第百四十八章 「星に願いを。ER 救命救急室」(2)
第百四十八章
「星に願いを。ER 緊急救命室」(2)
アメリカ人なら、やりたいことを一直線。日本人は、
「人は適当に勉強して、適当にサッカーをするのが正しい」
と言ったら、
「はい。そうします」
というタイプが多い。私の指導させてもらってきた優秀な子たちは、そんな子たちではなかった。納得のいかない指示に従うはずがない。
「私はピアノのレッスンがあるから」
と言って、学年主任にクラブ免除を認めさせ、学校の課題は役立たないので提出しないと宣言し、授業は勝手に自分の問題集をやって、教師に口出しさせなかった。強烈な思いがあったら、そうなる。教師は認めたし、口出ししなかった。
本気なら、教師だって受け入れる。人のひいたレールをなぞるのが人生なんていうのは、本気でやってない。マンガでも、声優でも、考古学でも、料理でも何でもいい。全人生を賭けて悔いのない対象があったら、
「どうすれば成績を上げられますか」
なんて、質問をするわけがない。必死でやれば、次の課題は自ずと明らかになる。
「あいつはエラッそう」
とか、下らぬ誹謗中傷を気にするヒマがない。人生は短いのだから、価値のあるものに使いたい。
志望校に合格するのも、そのために成績を上げるのも、しょせん道具を手にするだけのこと。
「あいつは、オレより3点上だった」
なんて、全く無意味な会話だ。私が指導させてもらってきた成績優秀な子たちは、ちっちゃい子は少なかった。視線がずっと先に向かっていて、目先の1点や2点にこだわらなかった。
そういう余裕が点数を上げる秘訣なんです。
ところが、日本では少しでも変わったこと、目立つことをすると
「やめろ!」
圧力がハンパない。大規模塾に勤務したら
「あなたが英語も数学も指導できると他の講師が迷惑なんだよね」
だし、英検1級をとろうとしたら
「中学生や高校生にそんなレベルの英語なんか必要ない」
と、いう善意の人もいた。
生徒が四日市高校や京都大学に合格したことを発表したら
「そんなことしたら、バカは教えないみたいで感じ悪い」
なのに、娘さんが急病になったら、その「やめろ!」コールを浴びせていた“変わった”伊藤先生のような人に助けてくれるように懇願する。勝手なものだ。
お陰様で、一方に私のような人間を支持してくれる中学生や高校生はいつの時代にもいてくれたので、この塾は30年以上続いている。ありがたいことだ。
皆さんは、ケーキ作りの上手な人、歌のうまい人、マンガを描く達人など、さまざまな人がいてくれてよかったでしょう?左翼の教師が言うような、スポーツも少しでき、勉強もちょっとでき、人間関係に配慮する「バランスのとれた」人ばかりでは世界はつまらない。
私は「ゆがんだ人」が好きだ。
みんな違っていい。違うのがいい。ケーキ屋さんは三角関数など必要ない。漫画家はスケートができなくていい。芸人は勉強ができないネタで生きている人もいる。
バランスが取れているというのは、何もできないことを別の言い方をしただけ。左翼教師が望んでいるのは、何もできない同じタイプの人の大量生産。そんな社会はソ連のように崩壊するし、面白くない。
多くの保護者の方たちは、自分の子供に
「先生の言うことをよく聞きなさい」
と言いながら、自分の子どもを「何もできない役立たず」になるように後押ししている
企業が生き残るためには「差別化」、つまり他の企業と違うことを打ち出さなければならない。個人レベルでも、自分はライバルと違うことを明確にしないと出世できない。「違う」ことに価値がある。
ところが、学校では
「人と違うことをするんじゃない!」
と、和を重んじた指導を強調する。特に、左翼の先生はそうだ。このような教育を受けると、社会に出て生きていけない。
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