インドの洗礼 第2章 その1 〜マーライオンは突然に

著者: 鎌田 隆寛

突然、目の前がチカチカし始めた。

手が細かく震えている。手の平が真っ白だ。

「おいおい、大丈夫か?」

友人達が心配そうに顔を覗きこんでくる。恐らく、顔色も手の平とほぼ同じ色で、蒼白になっていたに違いない。

「大丈夫」

と、言いたいところだが、言葉が出ず力無く微笑む。

いや、微笑んだというよりは、「いびつに顔を歪めた」という方がしっくり来るのかもしれない。

胃袋が、まるで誰かに絞られているかのようにギリギリと痛む。

喉の奥が、まるで別の生き物のようにヒクヒク動いている。

次第に、口の中が酸っぱくなり始めた。

唾液が止めどなく流れ出てくる。

こいつぁ、ヤバい。

部屋を出ようと椅子を立ち上がる。

が、予想以上に力が入らずに驚いた。

穴の空いたバケツから水が漏れ出すかのように、ヘソのあたりから生命エネルギーが流出しているようだ。

どこか。どこかないか。

頭の中は、それだけで一杯。

と、死に物狂いで辺りを見回していた目が、ソレを見つけた。

枯れかけた植物がまばらに突き刺さった、大きめの花瓶。

安堵して緊張が途切れたのか、そこでついに臨界点に達した。

そして、

俺は、

マーライオンになった。

混沌と喧騒の国、インド。

安全であった筈の空港のタクシーにボラれた挙句、街中に放り出された俺と友人二人は、それでもなんとか環境に適応して、生き延びていた。

例えば、買い物。

店で売っているモノには、まず値札なんてものは無い。全ては「言い値」である。

店員が最初に口にする値段。日本円に換算すると驚きの価格なのだが、ここで「いいね!」なーんて飛びつくのは厳禁。

大体が現地人向けの価格の倍以上、通称「日本人価格」だから。

店員の言う価格なんて飛んでもねえ!なんて知った風で、自分でも悪いな〜って価格をふっかけてからが交渉開始。

よく映画で、ヒットマンが雇い主と分け前の割合をネゴるあの感じで押して引いてして、お互いが合意した価格が売買価格。

まあこれで交渉してる額って、日本円にすれば数十円程度なんだけど、インドルピーでは札が飛ぶか飛ばないかの問題。

いつの間にか、向こうの金銭感覚に馴染んで値引き交渉してるから不思議だ。

毎回何か買う度にすったもんだするのがちょいめんどくさいけど。

ただ、飯は美味い。

まあ確かにカレーだらけではあるけど、日本のラーメンと同じで種類がメチャあるし、スパイスの配合の仕方で味がガラッと変わるので飽きない。

カレーと一緒に出てくるナンなんて、カレーと一緒に食わなくてもウマし。

中華料理屋もそこら中にあるので、ちょっと味変えたかったらチャーハン頬張ることもできる。

美味いもんたらふく食って、お会計日本円にして数百円。

食べ盛りの貧乏学生三人組。そのお財布には非常に優しい環境なのだ。

「地球の歩き方」には衛生環境が劣悪だとあったけど、正直大したことない。

てか俺たち大学生だし、やっぱ若いから胃腸丈夫だし。

念の為に、正露丸と百草丸持ってきてるし。

ここまで食事はガイドに乗ってる有名レストランで済ませてきたけど、せっかくだから現地の人と同じもの食べに行ってみよう。

誰からともなくそんな声があがり、少し大通りから入った路地に屋台を見つけ、飛び込んでみることにしたのだ。

なめていた。

インド人の免疫力を。

過信していた。

自分達の胃腸と正露丸を。

そして、知らなかった。

たった今足を踏み入れたのが、地獄の入り口だったってことを。

続く

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