ジャッキー・チェン、英検1級、京大、阪大医、名大医

1 / 5 ページ

>
著者: キョウダイ セブン

ジャッキー・チェン、英検1級、京大、阪大医、名大医。

1980年のことだったと思う。まだジャッキー・チェンさんがそれほど大物になっていない頃で、初来日だったかもしれない。彼は通訳をつれて当時の人気番組であった「TVジョッキー」に出演した。ちょっとした縁で、私は彼の引き立て役のような役回りで出演させてもらった。

  田舎者の私は上京してTV局を訪れても、右も左も分からずキョロキョロしながら案内されたスタジオに向かった。すると、一人の男とすれ違った

「ハロー」

 と言ったので、

「変な日本人だなぁ」

 と思ったら、それがジャッキー・チェンさんだった。

ジャッキー・チェンと「TVジョッキー」で共演しました。↓

(7000回再生)https://youtu.be/sMdPLgzTjeQ  

  さて「TVジョッキー」ジャッキー最後の出演コーナーですが、私はこのシーンが今回のジャッキー「TVジョッキー」出演における最も貴重かつ興奮したシーンでした。まずはいきなり『燃えよドラゴン』のテーマ曲に乗ってブルース・リーことリーさんの物真似男性(恐らくは一般のファンの人でしょうけど、このちょっと中村頼永さん似のリーさん信者の詳細情報求む!)がスタジオに登場!
それにしても、この中々気合いの入ったリーさん信者の物真似アクションを傍らでジャッキー・チェン本人が見ている!これは相当凄いシチュエーションです!!
そしてリーさん物真似男性が自分のパフォーマンスをヌンチャクならぬホース・ヌンチャク(爆笑!)で締めてくれた後、またも土居さんの掛け声でいよいよジャッキーが演武を披露する時がやって来ます!(拍手)。
 出典 ↓http://blog.goo.ne.jp/dragonfever1127/e/1d6bbb638b3b47a64308eabda348c6ee?st=0#comment-form

もう30年以上も前の話だ。1982年に、私はアメリカのユタ州ローガンで中学教師をしていた。11月に入ると町中がクリスマス一色になり、ネオンで飾られた。ある日、子煩悩の理科教師アランがアジア人むけの支部教会に私を一緒に連れて行ってやろうということになった。

  彼にはベッキーという小学四年生の娘さんがいて、母親が先に教会に行っているとのことだった。アランは

「これはベッキーへのプレゼントなんだ」

 と嬉しそうに話していた。裕福な家庭ではなかったのでささやかなプレゼントだったが、赤いリボンで飾ってあったのを覚えている。雪が降っていた。教会についてパーティ会場に入るとアジア人の家族が数組みえた。その服装から遠くからでもアメリカ人でないことが分かるのだ。

  私は当時、ローガン中学校の難民クラスで英語を教えており金髪娘と知り合うのであろうと思っていたら体臭のきついベトナムやカンボジアの生徒たちになつかれてしまいガッカリしていたものだ。彼らは見るからに貧しい服装をしていた。アメリカ人の中学生たちは

「あいつら、臭い!」

 と私にこぼしていた。

  母親と一緒にいたベッキーはアランと私を見つけると笑顔で近寄ってきた。とても可愛い子だった。そして、すぐにプレゼントに気づいたようだった。ところが、アランは奥さんとベッキーの隣にいたアジア人の家族の方を見ていた。父親と母親と小さな女の子がいた。

  そして、その小さな子に近づくと

「これ、さっきサンタさんにもらったよ。キミにだって」

 と言って用意してあったプレゼントを渡してしまった。少女の父親は驚いて、困った顔をした。母親も黙って見ていた。私がベッキーが怒ってしまうと思い、ハラハラして横に立っていた。

  小さな女の子は何事か分からないまま、赤いリボンの小さな箱を胸に抱きしめて

「サンキュー!」

と言った。

ベッキーは黙って目の前で起こっていることをながめていた。私はどうなることかと思ったが、そのまま何事もなかったようにパーティは終わった。

  私は後日、アランの家に招かれたときにベッキーに

「どうして、あの時にアジア人のパーティで黙っていたの?」

 と尋ねたら、

「だって、私のパパは世界一なんだもん」

 と言った。私は驚いてしまった。

「こんなことが日本で起こるだろうか?」

  ベッキーはあの夜に人を喜ばせることが、どういうことなのかを知ったのだろう。

  クリスマスが近づき、日本の中学生やモンスターペアレントと日々格闘していると

「夢でも見ていたのか」

 と時々思い出す。1982年の、あのクリスマスの夜にベッキーは父親から何物にも代えがたいプレゼントを受け取ったのではないだろうか。それを贈ったアランもえらいが、受け取ることができたベッキーもえらい。

  そして、私自身にも何物にも代えがたいプレゼントだった。誰もきづかない小さな出来事だった。

  あれから30年以上経過した。塾生の子がときどき

「先生は、なんでここまでやれるの?」

  と尋ねてくることがある。たぶん、あの日のできごとが影響している。

 私の亡き父はウザかった。高校入試の合格発表についてきたし、就職したら2時間以上かけて勤務していた塾まで挨拶にきた。

  高校2年生の時までは、理系に進むつもりだった。ロボットを作りたかった。しかし、四日市高校は当時男子の割合が高くて男子クラスがあり、私はその男子クラスに放り込まれた。

今もその傾向があるが、当時も男子生徒は理系が多くて私はその中で理系に行くのが当然だと思って勉強していたが、数学の勉強を始めるとめまいがするような感じがし始めた。

 それは、公式の成り立ちを納得していないのに無理やり使わされることに生理的な拒否感が生まれたらしい。模試の結果によると、文系なら難関国立大に合格できるけれど、理系だとそこまではムリという結果。泣く泣く「教育学部」に進むことになった。

生きていくには英語講師になるしか選択の余地はなかった。しかし、その英語でも真摯に向き合うと問題だらけだった。

  最初に

「何かおかしいぞ」

 と気づいたのは、1982年にアメリカのユタ州ローガン中学校で社会の授業をしている時。同席していたネイティブの教師が、しばしば私の授業を中断して生徒に向かって説明し始めた。

「ミスタータカギが今使った単語の意味はね、---」

 と解説を始めた。それで、一番仲のよかった理科教師のアランに

「なんで私の授業を中断するのかな?」

 と相談したら

「お前の英語は綺麗だけど、ビッグワードを使いすぎなんだ」

 とアドバイスをくれた。それで、注意して職員室の会話などを聞いていると、確かに中学レベルの英語を使っている。自分が受験勉強で習った難解な単語など全く出てこない。

 not more than と no more than の違いなど、使わないのだからどうでもよかった。私の塾生たちは、高校で与えら得た「システム英単語」を使って単語をいっぱい覚えているが、多分ムダになる。

  アメリカから帰国した私は公的な資格を取ろうと思って、とりあえず英検1級の過去問を書店で入手した。そして、知らない単語や表現を見つけてウンザリした。

  もはや、高校生の時のように

「頑張って勉強しないと」

 と自分を責める気になれなかった。私はネイティブの助けを借りて問題を解き始めたが

「これは何だ?なんで、日本人のお前がこんなものを」

著者のキョウダイ セブンさんに人生相談を申込む