「死」が突然目の前にやってきた 〜出会いから看取るまでの2年半の記録

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2010年3月。
突然現れた、「死」の問題。
人は「死」の問題が目の前に来た時にどのように対処するのだろう。


同棲中のパートナーが、末期ガンの宣告を受けた。
すーっと身体を冷たいものが駆け抜けていった。


嘘だと思いたかった。
なぜ私がこの問題の前に立っているのか。
本当に私がパートナーと共に、ガンなどというものと闘うのだろうか。
この私が、パートナーと共に、「死」と闘うのだろうか。



実質闘病期間半年間。
1日1日が長く長く感じた半年間。
ずっとわけがわからなかった。
何が正解なのかわからなかった。
ただただ必死だった。






それは突然の


2007年12月27日。

仙台でメーカー勤務だった私はいつものように残業をし、帰宅した。
時間は、22時過ぎ。
真っ暗な部屋が一定のリズムで赤い光に照らされている。
電気を付けてバッグを置き、その光の元を押す。


「もしもし~ 菅原です。菅原譲斗です。」


ええぇーーーーーー!!!



私の愛読小説の作家本人からの留守電だった。



彼の新作が出ればすぐに購入するほどのファン。
しばらく多忙で机に山積みになっていた本を1年ぶりに読んだ。
すっかり楽しんだあと、あとがきを読んでいると、
彼が自らのファンサイトを作ったこと、そこに会員登録すれば描きおろし小説を
直接ファンに送るというサービスを始めたことが書かれていた。
申し込み方法は手紙。


驚き焦った私は、必要な手続きを記入し急いで郵送していたのだ。
ファンを大切に思っていた彼は、申込者にお礼の電話をしていた。



思いもよらない人からの留守電をドキドキしながら聞く。
「何時になってもいいので電話ください。」
それで留守電は終わった。


うわーーーーーーーーーー(汗汗汗汗)



受話器を持つ手を震わせながら正座して、
「何時になっても」というのだからと電話をした。



彼は挨拶をすると、本名を教えてくれた。
思いの外弾む会話。
東京出張の予定があることを伝えると、会おうということになった。



自分の身に起こったことが不思議でならなかった。
嬉しさ半分、怖さ半分。
こんなに緊張感のある出張があっただろうか。




2008年2月16日夜。
新宿で待ち合わせ、食事に行った。
彼は彼自身が書く小説の主人公そのもののように思えた。
いや、そうありたいと思っているのかもしれない。
どの小説の主人公にも恋をして読んでいた私。
翌日になる頃には、お付き合いをすることになっていた。





仙台 同棲の始まり






付き合い始めて1週間ほど経った頃、彼からのある告白を聞く。
彼は20年ほど前作家デビューした。
その作品は大ヒットし、映画化もされた。
その後数年ヒットは続いたものの、バブル崩壊と同時に少しずつ売れなくなっていった。
私と出会った時は、経済的に厳しい状況にはなっていた。


冗談のように言っていたけれど、
「いよいよとなったらお前のとこに行ってもいいか?」
というのは半ば本気だったろうと思う。


しかしその3ヶ月後、「やっぱり巻き込めない。別れたほうがいい」と言われる。
悩んだ末、私は別れる決断をした。



とはいえ会いに行くことは無くなったけれど、
彼の仕事を一部手伝っていたこともあり、連絡はずっと取っていた。
結局なんとなく付き合い続けるような形になり、
程なく経済的に本当にせっぱつまった彼を、
「仙台に来る?」と仙台に呼んだ。



一人の男性を、いわば養うということが自分に出来るかどうかわからなかった。
自分の仕事の給料を考えても、余裕はないだろうと思う。
それでも、私は彼には書きたいものを書きたいだけ書ける、そんな環境を提供したいと思ったのだ。



私は覚悟を決めた。
やるしかない!
ずっと一緒にいられる・・・という喜びもあった。



彼が引っ越して来る前に、住む場所を決め引っ越しておかなければならない。
住まいの環境や飲食に強い拘りのある彼が、納得するような場所を探さなければ
ならないが、時間もない。


小説家にとって環境が大事なのではないかと思っていたので、
見晴らしがよく、部屋数のある物件をと、会社帰りや休日探し歩いた。
やっと見つけたその物件は、不動産会社の社長のお知り合いの物件で、公開していない物件。
T病院のすぐ近く。中心街まで徒歩圏内。会社まで自転車で15分という好条件だった。



2009年2月28日。
彼は仙台にやってきた。
ホッとするまもなく、その日からさらに修行のような日々が始まった。





発病 生きた証を作るんだ


日中は会社へ行き、帰宅してから彼の仕事を手伝うという日々。
食事も掃除も洗濯も買い物も、もちろんする。


それまでずっと一人暮らしで、家のことは適当だった私の生活は一変した。
家は休まる場所ではなくなった。


それでも彼の服を選んだり、好きそうな食材を選んだりすることがとても嬉しい。
一人ではなくなったということが幸せに感じていた。
怒られたり、罵られもしていたが、その幸せを手放したくなかった。
ずっとこの人と生きていこうと思っていた。




2009年6月。
彼は不調を口にするようになる。
飲み込むと胸の真ん中に引っかかりを感じるという。
姿勢が悪いのかとか、環境が悪いのかとか言いながら、
いろいろ対策をするも、一向に改善しない。


病院に行くことを勧めてみたが、彼は首を縦には振らない。
その様子は、まるで自分の寿命を知っていて、自分の生きた証を最期に作り上げたい
と言っているようにみえた。



「生きた証」というのは、彼が大事にしている作品を見直し編集し、それを電子書籍として
紹介、販売するというサイトを作り上げることだった。
サイトを作るのは私。
完成には、私がもっと彼の思いを受け取り、彼のイメージ通りに作成を進めなければならない。


会社でも家でも仕事の状態に、疲れて休みたい

わからない、できない・・・

なかなか作業は進まなかった。


私の疲労は蓄積し、彼の病状はゆっくりゆっくり悪化していった。




2009年12月30日。
本人が生きた証だと言ったものが、やっと完成した。
怒鳴られ、呆れられ、涙しながらもやっと完成した。


「ありがとう」
彼は涙を流して喜んだ。
作家になるはじめのきっかけをくれた亡き父親も喜んでくれていると言って。


久しぶりに抱きしめたその身体は、ドキッとするほど痩せていた。

不調を訴えてから半年。
その時、すでに液状にしなけば、彼は食事が出来なくなっていた。





「死」が突然目の前にやってきた


いよいよ病院を勧めたものの、うんと言わない。
「ショックな宣告を受けて寒い中帰るのは嫌だ」


普段から「明日はないと思って生きるんだ」と言って、
ダラダラしようとする私を叱咤していたのに。


しかし仙台の冬は東京に比べたらそれは寒い。
もともと九州出身だからなおさら寒く感じるだろう。
慣れない土地で、友達もほとんどいない。
そこで命の宣告を言われるのは、そりゃ嫌なものだろう。


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