思い出のバスに乗って:南国土佐を後にして

著者: Sodebayashi Costa Santos Yuko

桜の花咲く季節になると、わたしには台所に立ちながらふと口をついて出てくる歌が二つある。

一つは、美空ひばりさんの「柔」だ。
「勝つと思うな思えば負けよ 負けてもともと」
「奥に生きてる柔の夢が一生一度を待っている」
「口で言うより手の方が速い馬鹿を相手の時じゃない」
「往くも止まるも座るも臥すも 柔一筋夜が明ける」

この歌には人生の知恵と哲学が凝固されているとわたしには思われる。だから、食事を作りながら小節(こぶし)をきかしてこの歌を唸ると、わたしはとても元気になるのだ。演歌そのものは、わたしはあまり好きではないのだが、これは別である。

「柔」と歌う部分を、心の中で「自分の夢」に置き換えてみると、苦境に立ったときも、起き上がり頭(こうべ)を上げて、また歩き出せる気がするのだ。この歌に、わたしは何度も勇気付けられて今日まで来たように思う。

もうひとつは、「南国土佐を後にして」
「南国土佐を後にして 都へ来てから幾年ぞ」で始まるこの歌は、昭和34年にペギー葉山が歌って大ヒットした。日中戦争で中国に渡った第236連隊には高知県出身者が多く、この部隊が歌っていた「南国節」をヒントに創られた歌だと聞く。

わたしの古里は桜まつりで有名な弘前である。それが何ゆえ「南国土佐」なのかと言えば、その桜まつりに関連する。

わたしが子供のころ、「桜まつり」等とは呼ばず、「観桜会」と言ったものである。夏のねぶたまつりと並んで、観桜会には、雪国の長い冬を忍んで越した津軽の人々の熱き血潮がほとばしるのだ。

弘前公園内は3千本もの桜の花咲き乱れ、出店が立ち並び、木下サーカスやオートバイサーカスが毎年やって来ては、大きなテントを張った。

「親の因果が子にむくい~」の奇怪な呼び込みで、子供心に好奇心と恐怖心を煽った異様な見世物が不気味であった。演芸場が組み立てられ、津軽三味線やじょんがら節が流れた。

わたしが12歳のころ、その年の観桜会でNHk「素人のど自慢大会」の公開番組があり、わたしは生まれて初めて往復葉書なるものを買い、こののど自慢大会出場参加に応募したと記憶している。
どんな服装で出場したかはもう覚えていない。

しかし、今のようにお出かけ用の服など持っていなかったのだから、想像はつく。きっとあの頃いつもそうであったように、両膝っこぞうの出た黒っぽいズボンであろう。黒は汚れが目立たないのであった。

そして歌ったのが「南国土佐を後にして」。聴衆に混じってその場で見ていた母の話では、「出だしはとてもよかった。これはヒョットすると鐘三つかな」と親ばかにも期待したそうである。

ところがである。上がっていたわたしは後半がいけませんでした。伴奏より先走ってしまったのであります。「土佐の高知の播磨橋で」に入る手前で、鐘がなりますキンコンカン、いえ、二つが鳴りましたです。
恥ずかしさにうつむいて退場。

後年、客として通っていた大阪梅田のビアハウスに頼まれ、アメリカ留学資金を貯めていたわたしには渡りに船と、バイトで歌うことになったわけだが、わたしはこの歌を台所で歌いながら、さぁ、こい!今なら鐘三つもらうぞ!と端迷惑にも、ついつい力を込めて大きな声を張り上げてしまうのだ。

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