が語る、26歳の人生。」~ついに帰郷編~

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著者: 桑原 和也

 第三章~大学を卒業しても~




・親の反対を押し切り、専門学校へ


・大卒のプライド、箸が転んでもおかしい生徒たち


・無視、無視、隠し味に「お前誰だよ!!」


・卒業と同時にマイカー購入。アルバイトへ。


・コンビニバイトでも、ちょくちょく顔を出す統合失調症。


・「職業訓練校」


・「穴は深く掘れ、されば穴は広がらん」



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・親の反対を押し切り、専門学校へ


 「ちょっと、休まない?」


 それが、卒業した自分への、母親の第一声だった。


 激務と天変地異。慣れない引っ越し。と、かけずり回っていたのだから、少し休め!と、言う意味だったのだが、


 「就職できない自分は無価値だ。」


 と、思い込んでいた自分は、


 「なんで、専門学校入らせてくれないんだよ!」


 と、ブチ切れたりした。


 今思うと、「職業訓練校」などの、無料で受けられる就職訓練制度などがあるのだから、無理せずに、身体を休める。意図的にニートになる事を、勧められていた。


 自分は、卒業論文を制作し、口頭試問も終わり、卒業証書を貰わないまま大学を卒業したため、まだまだシューカツが残っている。と、思い込んでいた。


 今思うと、


 「焦るな焦るな!無理をするな!無理をするな!!」


 と、両肩をポンポンと叩いてあげたかった。


 そんなタイムマシーンも無いので、今、ここに、書き記しておく。






・大卒のプライド、箸が転んでもおかしい生徒たち


 こうして、フライングゲットして始まった、専門学校生活だったが、うるさい。とにかく、うるさい。


 狭い教室に四〇人がすし詰めにされ、ピーチクパーチク鳥のさえずりだったらよかったのに、うるさい生徒たちの声で、先生の声が聞こえなかった。


 今までの読者だったらわかるだろう。もう、発症の土壌はできているのだ。


 そこでは、六月に向けた「簿記三級」の勉強をしていた。


 「利益」、「純利益」、「負債」、…ぐらいしか思い出せない。


 隣で猛烈に紙一面にびっしりと何かを書いている生徒がいたり、安息の日が無かった。


 そんなどん底だった自分に、転機が訪れた。  


 天気が良かったその日、自分は、学校を休むことを電話で伝えた。


 その日は、ラーメンズの小林賢太郎のソロプロジェクト、「Potsunen(ポツネン)」の新潟公演があった為だ。昼の公演だったので、一時は売りに出そうかと思ったが、行かなくては一生後悔すると思い、断腸の思いで長岡から新潟へ足を運んだ。


 自然豊かな「りゅーとぴあ」と言う会場で行われたソロ公演は、落語あり、地元でしか伝わらないネタありと、小林賢太郎の愛情を、一心に受けられる公演だった。


 最後のカーテンコールで、


小林賢太郎
「僕は、この公演を中止しないか。と打診された(東日本大震災のため)。でも、やるんだ!と言ったんだ!」



 万感の拍手。


 

小林賢太郎
「もう、人の幸せに飢えているから、今年、何か新入生とか、いないの?」



 という問いに対して、自分は勇気を出して、手をあげた。


 

小林賢太郎
「お!がんばってね!」



 天にも上がるほど、うれしい出来事だった。


 しかし、一時の蜜の味と、日々の地獄は、つり合いが合わない。


 時と同時に、祖父が足を骨折した。


 川に時計を捨てたと思いこみ、その川に足をつっこみ、滑って骨折してしまった。


 母親がお見舞いと仕事の両立をしている中、自分は、何もできないでいた。


 祖父がほぼ回復していた時、母親が祖父に、


 「ちょっと、ベッドで眠らせてくれいや」


 と言い、祖父がそれを了承した。


 ベッドで母親が眠っていると、医師と看護士がやってきた。


 最初は、寝ぼけていた母親だったが、すぐに異変に気付いた母親は、顔を真っ赤にして、


 「申し訳ありません!」


 と言い、医師は、


 「疲れていたんでしょうね。大丈夫ですよ。ゆっくり寝てってください。」


 と、優しい声をかけてもらったという。


 祖父は、ゆっくりと外を見ていた。


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