障がいがある私と、仕事の話 1

前話: 障がいがある私と、仕事の話 0
次話: 障がいがある私と、仕事の話 2

私は、1983年に長女として生まれた。

父親も母親も、祖父母も親戚もそれはそれは私の誕生を喜んでくれた。


私の手の指は、人よりも短かった。

爪がない指もあった。


大人になるまでずっと、自分の障がい名を知らなかったのだけれど

私の障がい名は、先天性絞扼輪症候群というものだ。

お母さんのおなかにいるときに、へその緒が指に絡まって成長をしなくなった

ということらしい。

これは自分で調べたことを記憶に今書いているから、語弊があるかもしれない。



今も別に自分の障がいについて調べなおそうと思ってもいないし、

詳しく知りたいとも思わない。

気にしない。。。と言ったら嘘になるけど、調べたところで指は伸びないし

研究者でもないからどうしたらこの障がいになるのかとかは興味ない。





だいぶ人生遡るけど幼稚園時代の話を。




私の通っていた幼稚園には体育の時間があった。

体操着に着替えて、結構本気の体育の時間だった記憶がある。

決してお遊びではなかった。

私はその体育の時間が好きではなかった。先生は外部から来る男の先生で

声も体も大きいし、当時の私にとってはスパルタだったと思う。



その日は鉄棒で、逆上がりを練習する日だったと思う。私はそれまで逆上がりができたことがない。

なにより、自分の手で鉄棒を握って腕の力で体を回すということができなかった。

幼稚園児の手は小さい。さらに私の手は小さい。できっこない。

みんなの前で恥をさらすのは嫌だ。きっとそんな風に思った。


順番に鉄棒をするのだけど、私はできなかった。

ほかにもできない子はいた。

でも、私の手では鉄棒は握れない。この握力では無理だ。

また次回も鉄棒の時間がきっとある。次は休もう。


そんな風に考えた私は、次の体育の時間がある曜日に仮病を使った。

一回目はうまくいくけど、二回目は通用しなかった。

親が先生から聞いて、私が鉄棒がある日は幼稚園に行きたくないことを知っていた。

家の近くが職場だった父はいったん家に戻ってきて、泣き叫ぶ私を車へ放り込み

幼稚園へ向かった。私はみんなと同じ手じゃないから鉄棒ができないって言ってるのに、

どうして分からないんだ。私がみんなと同じ手なら鉄棒はできた!

そんなことを思ってはいたけど、言う力もなく、ただただ私は行きたくないと泣き叫ぶだけだった。




正門にしがみついて離れない私を先生と両親がはがす。

あっけなく私ははがされた。

正門の向こう側に行ったら私は今一番恐れている鉄棒がある。



昨日できなかったことが今日できるわけがない。

私は今日もできなかった。手のせい。無理。



くったくたになって家に帰ったら、庭に鉄棒があった。

自分の背よりも高い、幼稚園にあるものよりも高い鉄棒だった。

私を溺愛するおじいちゃんがホームセンターで買ってくれたものだった。

これで練習せよということか・・・・

その日から私は毎日鉄棒の練習をした。

手の力も大切だけど実は蹴りあげる力はもっと大切かもしれない。

握るのは大変だけど、この手を離さなければ落ちることはない。

そんなことを発見しながら私は何百回も鉄棒に向かった。




どれくらいの日数を練習したか分からないけど、できた日が来た。

あっけないくらいくるっと逆上がりができた。

その時の感情は忘れたけど、できなかったのは手のせいじゃない。

仮に握力とか握り方のせいだったとしても、練習すればできる日がくる。それはよくわかった。


私は、幼いながらにできないことを、障がいのせいにしたことを恥ずかしく思った。

自分を卑下しているうえに、できない。こんなに悔しいことはない。

もともと持っている力が人より劣っているなら、人より何百倍も努力が必要。

何百倍も努力してやっとみんなと同じになれる。



この経験は、私の障がい者として生きていく土台になった。

今も、新たなことにチャレンジするときは鉄棒の経験を思い出している。




幼稚園時代の私は、もうひとつ、障がい者として生きるうえで大切なことに出会った。

それはまた次回書くことにする。

著者のtakada ayaさんに人生相談を申込む

続きのストーリーはこちら!

障がいがある私と、仕事の話 2

著者のtakada ayaさんにメッセージを送る

メッセージを送る

著者の方だけが読めます

みんなの読んで良かった!

STORYS.JPは、人生のヒントが得られる ライフストーリー共有プラットホームです。