愛されない
私はパートナーが亡くなってから、真剣に考えた。
もしこのまま自分の人生が終わったら、私は後悔しないだろうか。
私はなぜ生きているのか。
私は何をするのか。
何かできることがあるのか。
これまで人一倍人生考えて生きていると思い込んでいたけれど、
何も考えてないと言われたことと、パートナーの生き方を思った時、
私は自分の利益になるように、自分が得するようにということしか考えずに、
だらだらとただ時間を浪費して生きていたことが見えてきた。
やばい。。このままじゃダメだ。
私は今までやってきた、知ってる、わかってると思ってきたことを
すべてなかったことにすることにした。
何もできてない。やってないのと一緒。
何もちゃんと知らない。なにもわかってない。
すると、ついわかってるフリをしてしまう自分にも気付いた。
出来る人に思われたい。いい子だと評価されたい。
そんな思いがあることに気付いた。
がっかりした。見たくなかった。知りたくなかった。
自分を捨てたい思いに駆られた。
ショックだった。
「本当の自分を知るからこそ、謙虚になれる。人に感謝できる。」
そう教わった。
涙が溢れた。
ああ、本当だ。
やっと私はスタートラインに立つことが出来たということ。
勇気を振り絞って、分からない、知らないと素直に言うことにした。
そう言ってはいけないと思っていたけれど、言うことにした。
言ってみるとバカにする人もなく、親切に教えてもらえたし、楽になった。
自分の心の中にいろんな汚い思いが浮かぶこと。
すぐにネガティブな感情が出ること。
動けない自分。言い訳する自分。
そういう自分を勇気を振り絞って認めることにした。
認めた後、なんでそんな風に思うようになったんだろうと考えてみた。
小さい頃から考えてきたこと、思ってきたことを思い出してみることにした。
そして思い出した感情や、今出てくる感情などを書き出したりした。
そうしていたら、ある日気づいた。
心の奥底に、「愛されない」という思いがあることに。
びっくりした。驚いた。
え・・・・
頭が真っ白くなった。
信じられなかったけれど、それが正しいと仮定してみることにした。
「愛されない」と思っていると仮定すると・・・
いろんなことに辻褄が合う。
認めざるをえない・・・
「愛されない」と思っていたんだ・・・。
ああ、だから愛されたいと強く願っていたんだ。
愛されることを求め続けるんだ。
で、本当に私は愛されていないのか。
そのことは、こうして幼い頃からのことを書き出して、
客観的に見てみるとそれは間違った思い込みだとわかってきた。
祖父の行動も、父の言動も、母の言動も、
それぞれに彼らなりの経験の中で一番安全で幸せだろうと考える世界の中で、
一番いいものを子供に与えていた結果だった。
例えそれが、私が嫌だと感じる言葉だったとしても。
例えそれによって彼らの意とは逆に私が傷つくことになっていたとしても。
祖父は祖父なりに。
父は父なりに。
母は母なりに。
私を愛してくれていた。
祖父は私に手を上げることはなかった。エイヒレの煮物を分けてくれた。
父は私に手を上げたことはあったけれど、それは私を思っての行動だった。
父は私の言うことを頭から否定すること無く、話し遊んでくれた。
母は私が将来幸せになることを思い、自分が考えられる範囲の中で最高の環境を作ろうとしてくれた。
いつも見栄えや形のいい食べ物は私たちに、自分は残りのものを食べていた。
兄は4歳下の私と一緒に遊んでくれた。
いじめられていると見れば助けてくれた。
頼ればいつでも助けてくれた。
友は私が鬱病手前の状態になった時、
「友達の私にも何かできることがあったはずなのに・・・」と泣いてくれた。
「私が友達?」と驚く私に、「当たり前じゃん!」と叱ってくれた。
そして主人は、私と一緒にいることを選んでくれた。
そのままの私がいいと言って、手を繋いでくれた。
今まではそんな一つ一つさえも、本当は愛されてないんじゃないか・・・と
猜疑心の強い私は思ってしまったけれど。
今でも少しそういう疑う気持ちになったりするけれど。
でも今は、愛されていることを信じることができる。
理由を並べる事はできないけれど、じわ~っと感じることができる。
愛されている。
愛してくれる存在がある。
なぜこんな私を?という思いも浮かんでくるけれど、
そんなことよりも、愛してくれる存在がとにかく有難い。
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