愛されない

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正直そこまで欲しいわけでもなかった。

音が出るのが面白いだけで、弾けるようになりたいとまでは思ってない。

でも母の提案にのれば、母に「いい子」だと思ってもらえると思い、「やる!」と言ってしまった。

それで小学1年生から毎週英語とピアノの塾に通うことになった。


通ってみれば、新しいことを学べるので楽しくないわけではない。

ただピアノの先生はミスタッチをすると手を叩く先生で、私はそれがすごく嫌だった。

でもそれを母には言えなかった。

間違う私が悪いのだから、練習しなさいと言われるだけだから。


本当はやりたくない、行きたくないのに我慢して行っていた。

弾けるようになっていっても、楽しいと思うことはなかったように思う。


こういう些細なことが小さな身体にストレスとなって溜まっていったのかもしれない。



同居していた祖父が病気で亡くなり、母はますます家に他人が入り込むのを嫌うようになった。

叔母たちが出入りするのは元々嫌っていたが、

祖父の仏壇へ手を合わせに来るのを止めるわけにもいかない。


そんな母の気持ちを知らず、叔母たちは家に来てもてなされるのは当然という体だったし、

父もそのことには疑問を持たなかった。

普通に考えれば、叔母たちの行動は別に変でもないあたりまえのものだったと思う。

ただ母にとっては、それまでずっと我慢して耐えてきた不満や怒りがあり、耐え難かったのだ。

誰かそんな母の気持ちに共感して聞いてくれる人がいたら、状況は違っていたかもしれない。


母は父が自分の気持ちを理解してくれないことに、ますます失望し、

自分より稼ぎの少ない父を見下す発言を私たち子供にもし続けた。

さらには叔母たちへの愚痴も私にし続けた。



私自身はと言えば、近所の子供達とも仲良くできず、

いつも兄の後ろに隠れていたり、兄に助けてもらったり。

小学校でもあまり同級生と仲良くできず、何人かの一緒に遊ぶ友人がいただけだった。


小学生になっても身体が弱いのは相変わらずで、

急に息が吸えなくなったり、皮膚病も頻繁に患っていた。捻挫も頻繁。


風邪から5つの病気を併発したのは小学4年生の時だった。

しばらく寝込み、塾も休んでいた。

心配し体力を付けさせようと考えてくれた父は、PTA役員をしていた事もあって学校に掛け合い、

私は5年生から水泳部に入れてもらうことになった。


それまでカナヅチだった私。

先生は一から教えてくれた。

まずは水に浮かぶこと。

「力を抜いてごらん。大丈夫だ。浮かぶから。」


怖かったけれど、先生の言うことを信じてみようと思った。

そして恐る恐る力を抜いた時、ぷかっと身体が水に浮いた。


うわっ

うかんだ・・・・・


感動だった。

そして私は背泳を専門にやることになり、どんどん水泳が楽しくなっていった。

水泳部の練習時間とピアノの塾の時間が重なっていたこともあり、ピアノは辞めた。


英語の塾には通い続けた。

塾で友達が出来たわけではなく、行き帰りは一人で歩いていたのだが、

英語の勉強は少し楽しかったのかもしれない。

小学校6年生の時に英検3級の試験に合格したのは、嬉しかった。



母にとってはピアノを辞めたことは面白くなかった。

水泳を勧めた父をチクチクと責めた。

母は自分の考えの方が、父の考えより正しいと思っていた。

いや、父の考えなどちゃんと聞いたことなどなかったかもしれない。

父は自分に自信が持てないために、意見を聞かれてもあまり答えることをしないから。


私のせいで言い争いをしているのは、聞いていたくなかった。

でも私はピアノを辞めたことにまったく後悔もなく、水泳が楽しく水泳ができることが嬉しかった。

気持ちは父寄りだったけれど、それをあからさまに態度には出せないと思っていた。


禁止ばかりする母よりも、好きなことを言う私の話をウンウンといつでも笑って聞いてくれ、

どんなことでも「おおすごいな。やってみろ」と言ってくれる、そんな父が大好きだった。

仕事でも市に表彰されたことがある父。

家の中に飾られたその額縁は、私を誇らしい気持ちにさせてくれていた。



母がピアノを強く子供にやらせたいと思ったのには理由がある。

母が教師を志すにあたり、ピアノだけは思うようにならなかった。

ピアノは子供のうちからやり始めなければ指が動かないと知り、

自分が出来なくて困ったことを、子供に同じ思いをさせないよう習わせたかったのだ。

教師が一番いい職業だと信じている母の計画は、子供を将来教師にさせることだった。


母は運動は得意ではなかったらしく、

だから自分の子供も運動が得意なはずはないと言い切っていた。

私が水泳を始めたのは、父が私の健康を思っての事だったが、

母には父の愛情よりも、自分の計画を阻害されたという思いの方が強かったのだろう。


そんな母の気持ちは感じていたけれど、それよりも私は水泳が楽しくてしかたなかった。

ずっと泳いでいたいほどだった。

肌をすり抜ける水の感覚が本当に気持ちよかった。

先生の的確な指導でみるみる泳げるようになり、市の大会で3位になった。


しかし、それもそこまでだった。

私は中耳炎になってしまった。

一度なると繰り返すという中耳炎。その通り私は中耳炎を繰り返すようになってしまい、

小学校を卒業すると同時に水泳は続けられなくなってしまった。



いつも忙しそうだった母。

自営業だった父。

その2人が言い争うのは聞きたくなかった。

私が勉強が出来たら喧嘩しないんじゃないか。

私がいい成績を取ったらお母さんはお父さんを責めなくなるんじゃないか。

周りの人が「お嬢さんはいい子ですね」

と言うようだったら、母は笑っててくれるんじゃないか。

そう思っていた。


ただ私が病気になった時だけは、成績とか行いとかではなく私自身を母は見てくれるような気がした。

心から心配してくれるような気がした。


病気は苦しかったけれど、私自身を心配してくれるのは嬉しく感じた。

私は病気になっていたかったのかもしれない。





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