愛されない

8 / 12 ページ





◆ 母と話せない



私がたぶん小学3年生の頃だったか。

母は手術と長期の入院が必要な病気に罹り、入院した。

入院した市立病院は自宅から徒歩1分のところだった。


術後、母の血液を少しでも増やすためと、

私は毎日学校に行く前に母の病室へ行き、鶏レバーの焼き鳥を持っていくのが日課になった。

それが有効な行為だったのかどうかわからない。

でも、母が元気になるためにと病院に通うのは私にとって苦痛ではなく、

むしろ大きな病院に入っていけるのが嬉しかった。

持って行くと、満面の笑みを見せる母を見るのが嬉しかった。



それが成長するにつれ、母と話すことが面倒になっていった。

中学生になり、英語の塾も辞めた。

部活は友人の誘いで陸上部に入った。

楽器や合唱など、音楽に関することをやって欲しかった母にとってはますます面白くない。

母は口を開けば、勉強しなさい、手伝いなさいとしか言わなくなっていった。


母にしてみれば、自分の計画が狂ったのがおもしろくないのだ。

それも一番身近な父親が狂わせた原因を作ったと思ったのがおもしろくない。

さらには私も父の味方。父が好き。母の味方ではない。

そんな風に母は感じていたかもしれない。


自分の方が稼ぎ、自分が家も建て直し、自分の方が父より子供たちの幸せになる道をわかっている。

そう信じている母にとっては、本当におもしろくないことだった。



私は徐々に母から距離を置くようになっていった。

自分でも無理かもと思ってる大きな夢話しをする私の話を、

「おーすごいな」と肯定して聞く父と、

「そんなしょーもないこと言ってないで、やることやんなさい」と否定する母。


私が中学3年生になる春には、兄が大学に行くために家を離れた。

家の中には両親と私の3人。

父がいる時、父にはいろんな話をした。

しかし母も聞いていると思う環境の時は何も話さず、自分の部屋に行くようになった。

そうして母とあまり雑談をしなくなっていった。



母にとっては辛いことだったろう。

兄もあまり母と話さない感じだったから、母は雑談をすることがあったんだろうか。

自分の味方、よすがは子供たちしかいないと思っていたであろう母。

その子供が自分と話をしない。自分を避けているように感じる。

それはきっと母自身にもどうしたらいいかわからない、辛いことだったろうと思う。



高校受験。

県立高校(共学)は受ける学校をすでに決めていた。

ほぼ大丈夫だろうと学校の先生からも言ってもらっていた。

ただ一応滑り止めも受けることになった。


理由はきっとみんな滑り止めを受けるから。

受けるものなんだなーくらいな感じ。特段受けたい私立高校も無かった。


進学校に一番近いという私立高校を受けようかと思っていたら、

母が女子校を勧めてきた。

いわゆるお嬢様学校のような学校だった。


女子校がどのような学校なのか、無知すぎて興味もなくて全く分からなかったが、

自分が行くのは県立高校だという思いもあって、

そのくらい母の希望通りにしようと女子校を受けることにした。


女子校受験当日。

初めていった女子校。家からとても遠く、隣は男子校。

どこを見ても女生徒ばかり。

休憩時間も女子、女子、女子。


女子校なんだから当たり前なんだけれど、その時の私にとっては驚きだった。

「こんな高校を受験しに来たの??」

同年代とうまく付き合えなかった私には、女子校に通うことは一種の罰のように思えた。


とてもこの高校には通えない・・・。


絶対に県立高校を落ちるわけにはいかない。

内心すごく焦り、県立高校の受験勉強をそこから真面目にやった。

無事県立高校に合格。すごくホッとした。



中学生頃から母と私の好みはますます違ってきた。

服も好みが違う。

買ってきてくれる服に魅力を感じない。

いい生地でいい仕立てのものなんだと思うけれど、かわいくない。

自分でお小遣いで買って着ていた。


明らかに母が買ってくれたものはあまり着ないのを見て、

母も次第に「あんたの好みはわからない」と言うようになっていた。


申し訳ないな。

そう感じはするものの、やはり着ようとは思わない。

なんとか他の服と合わせて着ようともしてみたけれど、合わない。

合わせられなかった。


例えば母と一緒に買い物に出かけても、

私が好きだと思う服を持って、「これがいい」と言っても、

母の基準で、素材が悪いだの色がどうのとダメ出しをされるので、私が妥協してしまうのだ。

妥協して買った服は、やはりあまり着ない。


高校生になるとそれはますます顕著になり、

母の好むものはまったく私の趣味に合わなくなっていく。

母とは趣味が違うのだと割り切るようになった。



大学に行った兄は、年に2回ほど帰省した。

帰ってくる度に考え方などがしっかりしてきたと母には感じられたようで、

私に対して「お兄ちゃんはしっかりしてきた。あんたもしっかりしないとだめだよ」

なんてことを言う。

おかげでますます母を鬱陶しく思うようになっていった。



 どうせ私はいい子じゃない。

 どうせ私のことは愛してない--

著者の西澤 佳子さんに人生相談を申込む

著者の西澤 佳子さんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。