【第四話】『彼らがくれたもの』〜死に場所を探して11日間歩き続けたら、どんなものよりも大切な宝物を見付けた話〜
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機会があったら、またお話ししたいと思う。
姉は、それからずっと病気と闘い続けた。
薬の副作用で髪の毛は抜け落ち、もの凄い吐き気に襲われ、
顔ははち切れんばかりにパンパンに浮腫む。
そしてある日、
目を覚ますと、手足が震え、1人で立ち上がることも出来なくなった。
運動神経が良く、リレーの選手に選ばれるような足の速かった姉は、
この日を境に、身体障がい者になった。
障がい者という言葉を使うは好きではないが、
姉自身、「障がい者になった」ということに一番のショックを受けていたため、
敢えてこの言葉を使わせてもらう。
そんな経験をしてきた姉は今、
自分の力で生活をしている。
姉の辛さは勿論のこと、
姉と同じくらい、いや、それ以上に辛い思いをしていた人がいた。
それは、両親だ。
姉が入院してから、母は、毎日病院に通った。
朝、小5の姉と小3の僕を学校に行かせ、
午前中に家事を済ませ、夕ご飯の支度をし、病院へ行く。
面会時間を過ぎても、
「帰らないで」
と言う姉を残して、夜の10時頃に家に帰る。
こんな生活をしばらく続けた。
当時幼かった姉弟は、事態の深刻さが分かっておらず、
両親も、そう思わせたくなかったのだろう。
姉が病気になった14歳から、27歳で就職をするまで、両親は姉をとなりで支え続けた。
僕ら家族を支え続けた。
2個上の姉は、中学生に入ってからグレた。
毎日夜の10時過ぎまで、幼い弟の母親代わりをするのは小5の姉には酷過ぎる。
お姉ちゃんばかりの面倒を見る親に、本当はいつも甘えたかっただろう。
そして、見付けた親の目を惹く唯一の方法がグレることだった。
それはまぁ、酷い反抗期だった…。
毎朝、母親とのケンカから始まり、
留年寸前まで授業には出ず、親は学校に呼び出され、荒れまくっていた。
僕が中1の頃、親に聞いた。
僕:「姉ちゃん、いつになったら反抗期終わるの?」
母:「高校に入ったら落ち着くよ!」
だが、高校に入って、ますます酷くなった。
僕:「いつになったら反抗期終わるの?」
母:「卒業したら、落ち着くよ!」
反抗期は終わらなかった。
僕:「いつになったら反抗期終わるの?」
母:「20歳になったら落ち着くよ!」
そして、姉ちゃんの長い反抗期は終わった。
本当は20歳を過ぎてもまだ反抗期だったが、だいぶマシになった。
母は、こんな家庭を支え続けた。
母は、いつも明るかった。
いつも、どんなときも子どもと向き合い、支え続けた。
僕の部活も応援してくれ、試合は毎回見に来てたし、
練習をしたくてたまらなかった僕らのために、地区センターを借り、
練習する場所も作ってくれた。
僕が学校である事件を起こした時も、いつも味方で居てくれた。
いつも元気で、子ども達を励まし、
僕らの前では、ほとんど弱音を吐かなかった。
父は、いつも仕事が忙しかった。
子どもと接するのが下手だった。
当時は、そんな父が苦手だった。
でも父は、どんなときも働き続けた。
どんなに辛くても、働き続けた。
姉が病気と診断されたその日からタバコをやめた。
父は、子どもたちには何も言わなかったが、自分に出来ることで家族を支えていた。
人脈を使い、病気の情報を集め、治療法を探した。
子どもたちに何不自由ない生活環境を与え、
一日何万円とかかる高額な治療を続けることが出来たのは、紛れもなく父のおかげだ。
改めて両親の偉大さ、そして、ありがたみを知る。
心から感謝をしている。
少し話は逸れたが、
僕が死を意識したとき、決まってこの3人が頭に浮かんだ。
こんなにも「死」は悲しみを生み、
「生」は生きる希望を与えることを教えてもらったのに、
今僕は、死を選ぼうとしている。
そんな自分に憤りを感じた。
心から、死んでいった友人、病気に勝った姉、共に闘った家族、
僕を支えてくれている人たちに心から申し訳ないと思った。
しかし僕は、この先も生きていける自信がなかった。
僕は、生きたいのか?
それとも、死にたいのか?
僕は納得出来ないと何も出来ない人間だ。
「確かめに行こう。」
生きたいのか、死にたいのか、
白黒ハッキリさせようじゃないか。
それから僕は、自分の本当の気持ちを確かめるために旅に出る。
死んでいった彼らに、彼らの家族に、
姉に、自分の家族に、このとき僕は助けられた。
「生」そして「死」
彼らは、答えこそくれなかったが、
また僕に生きるチャンスを与えてくれた。
「答えは自分で見付けてやる!」
僕は、そう決めた。
つづく…
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